頭がガンガンする。瞼の向こうが明るくなったが体は起きることを拒否している。どうせ何かあれば惣太か鉄五郎か、もしかしたら吉野が起こしに来るのだからそれまでは本能に逆らわずに眠ることにしようと寝返りを打つと、どうにも布団が広かった。
 朱門に泊まった覚えはないから絶対に違うと断言できるが、執務室のソファがこんなに広い訳がない。不思議が本能にまさって結局目を開けて確認した。広い部屋には物がない。着物が一着掛かっており、そのほかには綺麗な文机がある。しかしこの部屋に覚えはない。


「……あぁ、そっか」


 覚えがないのは当たり前で、聖がこの部屋で生活した時間はかなり短いのだ。角倉本家の自室だ。自室と言うよりは監禁部屋のようなイメージすらあるのだが、名称は自室で間違いがないのだ。意識は瀬能の部屋で切れているから、強制的に運ばれてきたのだろう。格好悪い。
 体を起こすと、ものすごくだるかった。顔に張り付いた髪を指で退けると、自分の額が異常に熱いことに気づく。やはり熱が出ていたのか。まだ熱は高いだろうが、眼が覚めたらもうここにいる必要もないので手早く新しい着流しに着替えて逃げ出そうと思った。


「聖さん、目が覚めましたのね!」

「……美月さん」


 部屋を出た瞬間に美月に見つかった。ぱっと顔を輝かせている美月を前に本部に戻るとも言い出しづらく、結局何も言わずにすごすごと部屋に戻った。脱ぎ散らかした着物を手早くまとめて布団を畳むとすぐに見られる部屋になるので物のない部屋もありがたい。
 美月を座らせて、聖もその場に座ってふと煙草が欲しくなって辺りを見回した。どこにも置いてない。


「まだ寝ていた方がいいんじゃないですか?」

「大丈夫ですよ」


 本当は大丈夫ではないけれど笑うと、美月はぱっと聖から顔を逸らして立ち上がった。小さな声で「光兄様を呼んで参ります」と言って部屋を出て行ってしまった。光定殿が来てるのかと思いながら本気で煙草を探し始める。着ていたはずの軍服がここにはないのはどうしてだろう。この間見つけた煙管もないようだ。高かったのに。もしかしたら本部にでも置いてきたのかと期待しながら、半分諦めている。
 諦めると諦められないのはどうしてか分からないけれど、やはりどうしても欲しくて何度も同じ場所を探してしまう。そうしているうちに、美月が戻ってきた。


「聖さん、兄様がおいでです」

「へ?」


 てっきり光定が来ると思っていたので、予想外の兄の訪問に思わず阿呆な声を上げてしまった。煙草を探すために下げていた顔を上げると、本当に兄が立っていた。慌てて姿勢を正し、緩く纏った着流しだけは直すことができないので黙ってたが、澄春は何も言わなかった。


「眼が覚めたようで、安心したよ」

「……ご心配お掛けしました」


 澄春は聖の前に腰を下ろし、それに倣って美月も座った。煙草の代わりに季節はずれにも扇子を手元で遊ばせながらぼんやりした視界に兄姉を映す。なんだろう、この図。少し疑問に思っていると、兄が「食事は?」と聞いて来たので全く食欲もなかったので首を横に振った。美月が何か言いたそうな顔をしていたけれど、それだけでやはり何も言わない。彼女は兄の前では発するべき言葉を極少量しか持たない。


「お前に一月の謹慎令が出てる」

「一月、ですか……」


 今が十一月に入る少し前だから、実際は十一月いっぱい謹慎になるだろう。そんなに長いのならばどこかに遊びに行くのもいい。昔みたいに目的もなく他国に行ってみるのもいいかもしれない。そんな浮かれたことを考えた。


「その間にやってもらうことがあるから、そのつもりでいなさい」

「やってもらうこと?」

「婚約だ。有耶無耶だったからね」


 さらっと言われすぎて聞き流してしまいそうだったが、婚約と彼は確かに言った。聞き返したくなったが聖の口からその単語が漏れることはなかった。若垣の造反で有耶無耶のうちに立ち消えてしまいそうだった婚約だが、どうやらそれはほとぼりが冷めるのを待っていただけのようだ。若垣は無実を主張して段々もとの地位まで戻ってくる勢いらしいので、ここがタイミングだと踏んだのだろう。悪い時に熱も出たものだ。


「雛生さん、ですか?」

「分かっていることを訊くのは感心しないね」


 薄く笑って、澄春は大儀そうに立ち上がった。しばらく見ない間になんだかまた病弱に見えるようになった。しばしの間隔が開いたからか彼が本当に弱っているのかは判断できなかった。
 澄春が出て行っても美月はそこに残っていた。俯いてじっと膝の上に置いた自分の手を見ている。


「美月さん」

「えっ?」

「何でもないです」


 微笑して聖は彼女の手に触れた。膝の上の二つをどかせて代わりに自分の頭をおく。この姉とは戯れにこうした接近を繰り返す。別に何をしたい訳ではないが、ただくっ付いていると安心するのだ。美月も何も言わないから調子に乗ってそのまま目を閉じた。
 美月は聖がこの家に来てから心を許せる数少ない人間だ。姉弟だから心を許している訳ではないが、姉弟だから心が許せた。


「俺、美月さんと結婚してぇな」

「姉弟なのにですか?」

「冗談です。ただ、気が進まないって言うか……」


 気が進まないのは当然だ。もともと雛生は墨春の婚約者だったのだが、理由は知らないが聖の婚約者になった。けれどそのときは全てが気に食わず、定期的に会えといわれているのを無視して花街で遊んだり町の娘を引っ掛けたりしていた。それに今では、それだけではない理由で深い確執がある。


「雛生様は元々兄様の許婚ですものね。彼女もそれはそれは兄様を好いていらしたんですよ」

「美月さんも兄上大好きですもんね」

「……兄様は、私のことはお嫌いなんです」


 しゅんと萎れた美月の声に、聖まで切なくなった。昔は仲のいい兄妹だったときいた。美月は兄を慕っていたし澄春も妹を可愛がっていたそうだ。けれど聖が来る少し前から関係がこじれ始め、聖は彼らがぎこちない関係であったことしか知らない。
 もしかしたらそれが自分のせいであるかもしれないとは少し思っていたが、それでもどうする術もなかったのは事実だ。


「兄上って何が好きなんですかね」

「……わかりません」


 聖にとって厳しい兄は畏怖の対象だったが、美月はいつだって悲しそうに彼を見ていた。それは自分の過去には思い当たらない感情だ。
 少し悲しそうな顔をした美月の膝の上で、聖はとろとろと眠りについた。目を覚ましたら熱があろうとなかろうと家を出ようと、そう思う。煙草が吸いたくてしようがないのだ。










 体よく家から逃げ出して、聖は朱門に逃れた。馴染みの店でもけれど食欲は沸かず、煙草と酒だけと少しの肴だけを口にして横になった。別に女を抱く訳ではなく眠る訳でもなく、ただごろごろと何も考えずにいたかった。


「大変だったわね」

「何が?」


 みどりに言われ、聖は顔も向けずに掠れた声で問うた。家を出てほっとしたのか体が妙にだるく、声も掠れている。風邪だろうか。一月もあれば治るだろうと簡単に完結させ、けれど治す気があるのかないのか分からない薄い着流しでいる。
 聖の問いかけにみどりは笑って、聖の頭上に腰を下ろした。散らばった髪を指で掬い上げては離しながら、先日の事件について唄うように語る。春美との決闘から深夜に襲われたことまでがだいぶ尾ひれがついた形で流布されているようだった。聖が僅かに顔を上げて、噂を否定する。


「俺ヤられてない」

「あら、そうなの?」

「意外そうにすんなって」

「私はてっきりそれで落ち込んでるのかと思ったわ」

「違ぇよ」


 みんなに思われているのかと思ったらげんなりしたが、みどりが「冗談よ」と笑ったからどうでもよくなってしまった。どうせ噂なんて七十五日だ。黙っているに限ると思ったが七十五日後は今年が終わっていることに気づいて意味もなく落ち込んだ。


「じゃあ何をそんなに落ち込んでるの?」

「……別に?」

「嘘。話なさい、聞いてあげる」


 聖は薄く微笑んだだけで何も言わなかった。何を言っていいか分からなかったし、何も言うことはなかった。自分の中身は空っぽなんだと、今ようやく気付いた。気づいたからどうにかなるものではないが、それでも言葉を持ち合わせていなかった。
 だから聖は黙って煙草に手を伸ばす。今の体はただ煙草が通過するだけの管なのかもしれない。


「聖。……もう」

「だって」

「なぁに?」

「俺、何もねぇもん」


 紫煙を吐き出しながら何もないのだと言葉にすれば、確かに何もないのだと実感できた。手のひらの中にしっかりと握りこんできたと思った大切なものは何一つ、一つ残らず何処かへ落としてきた。落としてきたのか自分から捨ててきたのか今では判断できないし、もしかしたら自分で踏みにじったのかもしれない。今あるのは、ないという確信と喪失感だけで結局のところただ無いとしか分からない。
 ひらひらと逃げる紫煙になってもしかしたら消えてしまったのかもしれない。そうだったらどれだけ手を伸ばしても取り戻せないのかもしれない。それとも、空気に溶けたそれは再び還元することができるのだろうか。


「聖には私がいるじゃない。それじゃあ不満?」

「もっと」

「え?」

「それだけじゃ満足できねぇ」

「欲張りね」


 笑ったみどりの手が目の前をちらついた。白いそれに手を伸ばして掴んでみると、消えることなく触れることができた。それがとても不思議だった。表情に出てしまったのだろう、みどりが不思議そうな顔をして覗き込んできた。ばつが悪くなって、顔を逸らす。


「どうしたの?」

「還ってくる、かな」

「帰ってくるわ」


 失くし物は返ってくることができるのか。再び手にすることができるのだろうか。もしこの手が逃げ出してもまた掴むことができるだろうか。手遅れなんてものは、ないのか。
 あまりにもみどりが自信満々に言うものだから、聖は彼女の手を頬に当てながら上目遣いに見て唇だけで「本当?」と訊いてみた。意思を持ったみどりの手が聖の頬に優しく触れる。その手は冷たかった。


「人の心は変わるのよ」

「……絶対?」

「えぇ。頑張りなさいな」

「その前に、ちょっと充電」


 何があっても返ってくると断言されて、それが妙に説得力があったものだから聖は少し安心した。絶対に返ってくるものなんて無いと思っていた。ただ今持っているのは彼女の小さな冷たい手だけだから、ただこれに縋って信じるしかなかった。
 仮令過去の過ちがあろうとも人の心は変わると信じるために、聖は彼女の心を束縛する。心の束縛の証拠に躯を組み敷いて、そしてやっと安心した。ここにはちゃんと、人がいた。





−続−

新章・角倉編です。
尾ひれのついた噂は「聖さんが決闘で華麗に勝ったから逆恨みした敵大将が夜這いをかけて襲ったところを兵士が返り討ちにした」っていう武勇伝。