昼過ぎに目を覚ましたけれど動く気にもなれず、布団の中で眠りと覚醒の狭間を彷徨ってぼんやりしていた。思考することを拒否しているのか思考できないのか定かではないが、脳が蕩けてしまったようだった。
 帰らなくても常連だから文句を言われない。だから布団から漸く這い出したのは日が傾き始めた所だった。


「聖、帰らなくていいの?」

「どうせ謹慎中だし、まだいい」

「そう。でも角倉のお家から帰って来いですって」

「は?」


 起き上がって窓枠に頬杖をついて外を眺めていた聖にみどりは声をかけ、困ったように頬に手を当てた。思わず聞き返した聖にもう一度同じ言葉を繰り返す。
 角倉家の使用人がやってきて聖はいるかと訊いた上で、いるのなら至急帰宅しろと言い残して去って行った。聖がここにいるのを知っていたのかここに居るのを知っている言い方だった。聖が家に言い置いてくるとは思えないけど、と結んだみどりに聖は不可解そうに煙草を咥えて天井を仰いだ。聖にとってあの家の天井よりもここの方が落ち着く。


「何で今更」

「夕食はあちらで用意してあるんですって」

「俺さ、最低限のことするから勝手にしていいって約束したんだ」


 煙草に火を点け、聖は目を細めた。昔、軍に入ったころに交わした約束はまだ生きている。角倉の人間として最低限の務めを果たす変わりにそれ以外は自由に振舞っていいと約束した。だからこそ今軍大将でいるのだし、領主の葬儀に角倉の人間としても参加した。
 それなのに今更一体何の話があるのだろうか。少し疑問に思ったが、そういえば婚約の話を昨日されたばかりなのだからそれに関係しているのだろう。これも聖に課せられた義務か。自由との引き換えに、これほど大きな対価は無い。


「だから聖はこんなに自由な訳ね。あまり自由すぎるのも困りものよ」

「そんなに自由かぁ?仕事に戻れば副官にこき使われるし」

「抑圧がなければ自由もないの。ほら、さっさと行きなさい」


 これが抑圧だというのなら随分なものだと聖は思う。思うけれど対する答えも持ち合わせていないから黙るほかない。まだ思い体を引きずって、風が冷たくなった道を歩いて帰った。
 歩きながら、頭の中にちらつく記憶を繰り返し仕舞いこもうとする。熱が出たから仕舞い込んだはずの記憶があふれ出てしまいそうなのだろうか。頭の中を浮かんでは消える切ない、あの日の記憶。焦燥と喪失と絶望が愛と言うたった二文字の言葉に収斂をみせたあの日は、もう五年も前の話だ。
 もんもんと歩いていると、大きな屋敷が見えてきた。不必要なほど大きな屋敷だ。自分の意志でここを通ったことは数度しかないけれど、そのときもやはり気は進まなかった。


「おかえりなさいませ、聖様」

「兄上は奥スか?」

「はい。光定殿がお見えでございます」


 家人に訊けば真坂が来ていて、共に夕食をと言うことだった。兄と向かい合うには着替えが必要だと思ったが、真坂がいるのならばその必要はないだろう。光定は従兄ということもあってたまに遊びに来るが、その度に聖に一つ二つは説教を置いていくので逃げられるのならば逃げたいが兄よりは取っ付きやすい。
 着替えもせずに髪だけ軽く纏め上げて、少し早足で客間へ向かった。


「聖です。ただいま戻りました」

「随分遅かったね、入っておいで」

「……失礼します」


 多分に含まれる兄の厭味に一瞬顔を歪めたが、聖はすぐに表情を貼り付けて襖を開けた。中では兄と真坂が全を挟んで向かい合っていた。その二人の間にもう一つ、どう見ても聖の分と思われる膳が置いてある。食欲が無いとか言い訳はききそうもなかった。
 ゆっくりと歩いて示された席に腰を下ろし、聖は箸を手に取らずに自らの手で酒を注いだ。


「体の方はどうだ」

「まぁ……それなりです」

「謹慎中に治せよ。終われば歳末だ」


 歳末書類の提出か、と聖はげんなりした。けれど謹慎喰らったのは聖だけだろうから吉野が片付けてくれるだろう。そう思ったら何だか気が軽くなった。どうせ自分にできることは道場で稽古をつけるくらいだ。何を心配することはないが、イラついた吉野に兵たちがこっぴどく絞られるのではないかと言うことだけは懸念した。
 しかしこんな現実逃避ができないのは精神上問題と言えなくもない。


「当分家で大人しくしていなさい。雛生が可哀想だ」

「雛生さん、来るんですか?」

「正式に聖の婚約発表を来週に行う。それまでに少しは打ち解けるんだよ」


 永遠に無理な相談なのだろう。彼女は絶対に聖に対して心を開かないと確信できる。それほど聖は彼女にとってひどいことをした。ただ言い訳できるのならばあの時の自分は前が見えなかったのだ。ただたった一人の女性の影を追って、後悔を躍動に変換したに過ぎない。ただそれだけだった。


「若垣との婚約は復活ですか」


 光定の渋い声に澄春が頷いた。聖は黙って食欲もないので杯を傾ける。
 あの事件はそろそろ半年前前になるのだろうか。あの時期は雨が降っていた。謀反の疑いをかけられたが焼失した家屋から証拠が出るわけも無く、炎の中に飛び込んだ兵士たちも有力な情報を得ることができなかった。結局、冤罪であったという結論をつけられた。火のないところに煙は立たぬとはよく言ったもので、疑われる方が悪いという見方もできるからと少々疎まれてはいるものの元の地位を取り戻しつつある。だからこの時期に一時は有耶無耶になった婚約の話が復活したのだろう。


「どうにも雛生が聖に対して怯えて困ります」

「彼女は澄春殿を好いておりますからな」

「ですがどっちみち私では……」


 緩く首を振って澄春は微笑する。子供の作れない澄春が雛生と婚約したところで彼女には悲しい思いをさせるはずだし、謀反の疑いをかけられた家の娘を角倉の長子が娶ることは体面が良くない。けれど捨てきれない血縁関係でもある。だから、聖なのだ。


「本当に澄春殿はお優しい。もう少し素直に美月にも見せてやればいいものを」

「光定殿、それを言わないでください」


 不意に変わった会話についていけず、聖は箸を取って意味もなく魚の身を崩した。食べる気はないのに細かく解してみる。そういえば、真坂なら知っているのだろうか。昔の澄春と美月の、ひじりの知らない関係を。自分のせいだと思ってはいないが、美月に対して言えない罪悪感を抱えていることは最近自覚したところだ。
 外から家人に呼ばれ、澄春は大儀そうに座を立った。この隙にと聖は僅かに真坂の側に寄って声を潜めた。


「光定殿、昔は美月さんと兄上が仲良かったって本当ですか?」

「あぁ。お前が来る少し前からぎこちなくなったが昔は、瀬能様と柊様みたいなもんだった」

「……俺が来る少し前」

「別にお前のせいじゃないぞ。その頃から澄春殿も体調が芳しくなくてな、これで死んだら美月を悲しませると言って距離を取り始めた」


 「不器用な人だ」と真坂は目を細めて杯を煽った。聖は銚子を傾けて注ぎ、肩で息を吐き出した。美月をを悲しませているのが自分ではなかったことに心底安心した。勝手に感じていた罪悪感ではあるが、聖にとって好きな人を自分のせいで傷つけるのは何よりも辛い。守らなければならないと思うから、傷つけることは自分であっても許せない。


「何月も生きられないと言われたからお前を引き取ったんだ。美月は澄春殿にべたべたの娘だったからな、傷つけまいとしてこれだ」

「……でも、結構元気じゃないですか」

「お前があまりにも馬鹿だから死ねなくなったのだろう。そういう意味では良くやった」


 褒められて嬉しいことかは分からないが、一応褒め言葉だと受け取っておくことにした。そしてようやく聖は解した魚を一欠けら口の中に放り込む。どうしたことか味は感じられなかった。それを見てまた真坂が「お前にだって」と続ける。


「お前にだってそうだぞ」

「俺?」

「お前を立派な角倉の跡取にしたいと考えているからああも厳しく当たられるんだ」

「……マジすか」

「嘘を言ってどうする。お前は角倉の血こそ継いでいないが、大事な弟らしいぞ」

「…………」

「どうした」

「嬉しいんだか恥ずかしいんだか……」


 何だか気恥ずかしくて、聖は手で口元を覆って天井を見上げた。予想外の言葉が嬉しかった。今まで重苦しいものでしかなかった角倉の人間という言葉が、僅かではあるが浮遊した感覚。億劫ではあるが、それでも嬉しかった。
 兄がなかなか戻ってこないのをいいことに聖は、光定と呑んで気がつけば眠ってしまった。一体いつ兄が戻ってきたのか知らない。










 翌日、聖はさっそく家にいろという命令を破って町に出た。特に目的も無いが、何となく家にいたくなかった。兄と顔を合わせるのが気まずいというのもあったし、それ以上に家にいたら雛生の事を考えてしまいそうで嫌だった。


「聖さん!やだ、一人?」

「りーこちゃん。スッピンで可愛いじゃん」

「えー、そんなこと言っても何も出ないですよ。ね、一人?」

「あぁ」

「じゃあデートしましょ!」


 町で偶然会った馴染みの女に腕を引かれ、聖は苦笑して「いいぜ」と頷いた。別に目的があったわけではないから断る理由はない。しっかり着飾っている訳ではないし普段と違いカジュアルな私服なのだが、それが新鮮だった。
 彼女は近くの小間物屋に入り、その後姿を見ながらふと聖は瞳を歪めた。気づかないうちに自分はいつも彼女の姿を被らせていたのかもしれない。面影を追って、けれどどこか否定していた。


「聖さん、これ可愛くない?」

「可愛い可愛い。買ってやろうか」

「本当?嬉しい!」


 例えば腕に押し付けられる強調された大きな胸だとか笑ったときにうっすら浮かぶえくぼとかは彼女に良く似ていると思う。なのにくりくり動く大きな眼だとか快活な性格は正反対で。やっぱり彼女を探しながらその面影から逃げていたのだ。


「赤いのがいいかな?」

「そうだな。俺こっちの方が好き」


 りーこが選んだ簪は赤いガラスの涼やかなものだった。けれど聖は彼女のイメージに合せて豪奢な方を指す。ちゃんと考えて彼女に似合うものを選んでいるのに、心のどこかでこれよりも蒼い方があの人には似合うのだと思っていた。
 もう五年も経つというのに、これまでこんなにも思い出すことはなかったのに。どうして今になってこんなにも思い出して彼女の面影を探して切なくなってしまうのだろうか。波の音も、聞こえないのに。


「じゃあこっちにする。聖さん?」

「ん?」

「何かぼんやりしてたでしょ。どうしたの?」

「昔の女のこと考えてた」


 彼女が不思議そうな顔をして訊くから、聖はわざと笑って答えた。「やだぁ」と言われても本当は本心で、ずっと昔に愛した女のことについて考えている。どれだけ愛したのか。どれだけ愛しているのか。きっと今もまだ、愛しているのだ。だから何に対しても本気になれない。空っぽになった心には、穴が開いているから何も注ぎ込まれない。


「聖さんって誰にも本気にならないと思ってた」

「なんだそれ。俺だって本気になるぜ」

「聖さんはみんなのものなの」

「それを独り占めしてるのりーこちゃんじゃん」


 自分自身を偽るように聖は笑って、彼女を腕の中に納めた。きっとこうしていると仲の良い恋人同士に見えるだろう。腕の中で彼女は笑っている。でも聖の心はやはりここになんてない。どこにあるといわれたらきっと、海に置いてきた。
 なんだか瀬能に会いたくなった。瀬能に会って、まだ自分が人としての機能を有しているのだと確認したくなった。





−続−

澄春さんと光定殿は仲良し