そのままりーこに朱門に連れ込まれて一夜明かしたが、そのまま聖は館へ足を向けた。謹慎中なのでもちろんばれたら文句も説教もあっちこっちから飛んでくるだろうからばれないように、賊よろしく裏から周り込む。賊と違って警備の兵は全て部下なので丸め込む必要はないが、大将の顔を見て絶叫する兵の口を塞ぐ為に気絶させる必要はしばしばあった。
 こっそり裏から回り込んで瀬能の私室にお邪魔すると、彼は机に突っ伏して眠っていた。起こすのも可哀想な気がして、毛布を持ってきて掛けてやる。起きるのを待つために煙草を吸っていると、一本すい終わるくらいで瀬能が小さく唸って体を起こした。


「おはよ、瀬能」

「おはよう……って聖!?」

「あ、あんまでかい声出すとばれるから静かにな」


 窓枠で火を消して、そのまま窓の外に吸殻を投げ捨てた。口を手で覆い驚いた顔をしている瀬能の机に浅く腰掛け微笑みかけると、彼はゆっくりと手をどかして聖を見て瞬いた。安堵の息を吐き出し、聖は瀬能の髪に手を伸ばす。触れようと思ったけれどどうせ手に煙草の匂いが沁みこんでいる。手を引っ込めて、パーカーのポケットに突っ込んだ。


「美月様に聖は体調が優れないと聞いたが、大丈夫か?」

「もうすっかり。何、心配してくれた?」

「し、してない!」


 少しからかうと本気にして顔を逸らした瀬能に喉で笑って、聖は机から降りた。ちらりと見た机の上には幾枚かの書類が判子を待っているようだった。ちらりと見ただけだが芳賀との同盟のようだ。なんとなく領主だというあの男の嫌な顔を思い出して思わず顔を歪める。それを振り払うかのように瀬能の後ろに回りこむと、ぎゅっとそのまま抱きしめた。暖かい体温が染み入ってくるようで安心した。


「ひっ聖!」

「うわー、癒される」

「癒されるって……離せ!」

「もうちょっとこのままで」


 瀬能の抵抗なんて無視して抱きしめたままでいると、諦めたのか動けなくなったのか瀬能の抵抗は止まった。少しだけ熱くなった体温に緊張しているのかと顔を覗き込むとやはり赤くなっている。嬉しい反応にそのまま抱きしめ続けた。そして、思う。
 人の顔色を窺ったり反応の一つ一つが嬉しかったりする恋愛なんて、一度しかしていない。こんなガキくさいと思う反面いつものあれはじゃあなんだと問いかけ、遊戯だという己の反応に失笑が浮かぶ。結局恋愛なんて、あの一度しかしたことがないのだ。


「仕事ができん!」

「やればいいじゃん」

「じゃあ離せ!」

「やだ」


 腕の中でもぞもぞ暴れ始めた瀬能に溜め息を吐き出して、聖は彼の体をひょいと抱き上げた。瀬能を抱き抱えたまま椅子に座り、彼を膝の上に座らせる格好で背もたれにふんぞり返った。腰に腕を回して背に頬を寄せながら「どーぞ」と言えば不満そうな顔を向けてくるが、聖が目を閉じているから効果はないと溜め息を吐きだして書類に向き合う。
 それを動きで感じながら、聖はならばこの恋心は本物かと考えた。あれが本当の恋だったらこれはなんだろう。緊張もせずに抱きしめられるこれは本当に恋と言う価値があるのだろうか。どちらかといえば遊戯に似たこの感情を愛と呼ぶのならば、やはり恋は臆病者の妄想なのかもしれない。


「瀬能、好きだよ」

「……聖の好きは、信用できない」

「なんでだよ」

「婚約者だっているじゃないか」


 とりあえず言葉にして形にしてみた想いは、しかし不安そうな言葉でかき消された。そしてぶり返す現実。
 正直にいえば逃げてきたのかもしれない。家に帰れば婚約者と会わなければいけないし、帰りたくなくても帰るところなんてない。本部にも道場にも手は回っているだろうし、それは朱門だって同じだ。町中をふらついていても楽しくはないから結局聖に居場所がないという現実を突きつけられただけだった。今は唯一の居場所が危険なのだから、安心できる場所なんてない。


「婚約は政治の手段で恋愛は個人の自由、だろ」

「好きでもないのに結婚するのか?」

「させられるんだって。俺はする気ないけど」

「でも、若垣の……」

「今は黙っといてくんねぇかな」


 現実なんて見たくないと瀬能の口を塞いだ聖は、細い項を見つめて溜め息を吐き出した。きっと家に帰ったら雛生とまた一部屋に押し込められるんだろうなと、男にとって嬉しいのか迷惑この上ないのか判じかねる状況を思って帰りたくなくなった。










 瀬能を思い切り抱きしめてリフレッシュした聖は、嫌々ながら家に戻った。戻るなり兄に冷たい冷たい皮肉を言われそれを我慢したが、家に来ていた雛生と今度は離れの茶室に押し込められたことには辟易した。というか困惑した。たった三畳程度の部屋に布団を延べるとそれだけでいっぱいになってしまい、雛生は部屋の隅に立って動きそうになかった。


「雛生さん、座っていいですよ。俺が立ってますから」

「結構です!」

「だって疲れちゃいますよ?」

「お気になさらないでくださいまし!」


 頑なに顔を逸らし雛生は気の強い声で聖を拒絶する。しかしその表情は不安で泣きそうに歪んでいる。強がっている顔はあの人に似ていると、聖は思った。雛生から一番遠い壁に背を預けて座り、煙草を銜えると雛生の目は不愉快に歪んだ。ちらりと向けられたその視線に気付きながら、そのまま火を点ける。紫煙を吐き出して、慣れ親しんだ匂いに少し安心した。


「雛生さんは俺が貴女にひどいことしたから嫌いなんじゃないんですよね」

「……答えたくありません」

「答えてくださいよ。俺が花街生まれなのが気に入らないんでしょ」


 聖が黒門の女の腹から生まれたことは誰もが知っている事実になっている。ただし黒門の最上位の女だから一部では遜色のないものと見る人間もいるが血統を重視する貴族や女性は忌避する者が多い。だからだろうと聖は問う。だとしたらどうすることもできないし聖はそれを誇っているのだ。
 けれど雛生は、何も答えず首を緩く横に振った。意外な回答に軽く目を見開くと、彼はきっとした目で聖を睨んだ。


「私はあなたが嫌いなんです!」

「……それ、結構きついんですけど」


 全否定されるとは思わず、聖は思わず吹き出した。雛生は怒ったように眉間に皺を寄せて、決して聖のほうを見ようとはしなかった。灰皿を探しても見つからないので、飾ってあった業物だと思われる小皿を引き寄せて灰を落す。


「もしですよ。もし俺との婚約破棄できたらどうします?」

「え?」

「兄上に訊いてみたんです」


 小言の後に、あまりにも雛生が嫌がるからどうにか兄が娶ることはできないかと訊いた。これを雛生のためかと訊かれたら自分のためだと答えるだろうけれど、それでも苦しい回答が返ってきた。目を輝かせた雛生にこれを伝えるのは酷だろうか。それとも喜ばせられるだろうか。彼女のために判断はできない。


「条件がつきました」

「どのような、ですか……」

「兄上と雛生さんが婚約するなら、俺が雛生さんに子供を作ること」


 結局は子供を作らなければならないのだ。どうあっても雛生には角倉の跡取りとなる子供を生まなければならないのだから、どうあっても聖と子を作らなければならない。それはきっと避けられない事実なのだ。
 膝をついて泣き出してしまった雛生を無理矢理抱きかかえると、悲鳴を上げた。すぐに布団に降ろすと、怯えたような表情をしながらも気丈に聖を睨みつける。それほどまでに嫌なのかと苦笑しながら、聖は彼女の隣に腰を下ろしてそっと長い黒髪をなでた。


「結局、逃げられないんですよ」


 声を殺して泣き続ける彼女の髪を黙って聖はなで続けていた。こんなに嫌われているなら気にしなければいいのに、放っておくこともできない。こじ付けかもしれないけれど彼女はあの人に似ている。
 この黒い真っ直ぐな長い髪とか真っ直ぐで強い瞳とか、無理して強がっているところとかどこもあの人に似ているから、だからあんなことをしたのかもしれない。似ているからこそ代用品としてこの女性を抱いたのだと、今ならわかる。
 彼女は寝てしまうだろうか。寝物語代わりに聞かせるには悲しすぎる話を、聖はポツポツと口に出した。短くなった煙草は、小瓶の中に投げ捨てていつまでも煙を立たせている。


「すごく、すごく好きな人がいたんですよ」


 幼すぎた恋心はいろいろなものを傷つけた。終わりは唐突に訪れ、絶望は世界から色を奪った。なんでも手に入ると思っていたし、彼女が逃げていくはずがないと思っていた。結局聖は自由すぎた。家の重さを昔から知らず、それでいて強大な権力を間接的に背負わされていたことにも気づかなかった。自業自得と言うには悲惨過ぎる結末。
 きっと光定がいなければ聖はこの場で息をしていることはなかっただろう。死んでいただろうし、あの頃は死んでしまうことを願ってもいた。彼女が射なければ生きていたくないとすら思っていた。光定に助けられて家に帰ってきて見つけたのは、心のそこから愛した女性とよく似た雛生で、それが必然のように彼女を穢した。手に入れられなかった本物の代わりに、偽物を己がものにした。それが今巣食う後悔に変わるとはそのときは思えなかった。あの人以外何も考えられなかった。
 そしてその女性は今のまだ、聖の胸を支配している。


「……涼香さん」


 無意識に彼女の名前を呟いてみても、ただ胸が苦しくなるだけだと知っている。けれど唱えなければ弾けてしまいそうで、苦しかったのは今もまだ変わらない。だから雛生に悪いと思いながら、聖は彼女にあの人を重ねる。守りたいとか、そういうのはきっと偽善と欺瞞の成れの果てなのだ。


「澄春様のお部屋に参ります」

「はい?」

「ご一緒ください」


 眠ってしまったかと思った雛生は、むくりと体を起こした。そして少し乱れた髪を整えて涙を拭う。聖が驚いている間にさっさと離れを出てしまった。出てくるなと命令されているのだがもともと聖は花街にでも逃げ出す気でいたのでいいかと思いなおす。
 歩きなれているのだろう躊躇わずに雛生は歩くが、聖はあまり家の中を歩き回らない。自室から兄の部屋に向かう廊下だとか食堂へ向かう方だとかくらいで奥の方には近寄らないようにしているから、離れだって初めてだった。雛生についていくようにして周りをちらちら見ながら歩き、兄の部屋の前で止まった。


「兄上、聖です。雛生さんも一緒なんですが、お時間よろしいですか」

「どうしたんだ、こんな時間に。入っておいで」


 声を掛けられ、聖は襖を開けると先に雛生を通した。後から入って襖を閉め、彼女の斜め後ろに腰を下ろす。兄は寝ようとしていたところらしく、背後に布団が延べてあった。雛生と己を交互に見る兄の瞳に自分が映るたび聖は言いようのない不安に襲われ顔を逸らしたくなる。理由は分らないけれど、分らないから怖かったのかもしれない。


「雛生は澄春様と一緒になりとうございます」

「雛生、それは……」

「聖様と子を作れば夫婦になってくださるとお聴きしました」


 少し困ったような顔をし、澄春は聖を見た。けれど聖はその顔からあからさまなまでに顔を逸らす。体の交わりだとか心の在処とか、段々分らなくなってきたのだ。だからきっと聖には愛も恋も語る資格などない。そんなものは当の昔に失くしてしまった。あの人と、一緒に。
 困ったような顔をしていた澄春はしばらく目を伏せていたが重なった雛生の懇願にゆっくりと目を開いた。


「分かった。雛生がそこまでいうなら来週の発表も取り消そう」

「ありがとうございます!」

「但し、私の妻になるならば一つ条件がある」


 何度重ねられた所で子供だと言うことは分かっているから、聖はもうお役ご免だと立ち上がりたくなった。けれど彼の真面目な声に名を呼ばれる。その意図が分らなくて軽く見開いた目で彼を見ると、兄は聖ではなく雛生を見てはっきりと予想外のことを言った。


「私の前で聖に抱かれてみなさい」

「え……?」

「聖はどうだい」


 どうと言われても聖には従うしか答えをもち得ない。それが彼との約束だから、雛生には可哀想だが拒絶はできないのだ。他の方法は与えられないようだから抵抗も術を持たない。
 再び泣き崩れた雛生の背を撫でることもできず、聖は立ち上がるとそのまま踵を返した。兄に部屋にいますとだけ言い残して、早く一人になりたかった。ストレスがたまって、これならやはり一人の方が楽だと逃げ出す自分がいる。





−続−

戦いたい、心から。