鬱陶しい雨のおかげで、聖が帰ってこない日が増えた。春先から実しやかに囁かれ始めた軍の謀反は当然だがどこからも証拠が出ず、けれど未だ噂だけがくすぶり続けている。ただ上の人間は何も言わないし、存在していないような振る舞いさえ見せる。だからと言っていつか消えるただの噂だろうと考えるには、吉野は子供ではなかった。
 花街まで惣太に呼びに行かせてどれくらいの時間が経っただろう。聖の帰りを待ちながら吉野は何度となく確認した調査結果に再び目を落とした。春から流布された噂は、南の関所を通過する商人がもたらしたとの報告が上がっている。けれどその目的が何かも分からず、いたずらに神経だけをすり減らす。
 廊下を歩く下駄独特の音がした。この時期は雨がはねるという理由で聖はよく下駄を履く。もともと高い身長が更に伸びるため吉野はからかい混じりに邪魔だというが、その彼はこの間なんの嫌がらせか高下駄を履いていた。扉が開き無駄に高い男が気だるそうな雰囲気で入って来たのをきっかけに、書類を伏せた。


「おかえりなさい、聖さん」

「……たでーま」


 緩慢な動作でソファに腰を下ろした聖の後ろから惣太が飛び出してきて、コーヒーを淹れるために部屋の中を小走りで移動する。そのいつもの行動に視線すら移さず、吉野はすっと書類を彼の前に差し出した。だるそうな腕が持ち上げて目を通すまで微笑みもしないで黙っていたが、聖の口から笑顔が怖い、と漏れる。笑ってもいないというのに。


「どう思いますか」

「んー、ほっとけば?」

「放っておけ?」

「南関ってことは岩浅だろうけど、奴等にはなんの利害がない。目的が分かんなきゃ動けねぇだろ」


 つまらないものでも見るような目で聖はその書類を眺めた後、ひらりと投げた。コーヒーを淹れていた惣太が目を剥いている間落ちたそれを吉野は細めた目でみやっていたが、やがて剥がすと彼の体面のソファに腰掛けて息を吐き出しながら足を組んだ。惣太がコーヒーを置くのを待って、彼の目ではなくコーヒーカップを眺めながら問いかける。表情は笑みを刻んでいるのに声には一切の含みはない。軍の副官としての言葉。


「戦は?」

「しねぇ」

「分かりました」


 ただ一言、それができるかできないかという問題を差し置いて頷き、吉野は立ち上がると用をなさなくなった紙を拾い上げて一瞥した後すっと自分の机に滑らせた。大将が右といえば右を向き、太陽が西から昇るといえばそれがいかに馬鹿げたことでも兵士たちは西から昇ると信じきる。そうしてそれを実現させようと努力するのは、副将としての吉野の役目。


「ところで聖さん、定例閣議はじまりますよ」

「………病欠で」

「行ってらっしゃい」


 にこりと笑ってやれば、ソファで背を反らすように煙草を銜えてから上向いて「あー」と抜けた声が聖の口から漏れた。きっと完全に忘れていたのだろう。言い訳のように一本だけと言って火を吐け、密閉された部屋に紫煙が広がる。ぱっと窓を開けに行った惣太に和みながら、吉野は聖の頭に向かって軍服を投げて早々に部屋から追い出した。
 煙草を銜えたまま着物姿から軍服へと着替え、上着を羽織ながら足早に出て行った聖の背を見送って吉野は一つ息を吐き出す。不安そうな顔をしている惣太に笑いかけて、気分転換するように一度体を伸ばした。そして、いつもと変わらない笑顔を浮かべる。


「大丈夫みたいですよ」

「みたいですよって……」

「聖さんが言うんです、間違いありません」


 どこに根拠があるわけではないけれど、惣太は渋々ながらも納得したように一つ頷いた。けれど顔も上げずに床のどこか一点を睨んでいるので、本当の意味で納得できないのだろう。どんなに大丈夫だと言ったところで、胸の中に巣食う不安など拭いされようもない。下の方の兵ならまだしも惣太は聖と古くから親しくてまた家も中級貴族であるために一通りの情勢に詳しい。そんな惣太には隠しておくことなどない。
 ふと扉の外に人の気配を感じ、吉野は目を細めてソファに座りなおした。惣太は気付いていないだろうが構わずに声をかける。


「入ってきたらどうですか、小田原軍団長」

「いつもながら鋭いね」

「えぇっ!?」


 するりと風のように入って来た小田原に吉野は微笑を浮かべたけれど、全く気付いていなかった惣太は驚きの声を上げて飛び上がらんばかりだった。それを端目に捉えて苦笑して、目だけで惣太に座るように指示した。小田原が座るまでに鉄五郎は、と問うと詰所で寝てますという答えが返って来た。
 静かに小田原が書類を一枚差し出した。それを開いて、微笑んだ顔を崩すことなく一瞥する。それは吉野が調べさせていた噂の出所で、確かに岩浅であったことが確信できた。けれどそれ以上は辿れない。結局は岩浅だった。けれどこれでもメリットもないし目的が見えてこない。ただ、何かを掴んだのか小田原はもう一枚の紙をすっと差し出した。それに目を通して、初めて吉野の眉が跳ねる。顔を上げた表情は引きつっていた。


「……聖さんのストーカー、お願いします」

「ごめん被りたい所だけれど、致し方ない」


 薄く笑った小田原は、それだけ言うと立ち上がって気配を完全に消してしまった。じっと書簡を見つめていた吉野には、彼がいつ消えたのか分からなかった。  差し出されたそれには、岩浅で数人の軍人が失踪したと記されてあった。その特徴や内部情報のおかげで、去年の春に領主を狙った一団の人間であることまでは調べが付いた。領主になったばかりの瀬能を狙った男は岩浅でも信頼がある大将だったようだが聖が殺した。報告にある限り聖に僅かに似たその男の敵討ちにでも来たつもりだろう。それでも国内を混乱させるような噂を広める理由は分からなかった。










 いつものことだけれど、定例閣議が大っ嫌いだ。けれど大将の義務として出なければいけないし、出ても寝ている訳にも行かない。ただ煙草が吸いたいのを堪えて病欠でも代理を立てるでもなく出席しているのは、偏に瀬能の隣にいたいが為だから情けないと言うか適当だとでも言うか。自分自身で苦笑しながら、聖はいつも以上に不愉快な空間で奥歯をギリッと噛み締めた。


「以上で定例閣議を終了します」

「お待ちください」


 つまらない閣議も真坂の号令で漸く終わりかと聖が肩の力を抜いた瞬間、誰も席を立つ前に真っ白い顔をした男がすっと手を上げた。このタイミングならば議題は火を見るよりも明らかで、聖は呻き声を上げそうになって慌てて口を覆った。誤魔化すように俯いたが一斉に自分の許に集まった視線を感じる。どうして当事者が揃っているのに自分だけが見るんだとしみじみ軍の地位の低さに涙がこぼれそうだ。


「実しやかに流れている角倉殿のお噂、あれは真実でしょうか?」


 安物の扇をぴらりと開いて、沼賀祠官はにたりと笑った。それを見てしまってあまりにも深いな顔に聖が苦々しく自慢の顔を歪め、それを隠すために手元で遊ばせていた扇を開いてスッと口元を隠す。沼賀祠官の趣味が悪いそれとは違い先日一目惚れした一級品だ、別に自慢したつもりはないが相手は更に顔を歪ませている。
 いつの頃からか実しやかに流れ出した角倉が領主に取り入り三権力から抜きん出ようという噂はもちろん根も葉もないものだったから、今までは誰も口にしなかった。聖自身すぐに断ち消える噂だろうと思っていたのだが、思ったよりも長引いている。調べさせて分かったのは岩浅が絡んでいるという事実で目的も何も分からない。ただ何となく、原因は全く分からないが妙な心地はしていた。


「何を根拠にそれを申されるか知りませんが、そんな根も葉もない噂を信じるとは……笑止」

「口ではどうとでも言える!だが現に子息の角倉大将は己の分も弁えず瀬能様と親しくしているというではないか!」


 声を荒げたのは沼賀ではなく、人事部長に再び就いた若垣の当主だった。もう初老でいい年の割りに落ち着きがなく思える。あの捕り物の前まではもっとどっしり構えていたよう気がするが、やはり元の地位に返り咲こうと必死なのだろうか。
 全体から向けられてくる視線とこの重い空気を一通り把握してから、聖は扇の向こうで溜め息を吐き出した。あれから官位も剥奪された若垣だが、すぐに御免となって人事長に戻った。総督、意見者に次ぐ地位ではあるもののあれ以降地位を軽視しがちだと思っているし実際誰もが僅かに彼を嘲っている。それが爆発したのか焦っているだけなのか言葉を重ねる彼に、対する角倉は静かに重曹な声を響かせた。


「これには自由にさせている。私の知ったことではない」

「それが謀りだと申しておる!」

「ならば好きなだけ調べてみるがいい。塵一つ出はしないがな」


 父親の自分に対する評価だとか認識だとかが低いことが分かっているから別に傷つきはしないが、隣に座っている瀬能がとても悲しそうな目でこちらを見てきたのでどう反応すればいいか分からずにとりあえず曖昧な笑みを浮かべた。確かに言っていることは正論で、何も証拠など出ようはずもない。こう言ってしまえば次に矛先が向くのは自分だというのは聖は分かっていたが何の迎撃準備もしなかった。この場でそんなことをするのは滑稽に思えたから。


「ならば軍の謀反のお噂はどう釈明するのだ!」

「そうだ、それこそが証拠ではないのか!?」


 やっぱり来た、と聖は扇の下で唇を歪める。しかも総督に対する時と違い敵が倍以上に増えるから困ったものだ。どこを話すべきか、何を話すべきか。今はまだ岩浅が動いていることを話すべきではないだろうからそこは避けて、考えながらゆっくりと口を開いた。そうして思う。煙草がほしい。


「謀反を起こす気はサラサラありませんし、地方が反乱を起こそうという情報も上がってきていません」

「黙れ若造!口のいい事ばかり言いおって、遊女の子の話など信用できるか!」


 そうだ、と呼応する声に聖は目を眇めて扇子を強く握った。手のひらの中で歪んでいるのは分かるけれど、力を抜くことはなぜか上手くできなかった。ここで切れたら何の意味もないしそれこそ謀反だと騒がれてしまう。ただ爆発しそうになる頭の中を必死に押さえつけながら歯を食いしばるけれど、手のひらの中でバキンと軽い音がした瞬間に頭の中で何かが弾けた。


「聖!」


 支えがなくなってその欠片を握り締めたてのひらの皮が裂けるのは感じたけれど、固めた拳を解くことはできない。それを机に振り下ろして立ち上がろうとしたが、その前に瀬能の声と一緒に手が聖を庇うごとくに前に出て、隣の少年が立ち上がっていた。威勢がいい割には涙目で、まるで威嚇している仔犬のようだ。何だか体から力が抜けた。ゆるゆると力を抜いて背もたれに体重を預けると、てのひらが急に痛み始めた。


「軍は謀反などを企てたりしてない!」

「瀬能様!またそのようなことを仰って、困ります!」

「聖の命は私のものだ!だから謀反など起こさない!」


 軍は忠誠を誓い、領主に尽くす。それは確約でもなく連綿と過去から培われていった常識だった。それを思い出させられ軍大将を非難していた者たちは全員が一瞬だけたじろぐ。けれど、それが今もまだ続いているかといわれればそれはこの若造に対して絶対に言えない。それを口に出そうとしても、瀬能の様子に誰も何も言えなくなってしまいまた一瞬変な空気が室内を満たした。
 ふと聖は、すとんと腰を落とした瀬能の手にあの日にあげた櫛が握られていることに気付いた。ふと思いついて戯れに買った櫛は本物の誓いだけれど、本人が忘れるくらいの戯れを大切にしていてくれたなんて、嬉しすぎる。


「ですが瀬能様、そうやすやすと信じないほうがよろしいかと思いますが」

「真坂殿!?」

「私は別にこの判断が間違っていると言っている訳ではありません。何か確固たる自信があればそれで構わない」


 静かに場の空気を読まなかった真坂に当然聖の味方だと思っていた瀬能は目を見開いたが、淡々と彼は敵か味方を判断できかねる言葉を続ける。瀬能は驚いていたけれど、聖は当然だと物憂げに視線を落とした。言っていることは確かで、領主は人の言葉を簡単に信じてはいけない。自分で考えてちゃんとした判断を下さなければそれこそ傀儡領主になりかねない。けれどそれをここでいうのもどうなんだろうと思うが。
 ただ真坂は、珍しくもうっすらといつも固い顔に笑みを刷いた。厭味の全く篭っていない笑みというものを聖は初めて見たかもしれない。


「今回はその自身がおありのようですから、良いとしましょう」


 何となく瀬能の手のひらの中を見透かしたようなその視線に何となく嫌な気がしたけれど、聖はただ視線をバラバラに壊れて落ちた扇を見つめた。気に入っていたのにこんなに早く壊れるとは思わなかった。これから夏に向かうから、早く新しいものを買わなくては。
 真坂の言葉が何となくだが閣議を終わらせ、各々がバラバラと席を立ち始めた。聖もさっさと戻って煙草を吸いたかったのだが、部屋を出た所で駆けてきた兵に一枚の紙片を渡された。見ると角倉の家から帰って来いと言うもので、だったら今口で言えばいいものをそんなに関わりを持ちたくないのかと吐き気がした。










 必要最低限の責任を果たすという約束だった。けれど急かされるように伝言を持って来た使用人に夕時までには帰って来いと念を押され、帰りもしないのでギリギリの時間まで新しい扇を求めて店を覗いたけれど気に入ったものはなかった。
 家に帰ると玄関に女物の草履が脱いであった。美月のものかと思ったけれど彼女の趣味とも違い、誰かと聞けば雛生が来ていると言われた。そして察した。彼女は、覚悟をした。


「……ただいま帰りました」


 湯を浴びて着物に着替え兄の部屋に顔を出すと、彼の部屋には酒肴が準備されていた。食事をしていない気遣いなのかただたんにその方が心地がつくと思ったのか知らないが、ずいぶんな演出だ。兄の隣に控えている雛生は、親の仇のように聖を睨んだ。


「お帰り聖。おなかが減っているだろう?」

「いえ……」


 食事よりも煙草が吸いたいと思う。けれど体の弱い兄の部屋で煙草を吸う訳にもいかず、酔わなければやっていられないと促されるまま首を横に振ったにも関わらず酒を手酌で注いで煽った。酔いが回るだとか考えずに銚子の半分を空けた頃、兄は静かな声で聖の名を呼んだ。


「梅雨明けにも私が当主になる」

「……おめでとうございます」

「雛生が覚悟を決めたんだよ。さぁ、準備はできてる」


 兄の前にも用意してある酒肴と部屋の端に延べられた一組の布団にその予感がしていた。確かにそれは分かっていたけれど、いざ目の前に来るとこんなにも心が重くなるのかと思わず顔を歪める。隠すために懐の扇をまさぐるけれど、壊したばかりのそれは当然のように見つからない。
 澄春の視線を受けて、雛生がすっと布団の横に移動した。僅かでも震えていれば聖にも言い訳ができたのに、彼女は腹の底から覚悟を決めたのか怯えも何もなかった。ただ、憎悪はしっかりと感じ取れる。憎い男に好いた男の前で抱かれるのはどんな気持ちなのか、男の聖には終ぞ分からない感情だろう。


「本当にいいんですね?」

「構わない」


 聖は自分の気を落ち着かせるためにも深く息を吐き出して、布団に移動した。すっと彼女の前に腰を下ろして冷たい頬を両手で包めば、親の仇の如くにきっと睨まれる。ただそれでも尚彼女の瞳にはギラギラ光る何かがあった。
 するりと頬から手を滑らせて肩を掴み、聖は雛生を力で布団に縫い付けた。怯えも何もないその表情は花街の女に似ていて、それとは全く違っている。もしかしたら彼女たちを抱くようにすればこの罪悪感も消えるかもしれない。けれどそれは、決して叶わないことを理解している。彼女の肌は、あそこの女たちとは違う。


「俺は唇には絶対に触れません」


 囁くほどの声音で宣言して、聖は雛生の着物の袷を力で割り開いた。器用に片手で着物を脱がせながら反射的に抵抗する躯をもう片手で押さえつける。
 あの時は、こうではなかった。聖が始めて雛生を抱いたのは十六のとき。手ひどい失恋の憂さ晴らしだったと思う。目の前にいたやけに矜持の高い女の鼻を折ってやりたくて、力任せに抱いた。あの時はまだ自分の婚約者だと高を括って悲鳴を上げてもやめず、ただ自分が現実から逃げるためだけに快楽を貪った。そうして今、あの頃とは違う感情で同じ女を抱いている。
 罪悪感を込めて、喘いで身悶える女の躯に触れる。そんな自分に嫌悪感すら覚えながら、ただ彼女が高まるように触れていった。雛生は決して聖を見ず、その視線は常に横で見ている男に注がれている。それがひどく滑稽だった。


「澄春さまっ!」


 花街で貪る躯は素直に聖も心を開く。けれどそれと何が違うのか分からないが、彼女を相手に聖は高ぶってはなかった。ただ相手も自分もただの物のように無感情に、生理的な衝動だけで呼吸をしている。きっと彼女と心を通わせることは一生ないのだろう。
 彼女の口から漏れる甘い声は、決して聖を呼びはしない。彼女は聖を彼の代にして、その向こうに幻想を見ていた。そうして、いざ聖が自身の着物を解いたときに気付いてしまった。聖は彼女のその向こうにあの時の彼女を重ねていた。お互いにお互いの向こうに幻影を見ている。


「涼香さん……」


 この黒い髪だとかすっきりと通った鼻筋とか。普段は全く気にならないところが綺麗に彼女と重なった。そうして触れることすらままならなかった女性の面影を見て、違う女を抱く。五年経った今、それがようやく罪深いことだったと気付いた。
 お互いにお互いの存在を見ようとしないまま、聖は雛生を抱いた。気を失った彼女を丁寧に布団に寝かせ、聖は一礼すると時間を考えずに家を出て自然に花街に足を向けた。いつの間にか細い雨が降り出していた。





−続−

聖さんの持ち物は総じて高い