満開の桜を道場の窓から見つめて、聖は目を細めた。ぽかぽかと板張りの床を暖める日光には眠さを誘われるはずだが、尚静謐な雰囲気を纏う道場には眠気は一切訪れることはない。久方ぶりに吉野と共に道場の壁に寄りかかって兵士たちの稽古を見ながら、聖はちらりと隣の親友に視線を移した。


「春だなぁ」

「そうですね」

「恋の季節だなぁ」

「そうですね」

「珍しいな、お前が肯定すんの」

「そうですね」

「……きいてねぇな」


 会話をしていると思っていたのは聖だけだったようで、返ってくるのは同じ言葉だけだった。別に何か考えている風ではないのでただ返事が億劫なだけだろう。返って来ない意思のある言葉を早々に諦めて聖は結い上げた髪を解くと指先で梳かしながら壁から背を離した。ちょうどそこで稽古に励んでいる惣太と鉄五郎を見つけて、声をかけシャワーを浴びに詰所へと足を向ける。その際に吉野にとげとげしい言葉を向けられたけれど弁解らしいことも何も言わず、聖は惣太を連れ立って着物で街に足を向けた。
 目を白黒させて意味が分からないと表情で物語る惣太に着物を無理矢理に着せて、聖は日が落ちると同時に花街の門を潜った。本部を出たのは三時頃だったはずだから二時間近くを近隣の茶店で過していたことになる。惣太と二人で時間を無為に過すことが久しぶりだった分聖にとってはそれはなかなか楽しい時間だったけれど、終始変な目をしていた惣太が気になった。


「それで、どうしてこうなるんですか!?」


 その店で部屋に案内されてから、惣太の信じられないと主張する表情にどうなるもこうなるもないな、と思い聖は内心苦笑した。惣太を連れてきたのは馴染みの貪婪ではないが、惣太だって聖の迎えで何度か来たことがあるにも関わらず落ち着きなく辺りをきょろきょろ見回している。確かに惣太をこういう場所に他意もなく連れてきた事はなかったと思うので、そういう意味では初めての経験なのかもしれない。


「お前いくつになった?」

「十七です、けど……」


 桜が満開の春の日に惣太は生まれた。この間誕生日を浮かべた弟分に改めて歳を聞けば、戸惑いながらも答えてくれた。一応吉野と鉄五郎と祝ってやりはしたが、今年はあんなケーキだけの祝いだけで済ます気はサラサラない。これがプレゼントだと主張する気もないが、年頃だしたまにはこういうのもいいだろう。
 疑わしそうに見つめてくる惣太の視線を盃を干すことで交わし、肴を軽く箸で突きながらだろ、と言うと訳が分からないのか目をぱちくりさせてちびりと盃を舐める。


「そろそろ女知ってもいい頃じゃねぇの?」

「結構です!」

「そう言うなよ。それとも姫菜ともう寝たのか?」

「なっ!?」


 聖の言葉に惣太は一瞬意味を取りそこなって目を瞬かせたが、次の瞬間には顔を真っ赤にさせてなぜか立ち上がった。その拍子に盃の中の酒が数滴零れたがそれに取り合うほど聖にも余裕がなかった。惣太の反応が面白すぎて吹きだすかと思ったが、どうにか鍛えられた腹筋に力を込めて止める。それを悟らせないように煙草を引き寄せると震える手で火を点けて一息吐き出し、やっと落ち着いて体制を崩した。


「あのな、あの子はそのうち女になるぞ」

「…………」

「そのときにお前どうすんだ?」


 あそこにいる以上彼女もいつか客を取って躯を開くだろう。それは当然の理ではあるが、惣太ほどの少年に理解できているとはあまり思えない。何年も聖と一緒にいてこんなにも純粋でいられる方が珍しいと聖本人が驚くほどだ。惣太が彼女のことを好いているのは気づいているけれど、だからこそ早めに釘を刺しておかなければならないと思った。
 案の定沈黙してしまった惣太に対して、聖は薄く口の端を歪めて紫煙を深く吐き出し煙草を突きつけた。煙の痛さに思わず惣太の目がぎゅっと閉じられる。


「いいから俺のいうとおりにしとけ」


 その言葉を待っていたわけではないだろうに、聖の言葉が終わったとほぼ同時に女性が二人入って来た。女性たちのうち一人に聖が耳打ちするとそそくさと出て行き、残った一人が聖の隣に腰を下ろして置いてある箸を取って聖の口元に運んだ。


「聖さん、あーん」

「いいか惣太、恋愛なんて奇麗なモンじゃない」

「……聖さんに言われなくても、分かってます」


 女性の差し出す箸を手で制しての真面目な声を受けて、惣太が一度顔を落とした。何か考えるように唇を噛み、数秒の沈黙の後拗ねた子供のように吐き出すと一舐め分しか残っていない盃を一気に干して叩きつける。微塵もよっていない彼の瞳には随分と辛そうな表情が見て取れたが、聖は言葉を翻す気はサラサラなかった。
 しばらくすると聖に何か言われて出ていた女性が戻ってきた。にこりと微笑んだ女性に聖が「手取り足とリ頼むな」と言いつけた後、彼女は惣太を伴って床の延べてある部屋へと誘った。










 翌朝空けて、惣太はとぼとぼと一人で歩いて自宅へ帰った。零れる溜息を止めもせず、もう何度吐き出したか分からない。
 昨夜のことを思い出してほのかな恋心を彼女に抱いていることを改めて惣太は感じ、また溜息が出る。初恋は叶わないといった人は一体誰だ、斬ってやる。思わず口の中で漏れる言葉は普段からは創造できないほど凶暴なものになった。それでも、自分が許せない。別に聖に唆された訳でもあの女性にたぶらかされた訳でもない、全て自分の意志だった。これでもう、聖の花街通いを咎められない立場に陥ってしまった。


「惣くん」

「……ん、何?」

「今日はお休みなのかい?」


 家に帰って早々に惣太は自室に篭った。ただ何に自分が何を感じているのかも定かではないけれど、それでも聖の顔を見る気分になれなかったし軍服に袖を通す気にもならなかった。更に言うなら動く気すらままならない。
 そろそろ昼になる頃だろうか、父親が顔を覗かせた。時計を見れば確かにそろそろ昼になる頃なので食事を呼びに来たのだろうか。そもそも父も仕事は休みなのか。惣太は本来は休みではないが今日は行かなくても文句をいわれないだろうと踏んでいる。それを曖昧に唸って答えると、部屋に入って来てすっと扉が閉まった。居住まいを直す父に、思わず惣太も起き上がって姿勢を正した。


「ちょっと折り入って話をしたいんだけど、大丈夫かな」

「うん?」

「家を継ぐ気はあるよね?」

「う、うん」

「軍を辞めてくれるかな」

「……え」


 話始めから嫌な予感はしていたが、軍を辞めろといわれるとは思わずに惣太は言葉を失った。だって前に頑張れって言ってくれたのに、今になってそんなことを言われるとは思わなかったし言葉の矛盾に腹が立った。今日は確かに行きたくなくなったけれど、軍を辞めようなどと思ったことは一度もなかった。だからこそ、予想外に提示された意見に言葉も出ず動けもしなかった。


「それに今、少しきな臭いんだよ」

「きな臭い……どこが?」


 少し声を潜めた父の声に、惣太もいぶかしむ表情を作った。一度は反感を持ったけれど、外交部官を努めている父の情報は当てになる。いつも聖たちの傍にいる惣太もそういうことに対しては多少聡いけれど、耳にしたことのなかった話だった。外交部官の言葉ならば国同士の諍いが不安定で戦でも起こりそうなのかと思ったが、彼は声を更に潜めて惣太の耳元に唇を寄せる。そして、耳を疑った。


「軍がだよ」


 軍がきな臭いなんてきいたことがない。そもそも中央にいる兵はみんな大将に命を預けているし、地方の兵だってその頭をしっかりと押さえつけてある。だから絶対に反乱などはありえないし、そんなものがあったって聖が負けるわけがない。ありえない、と惣太の唇が動いたが息が抜けただけで言葉は出てこなかった。その間に、父は潜めることをやめた言葉を続ける。


「角倉大将は得体の知れないところがあるし、領主様とも親しくしている。角倉が権力をねこそぎ持って行こうとしているんじゃないかって、ね」

「でも、聖さんは……」

「それは外から見ただけであって、本当に彼を手放したかなんて分からない。婚姻の話が滞っているのもそれが一因じゃあないかな」


 でも、という言葉を惣太は辛うじて飲み込んで俯いた。でもも何もないのは分かっている。惣太は確かに聖のことを知っているけれど、それでも大分掛かった。それを上っ面だけしか見ていない文官に分かるわけがない。
 ただ貴族たちはやっぱり軍も聖の存在も認めたくはないのだろう。だから難癖つけて引き摺り下ろそうとする。以前のようにこの国が平和であったならばいいかもしれないが、今の不安定な情勢だから彼が軍の頭にいるだけなのだろう。あまりの口惜しさに、惣太は爪がめり込むほどに強くてのひらを握りこんで文句を飲み込む。聖を知らない人間には何を言っても無駄だ。


「それとこれとは関係ない!」


 胸に渦巻く分からない感情を無為に吐き出して、惣太は立ち上がった。もう家にもいたくなくてでも詰所に戻ることもできなくて、聖のように花街に逃げる訳にも行かずただ行き場を求めて外に出たが、どこにも行く所は見つからなかった。










 足は自然と花街を避けるように裏道を走り、気が着けば外れまで来ていた。この辺まで来ると一般人も軍人もあまりおらず、柄の悪い青年たちが我が物顔で闊歩している。この辺を家捨てられた土地だと言う人間もいるようだが、街道からは少し離れているただの反抗期の青年たちの溜まり場だ。外だというのに汗と紫煙の匂いが入り混じっているようなここが、惣太は嫌いじゃあない。かつて自分がここの内部にいた人間だからかもしれないが、この饐えた匂いを心地よく感じることだってある。ただ最近では近寄ることも減ったから知らない顔も増えている。
 ぼんやりと歩いていると、誰かと肩がぶつかった。あるいはわざとぶつけてきたのかもしれない。ただ今の惣太にはそんなことを考える余裕もなくただ体がふらついてたたらを踏んだ。


「すんません」

「人にぶつかってすんません、だぁ!?」


 柄の悪い男たちが多いから、子供にはここに近づくなとよくいい含めるとも言われる。確かに惣太も子供の頃に言われた。そこで肩をぶつけてただで済むとは惣太だって思っていなかった。だから文句をつけられて胸倉を掴みあげられ、生臭い息をかけられてもどうとも思わなかった。
 いつもの惣太には見られないような荒んだ目で近い男の目を見ると、己の顔が見える。その表情は数年前に聖が浮かべていたものと寸分と変わらないものだった。


「聞いてんのかぁ?」

「……うるせぇな」

「あぁ?」

「うるせぇっつってんだよ!」


 みんなみんな、うるさい。今は静かにゆっくりこんがらがった頭を解したいのに、どうしてこうも邪魔が入るのか。
 暗い光を瞳に宿らせたまま、惣太は男の手を振り払って距離を取った。気色ばむ男を睨みつけると、その世界はなんだか紫煙を通したようにくぐもって見えた。ただそれは懐かしい気がして、惣太はポケットに手を突っ込んで口の端を歪める。その姿に、惣太はどこか聖に似ていると思った。


「俺を誰だと思ってんだよ」

「誰だよ、ガキ」

「お、おい!こいつもしかして……」


 きつく睨みつけると茶化したように男が笑ったが、傍にいた一人が惣太のどこかに目を留めて慌てふためいた。なおも笑っている男に耳打ちし、みるみるその顔色が変わる。さっきまで殴りかかってくる気であったようなのに引け腰になり、そして顔を引きつらせる。


「『聖なる左手』佐々部惣太……!?」

「なんだ、知ってんじゃん」


 昔の名前を出されて、惣太は薄く笑みを刻んだ。しかしその名も聖の腰ぎんちゃくと言われているような気がする。昔はその名が現すとおり聖の左手であることが誇らしかった。右手ではなくいつでも彼の立になれる左手と呼ばれることがうれしかった。けれど今は、その名すら煩わしい。ただ聖の言っていることも彼がちゃんと考えた上で示してくれたことだとも分かるから、怨む気持ちにもならない。そのせめぎあいが、惣太の表情を黒く染め上げた。


「知ってて手ぇ出すとか、馬鹿じゃねーの!」


 たかだか町の不良と過去最強を謳われる人間の片腕として存し現役軍人である惣太との力量の差は歴然だ。殴りかかった惣太は、ものの一分と経たないうちにその男を殴り倒して昏倒させた。じんじんと痛む拳はしかし何も伝えず、ただ無様にも地面に伏している男を見下ろして惣太は唾を吐き出したくなった。
 無傷の自分に哄笑が沸いてくる。どれもこれも聖のおかげで、聖がいたからここに今惣太がいるのに。それなのにどうしてこんなに彼に反感を抱いたのか、自分に腹が立った。気合を入れなおすために一度自分で頬を張ったが、まだ胸に渦巻く分からない感情は消えることもなかった。


「おう、珍しく暴れたな」

「……聖さん」


 声をかけられて、惣太はいつもの笑顔を浮かべようとしたが多少ぎこちないものになってしまった。それを浮かべて振り返ると、物言いたげな聖が立っていた。ただ惣太が彼に伝える言葉を持たずに視線を落としたまま黙っていると、ゆったりと歩みを進めた聖に不意に肩を抱かれた。肩に掛かった腕の重みに惣太が顔を上げれば、いつもと変わらない奇麗な顔がそこにあった。




−続−

惣太、反抗期!?