一晩で、気がつけば煙草を一箱吸いきった。何となく眠れなくてずっと月を眺めていたが夜のうちに雛生が部屋に来ることはなく、久しぶりに朝焼けを見た。それをタイミングに朝食も食べずに家を出で、とりあえず煙草を買った。そこでまた一本吸って、煙草屋の老婆に吸いすぎを窘められた。それでもやめられない。ただこの体を虫食む紫煙を、頼っている。
一服して、人々が動き出す時間の前に本部に入り込み、意見者のいる部屋に窓ガラスを割って侵入した。少し寒いけれど、戸締りをしっかりしている方が悪い。
「どうしてお前がいる」
光定が来るまでソファで寝ていたが、ちょうど寝入りばなに起こされた。差し込んできた光と不機嫌な声に僅かに痛む瞼を持ち上げれば、声のそのまま不機嫌な顔をした従兄が仁王立ちで立っている。思わずへらりとしまりのない笑みが口元に浮かんでしまった。
「ちょっと、泊めてもらおうかなって思いまして」
「ここは仕事場であって家じゃあない」
「だって聞いてくださいよ!」
とりあえず座ってもらおうと向かいのソファを指差して、聖はやや声を荒げた。荷物を下ろしながら光定はそんな聖の姿に目を眇め、溜め息を吐き出しながらソファに腰を下ろす。聞いてくれる体勢になったので、聖は昨夜の一部始終を語った。策略結婚だとかその条件だとかを少し興奮気味に語り、しかし最後には声を落として雛生さんが、と語尾が消え去る。聖とって彼女が苦手であることは光定は百も承知している。
語り終わった聖は少し沈んだ表情で黙り込んでしまい、光定は憂いを含んだ表情を鼻で笑った。失笑に聖が子供のような表情を向けてくるが、それこそ笑いのツボだ。
「阿呆が」
「知ってますよ、そんなこと!でも、雛生さんは……」
「先日も言ったがな、お前は澄春殿に大事にされているんだ。いい加減に首を括れ」
「……腹じゃあないんですか」
「お前の場合は腹括っても堪えんだろう」
わざと光定が茶化すように笑うので、聖はふっと肩から力を抜いた。口元に持っていこうとしていた煙草を銜える前に指先で持て余す。
聖にとって雛生は、憎まれてしかるべき存在だ。いくら当時自分の婚約者だったからと言って何も言わずに問答無用に無理矢理抱いた。しかも、他の女の代わりに。ただあの時は本当に、壊れてしまいそうだったから。いっそ壊れてしまえばよかったと今言うのは、きっと傲慢だ。
「俺、向いてないんですよ」
「何にだ?」
「上流階級っていうか、そういうの」
「馬鹿を言え。お前は拒絶しているんだろうが」
聖が高級妓閣で十まで育ったことは貴族は大抵知っている。引き取られて間もないころはしきりにそう馬鹿にされていたし、その揶揄は今でも変わらない。しかし今は大抵はただの言葉になってしまって意味を失ってしまっている。聖が角倉の人間になって十一年の間に周りはそれを認め、角倉の放蕩息子は本人の希望通りに自由を手に入れた。しかし誰よりも角倉の名に縛られているのは聖自身なのだろう。約束をしたところで、その約束はただの錘になってしまった。
多分聖は無自覚だ。だから誰かがそれを促してやらなければいけない。しかし彼は頑なに角倉の人間ではないと言い張る。それだけ、自分を認めていない。
「いい加減にそのマザコンを直せ。それこそ嫁も来ないぞ」
「マザコンじゃねぇし、光定殿に言われたくもねぇ」
「私はただの寡だ」
「え?そうなんですか?」
聖が意外そうに目を瞬かせた。そういえば知らなかったのかと珍しい反応に思わず光定の眉が上がる。ちらりと時計を見てそろそろ仕事をしようと立ち上がって執務机に移動し、書類を手に取る。それを見ながら興味深そうな聖を一瞥だけして語ってやった。聖の子供らしい表情を、あまり見たことがない。
「体の弱い女だった。四年ほど前に死んだ」
「四年前……」
「お前が芳賀まで言って瀕死になった時期だ」
「……もしかして」
「お前のせいじゃあない。お前は全く関係ない」
四年前、聖は芳賀で一人の女に恋をした。もしかしたらそれが全ての始まりで分岐点だったのだろう。角倉に馴染めずに一人でもがいていた時期だったのだ。芳賀で一人で勝手に死に掛けている聖を光定が見つけて連れて帰って来た。それと前後するように彼の妻は息を引き取った。聖とは面識もなかったのだから関係はないはずだが、光定とて聖が面倒を起こさなければもっと看病してやれたのにと思うときがある。しかしそれもすぐに打ち消される思いではある。聖の面倒をと言ったのは、その妻だったのだから。
不安そうな顔になった聖に一瞥もくれずに言いきって、光定は書類に筆を走らせた。しばらくは聖が何かを言っていたが、それを全て無視した。
「光定殿ってば」
「煩い」
「話聞いてくださいよ!」
「これ以上聞く話はない。さっさと失せろ」
「冷てぇな。もういいです、帰ります」
離して満足したのか知らないが、聖は立ち上がって軽く背筋を伸ばした。軽く欠伸をして、そして堂々と私服姿にも拘らず扉から出て行く。ただ、光定は彼を止める言葉を持たなかった。聖が吹っ切れたにしろまだ腐っているにしろ、結局決めるのは自分自身でしかないのだから。
ただ後姿だけを見て、子供でいられる時間が少なかった彼がその分ものをいえる場所を作ってやるのも大切なんじゃあないかと、僅かに思った。そして、割れている窓ガラスに血管を切るかと思った。
真っ直ぐ帰るのが癪なので、聖は私服のままふらりと瀬能の部屋に足を向けた。まだ朝早いからだろう、誰もいない。ただ瀬能がこちらに背を向けて仕事をしていた。そろそろ歳末の決算が近づいてきている。軍部は優秀な副将がまとめてくれるだろうから安心だが、そういえば瀬能は決算も初めてなのだと気がついた。
「瀬能」
後ろから声を掛けると、ビクリと瀬能の肩が揺れて恐る恐ると言うふうに振り返った。そして聖の格好に目を瞬かせる。軍服か着物しか見たことがないからだろう。薄手のTシャツにレザージャケットという軽装に驚いているのか、謹慎中の人間がここにいるのに驚いているのかいまいち分からない。
とりあえず聖は笑って瀬能に近づいた。机の近くに立って見下ろすと、その手には決算書がある。もうできているとは仕事が早い。
「へぇ、今年はみんな決算早ぇな」
「まだ完成品じゃあないんだ!」
「なんだよ、隠すなって」
瀬能の手に渡るのは各部署が提出した決算をまとめたものになるはずだ。それがもうあるなんてと思さり気なく奪って目を通したが軍部を含めたいくつかの部署がまだ空欄だった。しかしそこが例年通りぴったりと予算を使い切ったとして大幅の赤字だし、あまらせたとしてもだいぶ厳しそうだった。
ぱっと奪い返されてしまったのでその原因である瀬能を見ると、なぜか泣きそうな顔をしていた。
「何、どうした?」
「……私は、情けない」
「何が」
「自分の国がこんなに貧困だとは思わなかった。私は恵まれて甘やかされていたんだ」
父を失ってその跡を継いでやっと自分を育んでくれた国の実態を知った。大抵の場合そうであるだろうけれど、瀬能はそれを気に病んでいる。どういった言葉をかけても安い慰めにしかならない気がして聖は言葉を探すことをやめた。
数年にわたってみている決算報告は毎年あまり変わらない。聖からしてみれば今年が以上だったのだが、初めての瀬能には分からない。しばらく考えた挙句、聖はさっき仕舞った煙草を口の端で引っ張り出して火を点けた。
「瀬能、今までの決算報告と見比べてみろ」
「今までの?」
「今までと今年で違う所が問題の所」
近くのソファに腰掛けて、聖は紫煙を吐き出した。瀬能は不思議そうな顔をしながらも言われたとおりに過去の決算書を本棚から取り出してパラパラと捲る。何年分かを見比べて難しい顔をしたが、数箇所に目を留めて目を凝らした。
今年は先の領主の葬儀の費用が嵩んでいるはずだ。それに併せて軍事費も臨時で増やしてもらった。瀬能もそれに気づいたらしく一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに眉をへの字に下げた。
「……ここ、か」
「そうそう。分かっただろ?」
「分かったからといって解決する問題じゃあない!」
今どうするかだと瀬能は言ってやはり難しそうな顔をした。確かにそうではあるのだが、そんなに気にすることはないだろう。このくらいだったら削れば捻出できるはずだ。初めてのことに四苦八苦する瀬能を見て聖は苦笑し、煙草を銜えたままソファに寝転がった。一本吸ってからそのまま目を閉じる。
「瀬能、俺ここにいるからなんかあったら呼んで」
「は?」
「考えるんだろ?一人よりも二人。おやすみ」
眠くなったので寝る。そう聖は思った。ただ瀬能の力にはなりたいと思うから一言だけ残して目を閉じた。戸惑った声が聞こえていたが、すぐに聞えなくなる。最近深く眠っていなかったが、ここでなら眠れるだろうか。できれば膝の上がよかったのだが我儘も言ってられまい。
眠りに落ちる瞬間、そういえば吉野の誕生日が近かったなと思った。思っただけで、そのまま眠りに落ちた。
結局、婚姻の話は正月前だということで延期された。聖が謹慎のうちは家にいたにも拘らず雛生は聖の前に姿を現さずにいて、聖は謹慎が解けると一週間花街に泊り込んだ。吉野にはものすごく文句を言われたが、自分の金なので誰にも文句を言わせない。
先日の定例閣議で配られた決算書を見て不意に浮かんだ疑問を解消するべく資料室から過去の決算書を持ってくると、珍しく調べ物をしていると吉野が大層驚いていた。新年が明後日に迫った年の瀬であるが、今年は喪中のため正月気分にはなれない。
「吉野」
「なんですか?」
「誕生日おめでとう」
「今更です」
吉野の誕生日から二週間近く経っている。それを分かりつつも今思いついたのだから仕様がない。口に出して言って見ると、お茶を用意してくれていた吉野が冷たい声で言って乱暴に湯飲みを置いた。書類に跳ねたらどうするんだと思って机を見るが、一滴も零れていなかった。
瀬能と話して決算書を貰って見て、疑問に思った点がある。ここ数年で軍事費が増えて国政を圧迫している。もともと豊かだが裕福ではない国だったのに、軍事費の増え方が不自然極まりなかった。まるでそこだけを狙ったかのように、軍事費だけが増えている。
「たしかに、心当たりはあるけどな」
「何がです?」
「決算。おかしいだろ、これ」
確かにここ数年戦が多発している。必要最低限の装備を手に入れて買い足してをしているとこのくらいになってしまうのはしょうがないけれど、軍事費だけというのはいただけない。まるで聖の就任を認めないかのように増えた戦は内外を問わない。これは何かあるのではないだろうか。
吉野に見せると、じっと見ていた彼の目も不審の色に染まる。反乱だ内部抗争だと続いたことは事実だが、まずそれ自体が納得し得ないものではあった。
「何か、あると思いますか?」
「ないと思いたい」
「それは希望的観測です」
「とにかく情報だ」
情報がなければ話にならないと聖は目を眇めた。国中をあげての喪中で活気がないが、それは表向きであって中に入り込むとそれなりに活気があるものだ。そこで情報を集めつつ、次に備えられればいい。何となく空気がざわついているような感じがしなくもないことを聖は感じ取って、紫煙を吐き出した。
「ところで聖さん」
「ん?」
「先ほど真坂意見者にマザコンは元気かと訊かれましたよ」
「はぁ?しつけぇな、おい」
「どうしたんですか、マザコン」
「マザコン言うな」
本当は聖も理解している。あまりにもそれまでの生活が幸せだったから、聖の中で母親が中心に輝いていたからそれを失うのが怖い。少しでも自分が変わったら裏切ってしまうようで怖かった。だからいつまでも家に馴染まず母の面影を胸に仕舞いこんでいる。本当は彼女が息子が角倉の人間になって誰よりも幸せになる事を望んでいる事を知っているのに。とんでもない裏切りだ。
「とにかく、金がねぇんだよ」
「そうですね、今年はちょっと宴会も難しそうですね」
目の前の問題から解決していかなければ目が回りそうだった。それでも罪悪感を糧に正月には家に帰って、それでも雛生とは顔を合わせないように部屋に篭っていた。ここまで帰って来たことに進歩したと思うが、今になって白粉臭いあの部屋が恋しくなった。
−続−
吉野さん二十歳おめでとうございます。