竜田軍の道場はさほど広い訳ではない。それだけで国内における軍部の地位の低さがわかるが、普段この広さで事足りるので文句を言うつもりはない。けれど決闘となると相手国の兵士はこぞって応援するので場所が足りない。結局、普段演習に使う館の裏の小山に急遽見物席をこしらえた。
 その光景を見て、吉野は深く溜め息を吐き出す。佐保の軍人たちが集まって応援しているのはいい。国のお偉方が息抜きがてら見物に来ているのも別にいい。どうしてうちの兵がこぞって応援しているのかが不思議でしょうがない。吉野と並んで来た聖は特に疑問がないのかさっさと木刀を肩に担いで出て行ってしまう。軍服を着崩したいつもどおりの聖の姿に兵たちは歓声を上げ、佐保の兵たちは言葉を失くした。それが更にこちらの気をよくした。


「貴方たち、何をしているんですか」

「師範の応援ですよ?」


 吉野が溜め息混じりに聞くと、近くにいる兵が当たり前だと答えた。みんな揃いの鉢巻を締めて「師範ー!」と応援している姿は異様ですらある。まるでアイドルのコンサートのようだと心の底から呆れながら吉野は相手の陣営を見た。みんながみんな進んで応援に来たと言うわけではなくただ事務的にそこで大将の応援をしているという風体だった。うちとは大違いだ。


「仕事はどうしたんです?」

「師範の応援の方が大切ですよ!」


 いつの間にか惣太と鉄五郎が寄って来て、団扇を持ってはしゃいでいた。完全にお祭り騒ぎだ。それもしょうがないのとなのかもしれないが、佐保の兵が来たおかげで通常業務が滞っているのが現実だ。佐保一行を迎える準備だとか、合同業務だとかで辛うじて警備体制は稼動しているもののそれ以外の仕事が動いていない。おかげで川下の地域の水が枯渇しそうだ。
 一丸となって応援する腹つもりの兵を見て吉野はニッコリと笑い、珍しく腰に佩いていた得物を抜いた。それでもって手近な木に向かって一閃させ、その木が倒れる頃には兵全員が吉野を見て青ざめている。


「全員、大将が負けるとでも思ってるんですか?」

「お、思ってるわけないじゃないですか!」


 笑顔を浮かべているけれど吉野が完全に怒っている。竜田軍はこぞって体を竦めた。体面には佐保の兵たちが何事かと好奇の目で見ているし、国の重役たちも自軍の仲たがいに不快そうに顔を歪めている者もいれば心配そうな顔をしている人もいる。
 その何ともいえない空間の中で、惣太だけが辛うじて反する言葉を発しえた。慣れとは凄い。鉄五郎は必死で首を縦に振っている。


「だったらこんなところで油売ってないでください。勝つと決まった試合なんて見てても面白くも何ともありませんよ」

「そりゃそうですけど……」

「それとも、聖さんが負けるのを期待してるんですか?」

「違います!俺たちは師範が爽快に敵を倒してくれるのを見たいんです!!」


 惣太の反論に兵全員がしっかりと頷いた。彼らは別に義務感を感じて応援をしているわけではない。彼が負けるかもしれぬという懸念もない。相手の実力を知らないくせに、どうしてか彼らは大将が勝つことを確信している。負けるなどと思ってこともない。ただ聖の雄姿をその瞳に映したいと思っているだけだ。それこそミーハー気分の現れである。
 一歩も引く気のない兵たちに吉野は溜め息を吐き、踵を返した。「僕は仕事をします」と言った後、少し開けて苦笑を浮かべる。


「貴方たちも、いい加減に仕事に戻るんですよ」

「はい!」


 副将からお許しが出たので、兵たちは拳を振り上げた。これで心置きなく師範の雄姿に心酔できる。
 その騒ぎを聞きながら体を解していた聖は苦笑して肩を回した。吉野が珍しく好戦的に、意味のないように思える挑発をしていった。あの副将に言われたところで引かない兵がいることが嬉しかったし、仕事が一つ減ったのも嬉しかった。あとで宴会の準備をしなくて良さそうだ。
 聖が愛用の木刀を引っ提げて中央に歩いていくと静かな敵陣営から巨漢がゆったりと姿を現した。相手は軍服ではなく胴着である。無駄に良く似合っていた。異常に彼から殺気を感じるのは吉野のおかげだろう。


「随分自信がおありと見える」

「すんませんね。なんかあいつ虫の居所が悪いみたいで」

「ふん。その自信をへし折って奇麗な顔に消えない傷を刻んで進ぜよう」


 そう言って口の端を引き上げ、男は木刀を構えた。途端に統制の取れた応援が向こうの陣から聞こえる。対して、こっちは統制も何もあったものじゃない。各々が勝手に叫んでいるような轟音だった。けれど聖は、こっちの方が気に入っている。ゆっくりと口の端を引き上げると、木刀の切っ先を持ち上げた。ゆらゆらと、聖自身を現しているようにそれは揺れる。


「これはただの試合ではなく決闘だ。心得よ」

「上等っ」


 先に仕掛けたのは聖だった。木刀を一度引いて間合いを詰めると、いつの間にか逆手に持ち替えて右腕を振るう。風を切った木刀を男は間一髪避けて、振り上げた棒を思い切り振り下ろす。けれどそれは見事に空を切っただけに終わった。聖の姿は既に間合いの外に逃げている。
 相手のブーイングと味方の歓声。それがどの行為に対してのものかは分からないが、聖は全く気にせずに間髪いれずに詰めてきた春美の木刀から僅かに上体を逸らして避け続けた。四撃目を半歩引いて避け、そのまま体を低くして足を狙って木刀を横に薙ぐ。それを男は飛び上がることで回避した。回避ついでに男が棒を真下に向けて突き立てる。地面を蹴ってそれを避け、十分な間合いを取って聖は肩を竦ませた。腕を捲くりなおして目を眇める。


「強ぇじゃん」

「お前もな、若造」


 刹那の攻防で分かったが、相手は確かに弱くなかった。かといって強敵と言うわけでもない。ただ、刀で倒せそうではなかった。決闘だといっても木刀を持っている時点で本気の試合ではないような気がしていた。これが自分の兵であったなら遠慮も情けもなくぶちのめすが、相手は一応客人だという意識があったようだ。ちゃんとした剣術を行おうとしている。
 聖は無造作に刀を放ると、素手をポケットに突っ込んだ。敵陣からの嘲笑とお偉方の驚愕が綯い交ぜになる。そのあとに、後ろから盛大な溜め息が聞こえる。


「師範が木刀手放したらもう終わったも同然じゃないっすか〜」

「もうちょっと楽しませてくれると思ったのに!」

「うっせぇぞお前ら!俺が爽快に倒すとこ見てぇんだろうが」


 意味を理解している自国の兵に怒鳴り返し、聖は持ち上げた右手で挑発するように敵を呼んだ。
 何も知らない周囲は聖が武器を手放したことで自暴自棄になっていると思っているようだし、竜田軍の兵たちからしても強ち間違っているとも思えない。ただし、その方向性は正反対だ。聖が武器を無くしたら弱いんじゃない、強くなる。武器と言う制約がなくなったことで半端ない強さになってしまう。だからこそ、勝負は簡単につくだろう。


「勝てないから自棄でも起こしたか」

「早計は破滅を招くぜ?」

「ぬかせ!」


 勝利を確信したのか、春美が駆け出してきた。竜田軍営から「あぁ〜」と簡単とも諦めともつかない溜め息が漏れる。男が聖の間合いに入った瞬間、彼の視界から目の前にいたはずの飄々とした男は消えていた。背後に殺気を感じて振り返れば、にたりと笑んだ小奇麗な顔が近くにある。伸びてきた手から、本能的に飛び退った。


「い、いつの間に……」

「瞬間移動〜、何てな?」


 飄々と笑って、僅かに開いた間合いを詰める為に聖は駆け出す。素手と木刀ならば間合いは木刀のほうが広い。聖が間合いに入った瞬間に春美は木刀を振り下ろした。がその前に聖の体が傾いで軌道から逃げ出し、長い足に足元を攫われた。バランスを崩した所に、上体を地面すれすれまで低くした状態で手で重心を取った聖が後ろから足を回してくる。強かに背を打たれ、息が詰まった。どうにか吹っ飛ぶことは避けられたが、それだけだった。前のめりになって無防備な顔面に正面に立った聖の膝がめり込む。今度こそ吹っ飛んだ。


「師範格好いいー!!」

「ひ、卑怯者!」


 観衆の声がどちらの兵のものか分からないけれど、受身を取って春美はすぐさま起き上がった。鼻から血が出ているようだ。骨が折れてなければ良いが。口の中も切れている。ぺっと血交じりの唾を吐き出して木刀を構えなおしたが、腕は震えていた。
 圧倒的な暴力と言うものを初めて体感した。恐れや恐怖などでは言い表せない。絶望だ。
 黒い色をした絶望が、楽しそうに笑って向かってくる。けれど、抵抗しても無駄だということはすでに体が覚えてしまった。構えた木刀は形だけで、次にどこを狙っているのか知らないが目を瞑って耐えようとした。シュッと耳元の風が切れる。


「つまんねーの」

「……え?」


 衝撃の変わりに、心底詰まらなそうな美声が聞こえた。ゆるゆると顔を上げるとすでに恐怖の色はない。遠くなった黒い背中は見えた。彼は投げた木刀を拾い上げると、自軍の兵士たちに撤退の指示を出している。思わず力が抜けて、その場にへたり込んだ。


「さっさと仕事戻んねぇと殺されるぞ、吉野に」

「い、行ってきます!」

「仕事ない奴は片付けしとけ」


 一通り指示をし終わると、聖はポケットに手を突っ込んでこちらに歩いてきた。ポケットから出した煙草を吸いながら、春美の前で立ち止まって少し決まりの悪そうな顔をする。奇麗な顔には傷一つ付いていない。


「えっと、すんません。なんか遠慮とかできなくて」

「い、いや……」


 別に悪びれていない顔をして、聖は紫煙を吐き出して手を差し出す。けれどその手に捕まらなかった。優位に立ったまま目の前にいるこの男に対して抱いた黒い感情を吐き出し、屈服させたいと春美は思った。けれどその方法がぼんやりとしか思い当たらない。










 夜は宴会になった。お偉い方は黒門の最高級の店で酒宴が催されている。しかし聖はどうしても黒門に行きたくなかったので十分ほど駄々を捏ねた挙句に小田原に行かせた。あそこに入るには家柄的にも問題はない。兵たちは行く訳にもいかないので、軍は軍で詰所で懇親会ならぬ宴会を催した。無礼講のはずなのにひっきりなしに兵たちが酌に来たので聖は別室で悠々と吉野相手に盃を重ねる。


「そういえば、瀬能様もお上は初めてですね」

「……ぜってぇ行かねぇぞ」

「分かってますよ。だから小田原軍団長に代わってもらったんじゃないですか」

「俺が行くわけにゃいかねーもん」

「いい加減にしないと明日に差し支えますよ」


 場所が黒門だと知ってから、聖はテンション低く塞ぎこんでいた。大将が行くべき所の言い訳が「疲れたから」という最低の理由しか思いつかなかったところからもそれが思い当たる。事実、聖は夜になるまで資料室の奥で塞ぎこんでいた。
 聖の生家は知る者は少ないが黒門だ。その中でも最高位の女の腹から生まれた。もしかしたら今日の酒宴にも呼ばれるだろう。聖を産んだのが十五のときだからまだ酒宴の席には出ているはずだ。聖は角倉に引き取られてから朱門に遊びに行こうが黒門には近づかなかった。家柄は黒であるべきなのに絶対に近づこうともしなかった。聖にとってあそこは鬼門であり近づいたらいけない場所だ。それを知っているから吉野も黙って彼の我儘を許している。


「布団は敷いてありますよ」

「……女呼んで」

「僕は執務室に戻ります」


 詰所の二階は壁をぶち抜いて大広間にしてある。そこに万年床が敷き詰められ夜番の兵たちが雑魚寝している。今宴会が行われているのは一階なので聖達は上に上がって小部屋で飲んでいた。吉野がさっさと立ち上がるので、聖は一緒に戻るのも億劫なのでそのまま寝ようと思って大広間に行った。吉野と別れ、そのまま布団に倒れ伏す。煎餅布団をそろそろ軍事費で買い換えてやろうと思った。


「おやすみなさい、聖さん」

「……おー……」


 吉野の声が聞こえたのにか細い声で返して、聖は目を閉じた。
 母と最後にあったのは十年も前だったと夢現で思い出す。彼女は息子が幸せになると信じていた。花街なんかにいたところで幸せになれるわけもないけれど、父親に引き取られれば幸せになると信じていた。だから聖は幸せでなければならない。幸せでない自分を、母親の目に晒してはいけない。常闇の中で抱いた夢を自分が壊してはいけないと、そう信じていた。
 うとうととしてどれくらいだっただろうか。誰かが階段を上がってきた。別に兵の誰かだろう。佐保の兵には今日は詰所が一晩中煩くなることを考慮して道場を寝床にしてもらっている。だから聖は安心しきって眠ろうとしていた。嫌なことは、忘れた方がいい。気づかないふりをしている方が全然いい。


「…………」


 気配は音を立てずに戸を開けると息を殺して忍び入ってきた。手足の感触を無くしながら、聖はうつ伏せのまま疑問を持たずに眠りに落ちる。疑問を持つことすら億劫だった。気配がうちの兵ではないと思っても、それ以上に思考が進まなかった。


「……角倉大将」


 この声は、春美だ。顔の近くに酒気を感じるから顔を寄せているのだろう。声を落す必要があるほどこの部屋には人がいないから、眠っていることを確認しただけかもしれない。痺れる頭で聖は思ったがおきようとは思わなかった。
 黙っていると「眠っているか。これは好都合」と声がする。寝首でも掻かれるのかなと思ったが、殺気がないので眼は開かない。どうでもいいから、眠りたかった。力の抜けた体を持ち上げられて、仰向けにひっくり返された。別にうつ伏せで寝にくいことはないが、とても親切だ。階段を誰かが登っている音がする。また誰か寝にくるのかと頭の端で思う。その間に、硬くてざらつくものが首筋に触れた。熱い酒気を帯びた息が顔に掛かって、その不快感に顔をしかめる。


「小奇麗な男だ」


 話しかけられているのか知らないが、起きる気はさらさら起きなかった。どうしても眠いと体が起きる行為自体を拒絶している。頑なに眠ろうと体を捩るが、何故か動けなかった。体が重く感じるのは酒のせいだとしても金縛りだろうか。面倒くさい。
 鈍い頭ではろくな事を考えられず、まとまりのないことを考えていると下肢が楽なった。どういうわけか知らないがベルトが緩められ、パンツのボタンまで外してくれたようだ。どこの世話焼き女房がやってきた。いつもみんな転がしっぱなしにするくせに。けれど本気で寝るときは緩めるどころか浴衣を緩く纏っているだけなのでありがたい。細身のこれを脱がしてくれても構わない。気づけばシャツのボタンも外れている。
 ひたりと妙に熱いものが腰に触れた。


「師範、寝ちゃい……ギャー!!」

「あ?」


 鉄五郎の悲鳴が聞こえた。そのけたたましさに聖が漸く耐えられなくなって重い瞼を持ち上げると、目の前にでかい顔があった。一瞬ポカンとして動けない。その間に鉄五郎が春美を引き倒すようにして間に入る。威嚇している仔犬のような背中を見ながら聖は自分の現状を確認した。半分以上脱がされていた。


「あんたっ!師範に何しようとしてたんだよ!?」

「ガキには関係のないことだ。どけ」

「ふっざけんな!」

「それともオベンキョウしていくかい?大好きな大将が無様に犯されるところを、さ」


 春美は鉄五郎を突き飛ばすと再び聖に覆いかぶさった。体格差もあり、聖が細身だから非力と認識したのだろう。重い体が動くことを拒んでいるが、知らぬおっさんに犯される趣味もない。けれど落ち込んでいたおかげで杯が進んだのかただ疲れているだけなのか体が異常に重かった。
 食って掛かった鉄五郎を春美の片腕が簡単に吹っ飛ばす。ズボンを脱がすために手を掛けられて、聖は始めて恐怖を感じたが体は今だ動くことを拒絶していた。





−続−

鉢巻の柄は「I v(ハート) 聖」。