行くぞ、と言われて惣太はしぶしぶながら聖に従って帰路についた。ただ家にも詰所にも帰りたくない気持ちも変わっていなくて、どうしても歩みが遅くなってしまう。それでも聖から遅れると、彼は立ち止まって惣太を待った。
 聖が向かった先はしかし詰所ではなかった。もしかしたら今一番行きたくない場所かもしれないが花街の、貪婪のいつもの部屋に通されて腰を下ろしてから惣太は今更ながら逃げ出したくなる。自分の犯した罪に自分の首が絞められそうになるなんて、思っても見なかった。ただそれだけのことをしたと、裏切りの卑劣さに気づいた。


「お前の親父さんが血相変えて来たぞ」

「……はい」

「惣太がいなくなった探してくれって。確かにお前、無断で休んでるし」


 人払いしたのか酒が運ばれてくる気配もしなければ人の控えている気配もない。聖がよく使う店ならば何か言われているのか悟ったのか知らないが心得ているのだろう。そう気づくと少し楽になった。聖が姿勢を崩しているので惣太も足を崩す。そしてそういえば聖が軍服を着ていることに気づいた。仕事だから、探しに来てくれたのか。
 一度口を閉じた聖はポケットの中に指を入れ、煙草でも探していたのだろうが忘れてきたようで舌を一度打ち鳴らす。


「でも昨日の今日で兵出す訳にもいかねぇだろ。吉野も言うしさ、俺が迎えに行ってやったんだよ」

「……探さなくてよかったのに」

「いつまでも拗ねてんなよ。迎えに行ったっつってんだぞ」


 煙草を探して聖が手で胸の辺りからパンツをパタパタ叩くのを見ながら、惣太は彼の多少イラついた声を反駁した。探したんじゃなくて、迎えに来てくれた。その言葉の差異に少し引っかかりながら聖を見つめると、それに気づいた聖は薄く笑う。その笑みが全てを許容するような色を持っていることに惣太は気づいて思わず涙が零れそうになった。この笑顔を向けてくれたから、惣太は聖に命を差し出そうと思った。それが今も、変わっていない。やっぱりこの人について行けば間違いないのだと、確信した。


「俺がお前のこと見つけられねぇ訳がねぇだろ」

「…………」

「ほら、泣くなよ」

「泣いてません!」


 じわりと涙が滲み、惣太は慌てて瞼を擦った。けれど聖が笑いながら大きな筋張った手で頭を撫でてくれるから、耐え切れず一粒だけ涙が零れ落ちた。聖の手は、父親の手よりも安心する。惣太が初めて聖と出逢って五年、いつだって聖の手に慰められて力づけられてきた。だから後悔渦巻く今も、目の前のこの男が諸悪の元凶であるはずなのにひどく安心する。
 惣太が涙を拭って顔を上げると、聖がやはり笑っていた。そして少し申し訳なさそうな苦笑に歪む。その笑みに痛んだ胸は、けれど渦巻いた罪悪感は聖のおかげで生まれたものだ。それはいい訳であって責任転嫁かもしれないけれど、それでもやっぱり誰かに責任を押し付けないと正気を保てそうにない。


「落ち込んでんだって?」

「別に落ち込んでるわけじゃあない、です」

「一応一部始終は蘭子さんから聞いた」


 奥歯を噛み締めて俯いた惣太は、じっと畳の目を見つめた。昨夜相手に宛がわれた女性を蘭子と言った。朱門で聖の相手をしたことがない女性はいないとまで噂されているがそれは強ち嘘ではなく、だから彼女も以前聖と関係していた女性だった。その彼女に本当に手取り足とり教わってしまったが、それも聖の差し金だったのか。ならば今惣太がどういう気持ちでいるかだって手に取るように分かるだろうに、聖は何も言わずに黙って取り出した扇子を指先で弄んだ。


「貞操がどうとか、そういうこと気にしてんのか?」

「…………」


 聖の不躾にも思える問に、しかし惣太は首を横に振った。惣太だって男だから、そんな所に拘るつもりはない。でも何が引っかかるかと言えばやはり彼女を裏切って他の女性と契ってしまったことだ。純粋に彼女のことが好きだと思ったのは隣にいる女性に気づいた朝だからその点では感謝もするが、それ以上にやはり胸が締め付けられるように苦しかった。


「お前もあと何年かすりゃあ婚約だ何だって言われるようになる」

「……はい」

「その前に遊んでおけって言うつもりじゃねぇけど、あそこは遊ぶ場だ。お前はあそこの女に惚れていい立場じゃねぇだろ」


 佐々部の長男だという意識はちゃんと惣太にも備わっている。幼い頃から言われ続けて、いつかは然るべき女性を娶って家を継ぐ。きっとそのときは妻になった女性を心から愛し慈しむようになれれば良いと思うし、そうなりたいと思っている。ただ逆に家で決められた人ではなく自分が恋をした女性を愛しぬきたいとも思う。そして今は、好きな人ができた。だからその人を真っ直ぐに見つめたかった。
 それでも聖は、自分のことを棚に上げて淡々と扇子を片手に惣太はそうではいけないと言い募る。ここは遊ぶ場所であって本気の恋愛をしてはいけないのだと言うけれど、惣太はそれではひどく淋しいと思った。本気の愛ではなく戯れの遊戯を楽しむ聖が、ひどく悲しく見える。


「確かに側室として身請けする男もいる。でもお前、そんな身分でもねぇだろ?」

「……はい」

「それに側室なんて、いいもんじゃない」


 ほんの一瞬、たった一瞬だけ聖が淋しい顔を作った気がして惣太は唇を噛み締めて僅かに視線を上げた。きっと聖はどこかに自分の面影を重ねている。誰かに母親の面影を重ねて何かを憂いている。それは惣太が原因だろうけれど、そうじゃあないかもしれない。ただその顔を見たくなくて、惣太は顔を上げられない。


「でも、好きなんです」

「……そっか」


 上げられない、でも上げなければならない。意志の力で辛うじて顔を上げたが聖の顔を見られなくて、惣太は彼の顔を視界から僅かに外してはっきりと口を開いた。その言葉の重さを噛み締めるようにゆっくりと口にすると、視界の端で不意に聖の表情が揺らいだ。柔らかく細められた目に気を取られた一瞬で、大きな手に頭を撫でられる。反射的に聖の奇麗な顔を見上げると、苦笑が降ってきた。


「それじゃあしょうがねぇな」


 なんとなく聖に許可を貰ったような背中を押してもらえたような、そんな柔らかい笑みに思わず惣太の口元にも笑みが浮かぶ。何かに満足したように聖は立ち上がると外に声をかけた。一体どうしたのだろうと思うと、惣太が言葉を探している間にみどりが煙草を持って入ってきた。ふわりと聖の顔に嬉しそうな笑みが浮かんだが、惣太にはそれが煙草に対してなのかみどりに対してなのか分からない。ただ受け取った煙管に嬉しそうに口をつけた。


「そんじゃ、お前はもう進むしかねぇぞ」

「え?」

「うじうじ悩むのも後ろ向くのもいいけど、それじゃあもう知らねぇからな」

「知らないって……」

「勝手にしろ。でも俺は、立ち止まってる奴背負っていくほど広い心を持っちゃいねぇ」


 紫煙を吐き出しながら、聖は鋭い目にどこか笑みを匂わした。うじうじと過去を後悔して立ち止まっているよりもそれを糧にプラスの方向に思考を向けろという聖はやはり昔から変わっていない。否、変わったのかもしれないけれどそれ以降変わっていないから安心した。
 聖に添うように座していたみどりが薄く笑って、聖の髪に指を伸ばした。緩く括られているかんざしを引き抜くとさらりと中途半端な長さの髪が降りてピアスを隠す。それを丁寧に指で集めながら、彼女は笑った。


「でも惣太君はやっぱり聖に似てるわ」

「……どこが?」

「恋に対して臆病なくらいに真面目な所」

「どこがですか!?」


 みどりの声に悲鳴のような声を上げたのは、惣太だった。驚きすぎて立ち上がってしまったが、彼女の妖艶な瞳がこちらを向いたので急に恥ずかしくなってすとんと腰を下ろした。聖の髪を丁寧に結いながら彼女は聖の全てを知っていると言ったが当の聖は文句を言わなかった。


「体の問題って難しいわね。聖も惣太君みたいに悩んでいたときがあったのよ」

「いつですか!?」

「そうね、始めからだと思うけど……一番顕著だったのは帰ってきてからね」

「みどりさん」

「はいはい」


 笑みを含んだ声でいうみどりを聖は一言で止めたけれど、もう遅かった。その頃を惣太は知っている。直接知っているわけではないけれど聖は今でも引きずっている恋がある。それは五年経った今でも彼を苛んでいる。ただ聖が何も言いたがらないから何も聞かないだけで、聖はまだその人の面影を探している。
 口を噤んでしまったみどりを更に問い詰めても答えてくれないだろうと思い惣太はそれ以上問いを重ねることをやめた。


「姫菜のこと、大切にしてあげてね」


 部屋を出て行こうと立ち上がったみどりに言われて、戸惑った後惣太はこくんと首を落すように頷いた。頷いた所でその自信はない。どうやったら大切にできるのかなんて知らないし、きっと聖に聞いても教えてくれない。ただ分からない分だけ一生懸命好きでいようと、聖にいったら青臭いと笑われるだろうけれど確かにそう思った。










 惣太がいなくなったという報を聞いても、誰も取り乱さなかった。ただ鉄五郎が慌てるのを尻目に聖と吉野が面倒くさそうに視線を交わし、無言で聖が席を立って執務室を出て行く。相手は惣太を探して欲しいと言っているのに何もせずにいる上官に鉄五郎は疑問を覚えたけれど、口を出せる雰囲気でもなかったので何も言わずに黙っていた。
 ただ聖が出て行ってから溜め息を吐いた吉野に思わずお茶飲みますか、と聞いたら力なく頷かれたので鉄五郎がお茶を淹れに立った。


「どうしてこうも頭の痛い問題が重なるんですかね」

「問題ですか?」

「非常に厄介な問題です。本当に嫌になります」


 口にした割には中身を言ってくれそうもないので、鉄五郎は深く聞かなかった。ただ惣太の行方が気になっているということのほうが大きかったからかもしれないし、そうでもないかもしれない。ただ今の吉野に何かを訊くには余裕を感じられなかった。
 ただ何となく理解したのは、竜田軍内部で問題が発生したこと。否、軍の内部ではない。竜田という今まで平和で大した小競り合いすらなかった国の内部が乱れている。


「惣太を探さなくていいんですか?」

「聖さんが迎えに行っているから、心配ないですよ」

「迎えにって、いなくなったんですよね?」

「いいえ、迎えに行ったんです。惣太君のことは聖さんに任せておけば大丈夫ですよ。あの二人は昔から仲良しなんですから」

「昔?」

「僕なんかよりよっぽど、惣太君は聖さんの事を分かってます」


 吉野の台詞に鉄五郎が首を傾げると、吉野は少し温いお茶で喉を潤して目を細めた。そして、ゆっくりとかつての話を掻い摘んで語りだした。
 吉野と聖が出会う頃にはもう惣太と聖は今の関係を築いていた。だからきっと惣太にとっては吉野の方こそ間に割り込んできた異物であっただろう。昔から惣太は聖を慕ってその背中を追っていた。彼の背中を眺められる位置を定位置と定めていた。けれど吉野は聖の隣を選んだ。だから惣太にとっては見える景色こそ変わったけれど見ているものは変わらず聖の背中なのだろう。聖もまた背後に惣太がいることに安堵し疑わないから、彼らの立場はもう何年も変わらない。だから、惣太のことは聖に任せておけば大丈夫だ。
 その話を聞くまで、ただ惣太は聖と吉野を慕っていたのかと鉄五郎は思っていた。しかし吉野が少し淋しそうな表情を浮かべたのは気のせいだろうか。


「俺はそれよりももっと新参だけど、三人とも大好きです!」

「それは……ありがとうございます」

「それで、これ以外に厄介な問題ってなんですか?」


 ふわりと吉野の顔に浮かんだのがいつもよりも照れを含んだ微笑だったから、鉄五郎の方が恥ずかしくなって顔を逸らしてしまった。自分もお茶をすすってから、別の話を切り出す。その前にしていた話のおかげで仲間意識は高まっているので、吉野はそれでもやや逡巡した挙句に口を開いた。


「軍に謀反あり、なんて言われてるんですよ」

「叛意ですか?」

「謂れのない憶測です。ですが大将が角倉の人間であり領主と親しくしているとなれば、疑われて当然です」


 淡々と吉野は言葉を紡ぐから鉄五郎にその重大さは上手く掴めなかった。何度か反駁して、ようやく頭に沁みこんだ言葉に驚きを隠せない。大将が領主に忠誠を誓ったことは誰もが知っていることだし、聖が角倉から半勘当扱いをされていることも周知の事実のはずだ。それなのにその血を引くという本人の意思を無視した繋がりを持ち出すというのか。
 けれど鉄五郎の考えなど、吉野の冷たい声に簡単に否定された。


「外では何とでも言えます、角倉が何かの手を講じない限りこちらからは晴らしようもありません」

「でも!」

「聖さんが瀬能様と親しくしていることも事実です。僕らには微笑ましいことでも、小狡い方々にはそんな風に歪んで届いてしまうんですよ」

「どうするんですか!?」

「普通はここで誰か責任を取って腹割くなり首斬るなりするんですが……」


 狙われているのが大将で、稀代の天才に陶酔する人間は多い。もしこの処理で聖の首をはねようものならば地方が黙っていないだろう。各地の師団長には信頼できる人間を置いている。それだけ聖に対して盲目な人間もいるのでそれこそ反乱になりかねない。だから正直、吉野にも対処する方法が見つからなかった。
 お互いに言葉もなく黙っている時間がどれくらい続いただろうか。時計の針は気が付けば二周もしていた。その間に吉野は何も言わずに仕事を片付けていたが、鉄五郎は何も考えられずに黙ってソファに体を預けていた。ただあまりにも脆いこの国がひどく滑稽に思えた頃だった。


「煙草煙草」

「おかえりなさい、聖さん」

「ただいま」

「惣太君はどうしました?」

「家帰るっていうから、置いてきた。煙草見っけ」


 相当飢えていたのか、帰ってくるなり大股で机に歩み寄り机上に置きっぱなしの煙草を引っ手繰るようにして取ると聖は満足そうに火を点けた。そして灰皿を持って鉄五郎の隣にドカッと腰を下ろす。思わず見上げた横顔は出て行ったときとあまり変わらない顔をしていた。


「惣太君、どうでした?」

「ん、多分大丈夫だろ。あいつはそんなに弱くねぇ」

「そうですか。安心しました」

「ところで吉野」

「……はい」


 不意に聖の声が真面目になったから、吉野が顔を上げて真面目な顔を作った。先ほどの難しい話しかと思って鉄五郎は黙って少し距離を置くように移動する。吉野も察したのか執務机から立ち上がってお茶を持って聖の前に移動し、それを待っていたかのように吉野が席に着いてから聖が真面目な顔を真っ直ぐに吉野に向けた。


「お前、女経験は?」

「…………」


 真面目だと思っていた質問は全く現状に関係のない質問で、吉野は一瞬口元に笑みを浮かべ損なって口の端を引きつらせた。答えの代わりに無言で手元のさほど熱くないお茶を聖にぶっ掛け、それは見事に煙草のケースごとしけらせた。聖が悲鳴に近い声を上げたが、吉野の声は一層低くけれど顔が笑っていてひどく怖かった。移動していてよかったと鉄五郎は心底自分に感謝する。


「適度に遊んでいますので、ご心配なく」

「遊んでんの?」

「聖さん、黙らないと二度と遊びに行けないようにしますよ」

「いや、惣太のことがあったしお前からそういう話聞かないから!な、鉄!?」

「えぇ!何で俺に振るんですか!!」


 道連れとばかりに腕を掴まれて、慌てて鉄五郎は体を捩った。確かに吉野に女遊びは似合わないけれど彼も男である以上どこかで何かをしていてもおかしくない。
 一瞬だけ和んだ空気も、しかし吉野が溜め息を吐いて視線を逸らしたことでまた戻ってしまった。有効な方法が見つからずに噂だけが実しやかに流れ、そのままの状態を継続したまま桜の花は全て散り落ちた。





−続−

吉野さんの女遊びが想像できない