もう桜の花がほころび始めているのかと、見上げた先にある膨らんだ蕾に聖は目を細めた。やっと軍が通常通りに機能し始めたけれど、その間のフォローに残った兵が全力でかかっていたので逆に彼らが力尽きかけている。これが戻るまではもう少し時間がかかるなとがらゆるゆると昇っていく紫煙を見上げながら思う。
 いつの間にかあれから季節が一周してしまった。瀬能が領主になって一年、それは聖が彼に想いを寄せたのと同じ長さだ。


「聖!」


 上から名前を呼ばれて、聖は視線を更に上に向けた。薄い雲に覆われた空から背を預けている壁に近づけると二階の窓からたった今考えていた領主が顔を出していた。去年よりも顔つきが大人っぽくなったと思う。それは苦労が彼をそうしたのかただそんな年頃かなのかは分からない。
 道場から程近い館の壁に背をつけて休憩を取っていた聖は、瀬能にその場から呼ばれた。稽古の途中なので着替えていこうかと言ったけれどこのままでいいと返されたので袴のままで裏口から館に入り、瀬能の部屋に向かった。


「お呼びですかー」

「あ、あぁ」


 入る前に一応声を掛けるとぎこちない返事が返って来て、一体外からここまで来る短い間に何があったのかと思わず眉間に皺が寄る。それを揉み解しながら扉を開けて入ると一番に困った顔をした瀬能が見えた。それに向かい合うように四つの背中が見える。一瞬で誰だか分かって聖の折角解した眉間に再び皺が刻まれた。あの背中は真坂と角倉と、祠長官の沼賀と外交長官だ。一瞬本気で逃げようかと考えたけれど、もうばれているので逃げてもしょうがないと思って諦めざるを得なかった。


「……一体何事ですか?」

「何事だと?随分悠長なことを言っていられるようだな、軍大将殿は」

「先代領主様の一周忌の司祭だ」


 悪意だけで向けられた沼賀の視線を無視して、聖はいつでも逃げられるようにとキレても扉に控える兵が止められるようにとその場で足を止めた。嫌われるのは構わないが、彼が何を言って神経を逆撫でしてくるか分からない。自分で気が短い自覚があるのであまり近づかないようにと吉野にきつく言われている。
 瀬能は物言いた気に彼を見たが、聖が緩く首を振ると拗ねた子供のようにやや下を向いた。それに気づいているのかいないのか、真坂が感情の篭っていない声で一周忌の弔いの話を始めた。そういえばもうあれから一年、と口に言われてしみじみと思う。長いようで短い一年だった。けれど事務的に一年と言われてもあまり実感がわかないし、恩顧ある領主の弔いがなんだか味気ないもののように思えた。


「十日後に行います。そんなに大仰に行いはしませんが、お心積りを」

「……はい」

「一年間、よく頑張りました。これからもこの調子で頑張ってください」

「は、はい!」


 厳しい事務方の言葉を発したのは角倉であるが、その後に意見者たる真坂が幾分柔らかい声で言った。今まで聖は彼と親しくしてきたが自分に向けられるのは厳しい言葉と蔑みの声だけで、こんなに優しい声が出るものかと正直驚いた。
 この四人はそのために集まったらしく、既に決まったことを瀬能にどんどん一方的に告げていくと最後に聖の方へ顔も向けずに迎賓館の掃除と国内の治安維持を命じた。一周忌は内々に済ませるらしく、葬儀の時のように他国から人が来ることはないらしい。けれどもしかしたら使者などが来るかもしれないので一応の掃除は必要らしい。


「では、我々は失礼致します」

「はい。ありがとうございました」


 丁寧に敬語で頭を下げた瀬能が面白くて、聖は思わず吹き出した。口元を一応手で押さえたはずなのに父親を除く三人から一斉に睨まれる。父親に関しては存在すら認識していないようで顔色一つ変えなかった。別にそれは構わないので聖は出て行く彼らの邪魔にならないように端に避ける。擦れ違う際に沼賀に睨みつけられたけれど、気づかないふりをした。戻ったら弟の大輔を苛めてやろうと思う。


「俺も失礼した方がいいですか?」

「いや、聖はちょっと……」

「ん?」


 ちょっとと言ったきり黙ってしまった瀬能に首を傾げ、聖は足を投げ出すようにゆったりと瀬能に近づいた。椅子に座ったまま俯いているのでどこにいるべきか分からず、ただ瀬能の前の机に浅く腰掛けた。瀬能に背を向けるような格好になり僅かに腰を捻ると、瀬能は俯いたままもごもごと何かを言ったが残念ながら聞えなかった。


「俺しかいないからはっきり言えよ」

「……私が領主になって一年経った」

「そうだな」


 大人になったと思ったその姿が何故か小さく見え、聖は薄く笑う。大きくなったと思ったのは彼がそう見せていただけで、本当は自信もなく緊張ばかりなのだろう。それでも周りがそれを強要するから頑張って胸を張っている。それが自分の前だけ素に戻ってくれるのがひどく嬉しかった。やはり彼を守らなければならないのだと、改めて思う。煙草を銜えて、しかしライターは握って火を点けぬまま瀬能の次の言葉を待つと、それは泣きそうに震えていた。


「ちゃんとできていただろうか……」

「…………」

「ちゃんと領主をやれていただろうか」


 とても不安でいたのだろう。俯いてしまった瀬能から顔を逸らして、聖は煙草にようやく火を点けた。ちりちりと赤くなる先端をぼんやりと眺めながら紫煙を吸い込み、深く肺まで浸透させる。じわりと染み込むのを感じながらゆっくりと細く吐き出し、彼の言葉の続きを聞いた。不安で不安でいっぱいだったその言葉を聞いているうちに抱きしめたくなってしまったけれど、手をきつく握り締めて堪えた。
 煙草一本分吸い終わると聖はゆっくりと瀬能のほうを向いた。


「出かけっか」

「は?」

「ちょっと散歩。煙草買いに行くの付き合わねぇ?」


 まだ一本だけ残っている煙草を袂に仕舞いこみ、着替えてくるからと言って聖は瀬能の部屋を早足で出て堪えていた力を発散させるために扉の傍に控えていた兵の腹を力いっぱい殴った。もう一人の兵が驚いて目をむいているがただ「なんでもねぇ」とだけ言ってシャワーを浴びに詰所へ急いだ。










 私服に着替えて瀬能を迎えに行くと、瀬能は言葉を失った。失礼だと怒れば真っ赤な顔をして女の子のように驚いたと言いわけをしてくれたのでからかうのはそれだけにして街へ出た。暖かくなってきた陽気に誘われるように人々の活動も活発になっている。子供が行き交う道は微笑ましい光景だ。


「あったかくなったよなぁ」

「そうだな……」


 瀬能も街の光景を見て小さく呟いた。街はこんなに平和なのだと瀬能に伝えるために外に連れ出したのだが、どうやら成功のように一安心だ。子供が笑いあう光景ほど平和を象徴するものはない。戦が終わった直後だった聖が大将になったころなどは、子供は家にこもり大人さえも談笑してはいなかった。それが今では母親は買い物籠を下げて談笑し、その周りで子供たちが遊びまわっている。今までと変わりない光景が広がっている。


「おばちゃーん、煙草」

「やっと自分で来たかい。いつもいつも子供に買わせて……おや、今日は可愛いのをお連れだね」

「ま、な。何か面白いの入ってる?」

「はいはい、ちゃーんと取ってあるよ」


 一度老婆は店の中に入っていき、いくつかの煙草を持って来た。並べられた五つは瀬能には何が違うのか分からないけれど聖は指先でつつきながら物色してる。何もすることがなくて瀬能は街の様子に目を向けていたが、耳はしっかりと聖と老婆の会話を拾っている。


「最近どう?」

「すこぶるいいねぇ。景気も良くなってきたし、安泰だ」

「そりゃ良かった」

「孫がね、嫁に行ったよ。しかもいいとこの坊ちゃんに見初められたときたもんだ」

「そりゃおめでとさん。可愛かったもんな」

「最後まであんたと一緒になりたいとか言っていたがね、櫛もらってイチコロさ」

「櫛かぁ、よかったな」


 聖が煙草を選んでいる間に老婆が櫛を女性に贈るということは苦しい時も死ぬ時も一緒だというプロポーズだと教えてくれた。それを初めて知って瀬能は感動したが、聖は呆れてそんなことも知らなかったのかと笑った。
 しばらくして購入するものが決まると老婆はそれを待っていたかのように追い払った。客なのだからそんな扱いはと瀬能が思うほどに邪険だったが、聖はいつものことだと笑ってもと来た道を戻り始める。慌てて瀬能もその背を追った。


「どっか寄ってくか?」

「いや、早く帰らないと……」

「何か奢ろうかと思ったんだけど、真面目だなぁ」

「だって勝手に出て来てるんだぞ」


 早口で言った瀬能に聖は笑って、「じゃあ帰ろう」と少し歩調を緩めた。歩きながら主語もなにもなく「どう」と訊くものだから一瞬意味が分からなかったけれどすぐに街の様子だと気づいて、瀬能は頷いて答えた。街がこんなに平和でいる。それは瀬能自身がちゃんと領主をできていると言う証拠で、聖は何も言わずにそれを教えてくれた。どんな言葉で慰められるよりもそれは瀬能を安心させる。


「聖さーん、ちょっと寄っていかない?」

「おー。何か新しいの入った?」

「これ、櫛!なんと鼈甲よ!」

「マジで。瀬能、ちょっと見ていこうぜ」

「え、ちょっ……」


 小間物屋の女将に声を掛けられて、聖は笑みを浮かべてその店に寄ろうと足を伸ばした。瀬能を促しながらもう目はその新商品とやらに向いている。遠くなっていこうとする背中を追いかけ、思わず瀬能の手が伸びた。聖のざっくりと編まれた毛糸のカーディガンを思わず掴み、不思議そうに振り返った聖の顔を見た瞬間に恥ずかしくなって手を離すが聖は喉で笑って手を伸ばした。


「迷子になんぞ」

「こ、子供じゃない!」


 瀬能は自分の手を後ろ手に隠し、あらぬ方向を向いた。聖は笑っているけれど無視して足の先にある店を覗き込む。いつまでも笑っている聖の手が後ろから伸びてきてぽんと瀬能の頭に触れた。さらりと髪をかき回され、くすぐったくて思わず頭を何度か振った。そして彼のその仕草に何となく安心している自分に気づく。聖の手は、父親のそれに良く似ていた。


「鼈甲の櫛なぁ。でも俺、漆の買ったばっかだし」

「誰に買ったの!?」

「もちろん俺用。あぁ、そうか。それ頂戴」

「はいよ。誰にあげるんだかねぇ」

「余計なこといいから包んでって」


 ふふふ、と意味深に笑う女将を急かして聖はおろした髪を自分の指で梳いた。それを見ながら瀬能は奥を覗き込む。自分には関係ないはずなのに、聖が誰のために買ったのかとても気になった。それを訊いてもいいのかと聖の顔を窺うと、聖はただ笑っただけでその回答を拒絶していた。何となく、聖に拒絶されるとは思わず瀬能は少し胸が痛んだ。


「聖にも櫛を上げる人がいるんだな」

「は?」

「婚約が滞っていると聞いたが……」


 誰が話していたわけではないが噂で聖の婚約が複雑を極めているという話を聞いた。その相手に贈るのだろうか、それとも他に好いた女性がいるのだろうか。そう思って、瀬能は自分が聖のことを何も知らなかったのだと気づいてしまった。
 聖はしばらく言い辛そうにしていたが、女将が包みを持ってきて代金を払うと聖はそれをすっと差し出した。


「一応、瀬能にやろうと思って」

「え!?だ、だって……」

「苦しい時も死ぬ時も護るって、言っただろ」


 男に櫛なんていらないだろうと強がって瀬能が言うと、聖は身だしなみだと笑って歩き出した。「帰ろうぜ」と笑った聖の顔を直視できずに貰った櫛を胸に抱いてのろのろと足を出すと聖も足を止めるので、置いていかれないように瀬能はカーディガンの袖を掴んで歩いた。





−続−

初々しいカップルのようだ!