今年は喪中で国中が正月を祝わなかった。けれど一年近くも経ってしまえば皆悲しみよりも商売の方が大切なようで、軍はささやかながら宴会を催した。正月の三日はそれで過したが、四日目からは光定に連れられて家に無理矢理戻らされた。竜田では正月は七日まで公休になっている。その間に貴族間の挨拶がどんどんされるので聖はずっと奥に篭りきっているし、今年もそのつもりだった。できた時間にずっと考えているのは、急激に増えた軍事費に関することであるが一人では考えがまとまらない。


「……もういっか」


 ずっと考えていたのだが、もういいやと聖は眺めていた書類をぺいと投げた。ひらひらと舞う紙を見ながら何気なく文机の上におきっぱなしの横笛を指先で取り唇に当てる。暇すぎる正月にずっと吹いていたそれをまたゆっくりと吹き始めた。幼い頃、母に教わった笛を吹くのが好きだった。角倉に引き取られて時間さえあれば笛を吹いているような生活をしていた。その癖は今も変わらない。吹いたり吹かなかったりしている割に自分の音色を嫌いにならないのは、この音が母の声に良く似ているからかもしれない。
 一人部屋に篭って同じ曲を繰り返し吹く。三度も繰り返した頃廊下から細かな足音がし、聖は閉じていた目をうっすら明けたけれど音を切る気にはなれない。すっと開いた襖の向こうから覗いた顔は、よく知らない。


「聖様でいらっしゃいましょう?」


 薄めた目でその姿を眺め記憶を辿るが、こんなに地味な顔は知らない。知らないけれど、今日ここにいるなら角倉の分家の娘だろう。以前は何の興味もなかったしそれは今も変わらないが、あの頃よりも少し気持ちに余裕がある。聖は笛から唇を離して柔らかく微笑んだ。


「どちらのお嬢様でしたか」

「お忘れですか?中倉の娘でございます。五年前にもお会いしたことがございますのよ」

「あぁ、失礼しました。以前よりもお美しくなっていらっしゃるから分かりませんで」


 全く覚えていないけれど、聖は覚えている振りをして笑った。中倉は角倉に一番濃い分家で、ならばこの娘はその末子だろう。五年前といえばこの家で居場所もなく暇を持て余していたころだ。興味もなく、もしかしたら何かをしたかもしれない。
 笛を脇に置き、ゆったりした体勢から体を起こして髪を軽く整えた。以前に何があったか分からないけれどとりあえず状況に備える。本当に自分の記憶に残っていないので、若干緊張する。聖が体勢を直したのを見て、彼女はすっと部屋に入ってきた。臆すことなく膝が触れるほど近くに腰を下ろし、逆に聖がびっくりした。普通良家の子女はもっとつつましいものではないのかと一瞬思ったが、中倉の末子は遊び好きだと聞いたことがある。


「……何かごようですか?」

「あら、冷たくはございませんか?」

「少しは立場を弁えましたのでね」

「今更ではございませんか」


 するりと擦り寄ってきた女性に聖は一瞬逃げたくなったが辛うじて理性を総動員して動かなかった。誘っていると分かっている女に対して遠慮することはないのだが、この状況で流されてしまえばあとで痛い目を見るどころではすまされない。はっきり言って無実を証明するために逃げたい。
 隣に座って胸にもたれかかってきた女性を蔑ろすることもできないので腰に腕を回すでもなく固まってしまったが、早く誰か助けに来てくれ。ここが花街だったらばすかさずことに及んでしまうがそうもいかないのが貴族と言うものだ。厄介でしょうがない。


「聖さ……ぎゃー!」


 とたとたと足早な足音がしたと思ったら襖がすっと開いてどうしてか惣太が駆け込んできた。部屋の状況に悲鳴を上げて腰を抜かしている。聖は正直に助かったと思ったが、この悲鳴では誰が駆けつけてくるか分からないので、慌てて惣太を部屋に引っ張り込んで襖を閉めた。
 目を大きく見開いて固まっている惣太に何を言おうかと考えながら、擦り寄ってくる女性を引き離す。


「最初に言っとくけど、俺何もしてねぇからな」

「あったりまえじゃないですか!正月から何やってんですか!?」

「俺は何もしてない」


 じと目で見てくる惣太は口では信じないと言っているが本当は分かっているはずだ。誰よりも聖と付き合いが長くてその本質が分からない訳がない。だからこれはただの戯言なのだ。悲鳴を聞きつけてやってきた門人に何でもない、驚いただけだと惣太と一緒に誤魔化し、二人揃って安堵に肩を落とした。


「丁度いい、惣太に話があるんだ。少し遠慮していただけますか?」

「……わかりました、また参りますわ」


 正直にもう来なくても良いなと聖は思ったがそれは口に出さず、女性を部屋から出して本当に一息吐いた。辟易している聖の姿に惣太は首を傾げるが、だらりと寝転がってしまったのでそれを聞くのも憚られてしまった。しかし聖の様子を見る限り花街との様子が全く違うので本当に困っていたのだろう。長く付き合っていても聖が女で困っているのを初めて見た。


「何か、本当に困ってるみたいですね」

「本当に困ってんだよ」

「聖さんが女の人で困ってるの初めて見ました」

「うるせぇ。何しに来たんだよ、お前」

「新年のご挨拶です」

「あっそ。お前、貪婪の見習いちゃん元気?」

「し、知らないですよ!それよりなんでこの部屋こんなに紙ばら撒かれてるんですか?」

「恋文。お前にゃ関係ねぇよ」

「そうですか。あ、笛吹いてください。久しぶりに聞きたい!」

「お前に聞かせる曲はねぇ」


 冷たく言い払いながらも聖は薄く笑って笛を手に取った。手元で遊ばせながら壁に背をつけて姿勢を崩し、笛を唇に当てる。ゆっくりと流れ出した柔らかい音は昔と変わらず、惣太は目を閉じて壁に背を付けた。なんとなく聖とこうしてゆるやかに流れる時間が久しぶりで、惣太は緩む口元を隠しもせずに笑った。










 正月が空けて、聖は即効道場に篭った。正月休みで鈍った体を鍛え直そうと聖は一日中道場でシナイを握り三日でほぼ全員を伸した。吉野にはやりすぎだと怒られたが鈍っている兵士たちが悪い。増えた軍事費の謎は吉野と相談した結果一時保留になっている。状況的には何もすることがないのだ。


「演習しようぜ」

「なんですか、藪から棒に」

「兵士たちが弛んでるからよ、気合入れなおそうと思ってんだけど」

「いいんじゃあないですか。お金掛からないなら」

「何、金ねぇの?」

「ありません。だからお金がかからない感じでお願いしますね」


 夕方に聖は思いついて吉野に提案してみた。食後の休みの戯言ではあるのだが口にしたら本当にやりたくなってきた。意外に良い案だと今思い、聖はソファに足を投げ出して煙草を手元で転がした。一本指で弄びながら自分の案に感心し、作戦を内心で立てる。金がないなら先立つものがないのであんまり動けない。やっぱり時期としては無理があるのか。
 一本分の思考時間を設けているうちに、吉野が名案を思いついたように天を仰いでからにっこりと笑いかけてきた。


「そうだ、寒中水泳しましょうか」

「寒中水泳?」

「はい。近くに湖があるでしょう?そんなに遠くもありませんし、いい場所ですよ」

「氷張ってねぇか?」

「それも一興ですよ」


 あんまり良くないような気がするが、近いし金銭面では問題ないだろう。だったら別に良いかとこれ以上良い案が出るわけもないだろうから頷いてしまった。夜のうちに兵士たちに演習をするという話だけを回したが、珍しくみんなやる気だった。
 翌朝早く、道場に向かうだろう兵士たちを連れて聖は湖に向かった。まだ靄の立ち上っている獣道を歩き湖に出ると、湖は凍っていた。どこからどう見ても分厚い氷が張っている。どうやってこれで寒中水泳をすればいいのかわからない。すると、吉野が笑いながら湖の一箇所へおもむろに大きな石を投げた。氷は割れない。


「……何してんだ、お前」

「丁度良いじゃあないですか。両端に穴を開けてスタートとゴールにしましょう」

「さすがにそれは……」

「そうと決まったら穴を開けますよ」


 吉野の作戦は流石に鬼だと思う。兵士だけではなく聖ですらそう思った。顔を青ざめさせている兵士たちをみて罪悪感に駆られたがもう吉野を止められそうにない。さてどうしたものかと思うけれど、どうにもできないものはできないだろう。涙目で訴えてくる惣太と鉄五郎から目を逸らしたけれど体に刺さる幾つもの視線を感じる。


「師範は俺たちを殺す気ですか!?」

「いや、それは……」

「だって確実にみんな死んじゃいますよ!?」

「吉野、やる気だし……」

「師範の弱者!」

「ンだとコラッ!」


 聖が短く吠えた所で吉野の決定は覆せないだろう。既に楽しそうに準備に取り掛かっている。もう絶対に止められない。
 続かない言葉に惣太と鉄五郎は揃ってもう決定は覆らず、もしかしたら自分たちの命がないかもしれないことを悟った。もうやるしかない。やって命がなくなる可能性とやらないで命がなくなる可能性だったら後者のほうが格段に高い。


「まずは穴を開けますよ。三メートルくらいですね、全員ではい開始」


 吉野の笑顔がこれほど怖ろしく見えたことは未だかつてなかった。笑顔で刀を抜くなんて人間じゃあない。それでも文句は言えないので、惣太も鉄五郎もしぶしぶ湖に向かった。見ているだけの大将の口元も引きつっているが、絶対によかったと思っている。後でものすごく文句を言ってやろうと思いながら死地に向かった。










 寒い。寒くてもう冷たいとかじゃなくて痛い。
 湖に潜って数秒で体の感覚がおかしくなった。頭痛とか耳鳴りはしかしすぐに冷たすぎて分からなくなった。もう本当に大将の馬鹿。水の中で何度も何度も大将へ対しての文句を並べながら、惣太は頭上が氷で覆われた湖の中を歩き続けた。広いというほどではないがこれだけの人数が入っているとあんまり進めないし、息も続かない。頭上が氷だから浮かぶこともできない。
 とにかく早く上がらないと本当に命が危ない。鉄五郎の手を取って、惣太は必死に前へ進んだ。前だって人がたくさんいてみんな辛い思いをしているだろうけれど、他人を思いやっていられない。目の前に死神が見える。必死に前へ進み、ようやく頭が空気に触れた時には体がギシギシと軋んでいた。それにしても寒い。


「寒い寒い!死ぬってマジで!」

「何だ、お前らが一番か」

「一人だけぬくぬくしやがって!」


 水から上げた顔が冷たすぎて、いっそもう一度水の中に戻ろうかと思った。けれどこれ以上中に入っていたらやっぱり体温が奪われてしまうので、一番の策は早く上がって体を拭き服を着ることだろう。下着一枚で潜らされてよかった。
 顔を出したら聖がしゃがみこんで笑っていたので、ムカついて惣太は大将の手を掴んで湖の中に引っ張り込んだ。不意打ちでそのまま落ちた聖に反射的に足を掴まれて沈まされるが、もう慣れてきた。


「うわ冷てっ!」

「何遊んでるんですか、貴方たち。おや、鉄五郎君顔色が悪いですよ?」


 聖と惣太が一緒に顔を上げると、今度は吉野がにっこりと笑っていた。しかもあったかそうなコートまで着て。今回も惣太はイラッときたが、吉野に聖と同じようなことをしたらこっちの命がないので手を出したくても出せなかった。顔を青くした聖がさっさと上がって、服を着ていたら寒いと思ったのかさっさと脱ぎ始めた。この寒い日に裸とはすごい違和感だ。
 吉野があまり大変そうに言わなかったので寒いから顔色が悪いのだろうと思ったのだが、土を踏むために手を離そうと思ったが手を離してくれないので振り返って寒さではなく顔が青くなった。鉄五郎の意識がない。


「て、ててて鉄五郎!大丈夫か!?」

「おい、引き上げんぞ。手ぇよこせ」

「師範のせいですからね!こんなこと思いつくから!」


 鉄五郎の手を聖に渡し、引き上げるのを見ながら惣太も湖から上がった。ぞくぞく兵士たちが上がってくるが、皆一様に青い顔をしている。恨みがましい顔でこっちを見るが、聖が濡れて半裸になっているので少し気が晴れたような顔になる。
 吉野が渡してくれたタオルで体を拭いて服を着ている間に、聖が意識のない鉄五郎の頬を叩いたりしているが意識は戻らない。そのうち聖の顔色が悪くなってくる。曇って寒い日に濡れたままでいたら聖の方が病気になってしまう。聖に何かをかけてあげようかと思ったら、惣太が手を出す前に兵士たち数人がこぞって自分の体も拭かずに濡れていないタオルを聖の肩に掛けてた。顔は青白いのに目がキラキラしているので気持ち悪い。


「鉄、おい聞えるか?」

「おやおや、情けないですね」

「お前ぇのせいじゃねーか!」


 頬をたたいても何をしても目を覚まさない鉄五郎の額に触れて、聖は目を眇めた。口元で「熱高ぇな」と呟いた後に起こすことをやめて鉄五郎を担ぐ。次から次へと死人見たいな顔をして湖から顔にヘドロや水草をつけて這い上がってくる兵士たちに口元を引きつらせ、顔を背ける。


「先に帰るぞ。惣太、お前鉄の看病頼む」


 顔が青から青紫に変化して肩で息をしている鉄五郎を担いだまま、聖は半裸で山を降りはじめた。聖の後を慌てて追いかけた惣太は、一瞬後ろを振り返って湖から上がってくるゾンビのようなものたちをみて悪夢みたいだと思った。
 副将のおかげでこの後兵士の約半分が病に倒れた。ガタガタになった軍が正常に機能し始めるまでは三日で済んだが、鉄五郎の体調がよくなったのは一月もかかった。





−続−

正月ッから暇つぶしがてらの大失態