体が動くことを拒絶している。それでも重い体はどうにか動いて、上に乗っている男の下腹部に足を捻じ込んで跳ね上げる。着物だったら手間もなかったものを、少し間合いを取って体を起こし、中途半端に脱がされたパンツを引き上げる。細身のパンツはこういうときに不便だと実感するが、軍服にスラックスもよくないから変更はできないだろう。
 男を睨みつけたままベルトを締める。抵抗できないと踏んでいた聖の行動に驚いている男はしばし呆然と暗がりに浮かぶ奇麗な顔を見ていた。


「悪ぃんだけどさ。俺、受身になんの大嫌い」

「師範!」


 呑みすぎたのか気分が悪い。視界もグルグルする。立っているのもしんどくて、聖はふらりと男に背を向けて部屋を出て行こうとした。下からガンガンと鉄骨の階段を登ってくる音と「師範!?」「鉄五郎どうした!」と声がした。さっきの鉄五郎の悲鳴を聞いてきたのだろう。その音すら頭に響く。


「ま、待て!」

「んーだよ」

「師範危ない!」


 背後に殺気を感じた。酒が神経を鈍らせているのだろう振り返りながら間に合わないと思った。けれど実際に振り返っても殺気は届かない。倒れる代わりに鉄五郎が春美に組み敷かれていた。涙目になってまで「師範無事ですか」と呻く鉄五郎の姿を、闖入者は完全に隠した。
 どやどやと顔を赤くした兵たちが部屋になだれ込んできて中の状況に絶句する。聖はだるい足を引きずって、思い切り春美の頭を蹴っ飛ばした。けれど顔が跳ね上がっただけで男の体は動かない。鉄五郎の悲鳴が聞こえるが、それはすぐにくぐもって消える。周りの兵士たちが悲鳴をあげ、聖に許可を求めた。


「大将、正当制裁許可を!」

「おー」

「師範顔色悪いですよ!?誰か、軍医を!」


 いきり立つ兵に後を任せ、聖は多少覚束ない動作で部屋を出て執務室に向かった。結局、安心して眠れる場所はあそこにしかないらしい。聖の体調が悪いことを考慮してか、古参の兵士が心配そうな顔で聖の背を支えている。
 詰所を出たところで上からわーわー大騒ぎの声がする。もしかしたら両国の兵士入り混じっての混戦になるかもしれない。そうなったらいくら精鋭といえど勝てないかもしれないと聖はぼんやり思った。


「大丈夫っすか?」

「……平気」

「全然平気そうに見えないんですけど。さっきの鉄五郎の悲鳴、あれどうしたんです?」

「……犯されそうになった」

「は?誰が?」

「俺」

「ま、またまたぁ……。何の冗談ですか」

「今冗談言う気分じゃねぇ」


 歩きながらひっそりとした深夜の本部に入り、エレベータを待つ。普段もひっそりとしているけれど、夜になると空気が凝っているからか不気味さが追加されている。チンときたエレベータの音が妙に大きく響いた。
 聖が青い顔で喋るのも億劫そうだったので、彼も口を噤んでエレベータに乗り込んだ。薄暗い密室で人外の美人と二人きりになると付き合いが古いといえども妙な気分になるのはどうしてだろう。女の子が大好きだが、この人になら抱かれても構わない。


「俺三階行って軍医呼んできますけど、一人で戻れます?」

「いい、いらねぇ」

「……餓鬼じゃねえんだからさ」


 エレベータが開いた。子供のように首を横に振る聖にあきれながらふらふら歩き出す後姿を見る。どうも心配で結局執務室までついていくことにする。時々「うー」とか短く呻きながら聖はノックもせずに執務室のドアを開ける。
 中で一人でちびちび酒を舐めながら本を読んでいた吉野は、真っ青な顔をした聖を見て驚いた。


「どうしたんです?」

「……気持ち悪ぃ。あと嫌なことがあった」

「子供ですか、貴方。黒門に行くよりも嫌なことなんですか?」

「奥で寝てくる」


 ふらふらと本当に辛そうに聖が奥の部屋に姿を消した。吉野はあんなに辛そうな姿を見た事がなかったが、確かにあのテンションであの量を呑んでいたら悪酔いもするだろう。奥でガサガサ音がするのは聖が着替えている音だ。どうせ畳みもしないから寝入った頃を見計らって畳みに行かなければ皺になってしまう。そう考えながら、億劫なので朝にすることにして吉野は肩を竦めるとソファに座って本の続きを開いた。


「おい、馬鹿は奥か?」

「はい?」


 さっきはどこまで読んだかと探している短い間に、今度は皇里が肩を怒らせて帰ってきた。寝ていたところを起こされたのだろう不機嫌極まりない。半眼で奥を指差すがどうして彼がここにいるのか意味が分からなくて吉野は首を傾げて奥を見てしまった。


「こんな夜中に何の用ですか?」

「聖の顔色が悪いって駆け込んできたんだよ。とっととあの馬鹿だせ、庇うと禄なことねぇぞ」

「ただの二日酔いくらいで大げさですよ」


 相変わらず軍医とは思えない台詞を吐く皇里に肩を竦め、吉野はお湯を沸かすために立ち上がった。やかんに水を入れながら皇里に折角来たんだから座ればどうですかと言って見る。彼は聖が気になるのか奥をちらちら気にしつつ、結局ソファに腰を下ろした。聖の容態を訊くので呑みすぎと吉野は答えてやかんを火にかける。改めて彼の向かいに座ると、今度は外から大勢の足音と声が聞こえた。


「師範代!悪質な犯罪者捕まえました!」

「だったら牢にでも入れときなさい……って貴方たちどういうつもりですか!」


 顔をぼろぼろにした兵たちが縄でグルグルまきにして連れてきたのは、佐保軍の大将だった。彼の顔もボコボコにされて気を失っているようだ。いくらなんでも客に対してあんまりな所業に吉野は顔を青くして兵士たちを睨みつけた。惣太がいないからか、さっき聖に付き添ってきたリーダー格の兵の影に怯えたように鉄五郎が一人だけ傷一つなく隠れている。けれどパーカーが破れてしまい上から大きな軍服を羽織っていた。


「鉄五郎君、どうしたんですか?」

「師範代。これには深い訳があるんです!」

「……分かりました。鉄五郎君と林田は中へどうぞ。他の者は戻って休みなさい、明日に差し支えます」


 吉野は一度溜め息を吐き出すと、たくさんいる兵たちを追い返して二人を中に招き入れて丁度沸騰した湯でお茶を入れてやった。林田はまだ軍人になる前から吉野の下にいた人間で気心も知れている。
 吉野は部屋を見回して、それから聖のいる奥を見た。怪我だらけの兵士に怯える子供、そして縄で縛られた客分と二日酔いの大将。どういう構図だ、これは。


「林田、どういうことですか?」


 問うと、お茶を一口飲んだ彼は痛々しく血の滲んだ口を開く。皇里が見かねて救急箱を取りに戻った。
 彼らが鉄五郎の悲鳴を聞いて大広間に行くと、聖は倒れそうな真っ青な顔をして鉄五郎が春美に押し倒されていた。聖に許可を取り彼を敵と見なして掛かった所、騒ぎを聞きつけた佐保の兵まで来て大混戦。素手の殴り合いで大将を討ち取って勝利を収めた。もちろん鉄五郎の貞操も無事だ。常に優勢だったが人数が半分以下と言うこともありみんなところどころ負傷した。


「喧嘩両成敗で済みますかね……」

「先に仕掛けてきたのはあっちだし、どう考えても悪いのはあっちじゃん?」


 昔の仲間と鉄五郎しかいないので、林田の口調が戻っている。けれど皇里が戻ってきた所で肩を竦めて咳払いした。確かに佐保側が悪いだろうが、怪我の度合いはこちらが少ない。褒めるべきか怒るべきか迷う所だ。
 テキパキと皇里はまず春美の怪我を手当てし、その間に林田が自分の口にガーゼを当てる。吉野は皇里に詰所で伸びているだろう佐保の兵の手当てを頼み、鉄五郎と林田にも戻るように言った。それから、明日の準備を始めた。どうせ問題になって責められるのだから、今のうちに手を打たなければ落ちるところまで落ちてしまう。










 翌日の昼近くになって、聖は領主に呼ばれた。頭が割れるようにいたいのは完全に二日酔いの症状だ。起き出したら吉野が呆れた顔をしてひどい顔ですねと言ったので間違いないだろう。見られるくらいに顔の筋肉を酷使し、着替えるほどの体力がなかったので着流しで瀬能の部屋に行く。二日酔いの時は着流しが一番楽で、今日は仕事をする気がさらさらないので気分は休日出勤だ。


「これは一体どういうことだ」

「どうと言われても……」


 いつもよりも声を落として、酒のおかげで掠れる声で名を言って部屋に入ると真坂以下国のお偉いさんが揃っていた。だったらここじゃなくて会議室とか使っても良いんじゃないかと正直に場違いに思う。顔どころか体中に痛々しそうに包帯を巻かれた春美が項垂れて奥に座り、佐保の領主が困ったような顔をしていた。
 理由を問われても聖はよく知らないし興味がなかったので、吉野に朝言われた事を思い出して口の端に載せようと試みるが良く覚えていない。まだあの時は目が覚めていなかったようだ。


「聖の顔色も悪いようだが……大丈夫か?」

「正直あんまり大丈夫じゃないんで、休ませて欲しいんですけど」

「これが終わったら勝手に休め。少なくとも当分謹慎だ」

「だから何が」

「春美大将が、佐保軍は竜田軍の暴行を受けたと言っている」


 心配してくれる瀬能の心が染みた。なのに周りは敵ばっかりだ。本当にしんどくて聖はみっともなくもその場にしゃがみ込んだ。この態度が反感を買うのだと知りつつ、頭をかき回して情報を整理して昨夜の記憶を呼び覚ます。そして、奥の春美を見た。彼の顔は強張っている。あの表情からあっちが弱者であることが知れた。


「昨日、春美大将に襲われました。所謂強姦未遂です」

「誰がだ?」

「一応俺です。それに気づいた兵たちが俺の仇を取ってくれたってことになるんですかね」

「……そうか」


 聖が息を吐き出すように言うと、重鎮方は眉を潜めて顔を寄せ合った。だからそういうことは会議室なりでやってくれと思う。こっちは本当に倒れそうでしょうがないのに。しゃがんでいるのすらきつくて床に座り込んで天を仰ぐと高い天井が回って見えた。相当重症だ。
 角倉大将、と硬質な声は、佐竹のそれだ。顔を向けると彼はいつもの気楽なそれではない顔で聖を見ている。


「処分は追って言い渡す。今は佐保の方々に謝罪を」

「……謝罪、な」

「ま、待ってくれ!」

「瀬能様?」


 聖が肺の中に溜まった息を吐き出すように呟く。それを聞き取ったのか、瀬能が焦ったように声を上げた。まさか彼から意見が出るとは思っていなかったのだろう、誰もが驚いたように息を飲む。けれど聖は俯いたまま僅かに微笑んだ。やはり彼は、とても優しい。


「聖だけが悪いわけじゃない。聖が謝罪するなら春美殿にも謝罪してもらいたい!」

「何を言い出すのですか!?」

「こちらが悪いに決まってます!」

「もう少し大人におなりください」


 諫めるというよりは慌てた声の中に、真坂の声も角倉の声も聞こえない。聖はただ俯いて事態が収まるのを待っていた。できれば頭に響くから早めに静かにしてもらいたい。しばらくは瀬能も頑張っていたが「角倉大将の体などくれてやればいい」という意見には言葉が出ないようだった。聖ですら怒りを通り越して呆れてしまう。これだから祠官は嫌いだ。
 その静寂を待っていたように、佐保の領主が穏やかな声を発した。


「皆さん、落ち着いてください。こちらにも落ち度はあります、ここは喧嘩両成敗と言うことで如何ですか?」

「千秋殿……」

「無体な真似をして恥ずかしい限りです」


 深々と頭を下げた佐保領主に、全員が呆気に取られてしまった。誰も声を出せないで畏まっている中、真坂が悠然と「こちらこそ過剰な行動に出てしまい申し訳ございません」と謝罪する。同じ言葉が同時に聖の口から出かけたが、喉がヒュッと鳴っただけで声は出なかった。
 真坂が全員に仕事に戻るように指示し、それを機に解散した。中には、動けなかった聖を除いて誰も残らなかった。たった四人になり、その空間が居た堪れなかったのか俯いたまま動かない聖が気にかかったのか、瀬能が聖の手を握った。


「聖、ちょっと」


 手を弱い力で引っ張られ、聖は漸く顔を上げた。心配そうな顔をした瀬能に無理矢理笑いかけるが、彼の瞳の中の自分の顔は上手く笑ってくれない。立ち上がってどうしたのかと訊こうと思ったら、その前に手つかまれて奥の私室に連れ込まれた。
 聖は崩れるように床に座り、その正面に瀬能が腰を下ろす。そして、心配そうな顔で聖を覗きこんだ。


「大丈夫か?」

「んな泣きそうな顔しなくても大丈夫だって。何ともなかったわけだし、ただの悪酔い」

「でも顔色が……」

「呑みすぎただけ。それより黒門なんて初めてだろ?どうだった」


 聖は自然な仕草で瀬能を抱き寄せようと手を伸ばしたが、その手は叩き落とされた。内心舌打ちを漏らして手を引っ込め、代わりに煙草を引き出す。懐から出した煙管に火を点けると、瀬能が珍しそうな顔をして目を瞬かせた。微笑して「楽しかった?」と聞けば、少し恥ずかしそうに頷く。あんなところに行くのも宴会も初めてだと言った後、彼は目を輝かせて真っ直ぐに聖を見た。


「とても聖に似た女性がいたんだ」

「そっ……か。俺に似てんならいい女なんだろうな」

「とても優しくて奇麗で、素晴らしい女性だった!」


 ズキン、と胸が痛んだ。その女性を聖は知っている。あそこにいて聖に似ているならば母親に間違いない。やっぱり行かなくて正解だった。声は震えていないだろうか。瀬能は不審に思っていないだろうか。煙草で間を繋ぎながら、聖は馴染まない吸い口を噛んだ。銀のそれに味はない。


「聖はあちらの方には行かないのだな。てっきり馴染み客だと思っていた」

「……瀬能は俺のことなんだと思ってんだよ」

「で、でもな、彼女は聖を知っていたぞ。有名なんだな」

「ま、まぁ……」


 曖昧な言葉で逃がして、聖は出かけた言葉を飲み込んだ。自分のことを何と言っていたか、なんて聞きたくもない。知ったらまた、胸の潰れる思いをしなければならない。あの頃と同じに。
 珍しく言葉を濁した聖に首を傾げながら、瀬能はまだ楽しそうに彼女に聖のことを話したと言った。周りの女性たちも興味津々だったと嬉しそうだが、当たり前だ。黒門の聖といえば有名だ。誰の種がとかそんな話ではない、母親に瓜二つの美少年。あの治外法権の地で最高位を得た女の子だ。知らない女はいなかった。けれど瀬能はそれにも気づいていないようだった。彼女たちは、何も言わなかったのだ。


「聖の話をしたらな、その方はまるで自分のことのように笑って素敵な人ですね、と」

「“素敵な人”……」


 ぐにゃりと聖の世界が歪んだ。前のめりに倒れながら、かつて母が笑って語ってくれたのを思い出す。声まで脳裏に響く。近くにいるはずの瀬能の声よりも、より近くに感じられた。忘れていたのに。思い出さないでいたのに。

  素敵な人になってね

 些細な願いも、幸せもすべて得られなかった母の言葉が胸に刺さる。彼女の言う“素敵な人”に成れたとは到底思えない。今まで仕舞いこんできた罪悪感と後悔が一気に吹き出す。どろどろの黒い感情に満たされる。吐き出したくなる、哀切。
 目の前が真っ暗になった。投げ出された四肢に感触なんて無い。そうして聖は、瀬能に倒れ掛かるようにして意識を失った。





−続−

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