深夜近くになり、いつの間にか降り出した雨に気付いたみどりはふと三味線を奏でる手を止めた。酒肴を前に聞き入っていた客の男が訝し気に顔をもたげたけれど、それには微笑を浮かべることで答える。三味線を置いて窓によると、後ろから客に包まれるように抱きしめる。彼を自由にさせながら、すっと窓の外に目を凝らせば、糸よりも細い雨が音もなく降って視界をけぶらせていた。


「いつの間に降ってきたのかしら」

「あぁ、いい雨だ」


 歌うように漏れた声に応じたのは、意味を理解していないそれ。みどりの体をそこから逃がさないように窓に押し付け、するりと太い指が袷に入り込んできた。わずかに体を震わせるけれども自由にさせ、みどりは窓から目を逸らさなかった。こんな雨の日には打ち捨てられた動物が悲し気に鳴いている、そんな気がする。
 暖かい部屋の中で男に抱かれるのがみどりの仕事だから何も文句を言うつもりはない。けれどできれば、この風流さを楽しめる男の相手をしたいと願う。黒門ではかなう願いも、赤門では叶わない。あちらは男を選ぶのに、こちらは男を選べない。それは決定的な身分差でもあった。しぶしぶ男との行為に意識を向けようとしたとき、襖の向こうから声がかけられた。遠慮しているが緊張感のあるそれにみどりの目が妖艶に細められ、無遠慮な男の手を遮る。


「みどりねえさん、ちょっとよろしいでしょうか?」

「どうしたの?」

「それが、その……」


 襖の向こうにいる姫菜の煮え切らない言葉に何かがあったと察し、みどりはするりと拘束を抜け出すと立ち上がった。この貪婪の芸妓たちを統括する女は、店で起こった揉め事などから女を守る責任を負う。不満そうな男にこれが自分の仕事だからと微笑をもって言い含め、代わりの女をよこすことを条件に彼の前を辞した。
 少し乱れた着物を整えながら部屋を出ると、畏まって頭を下げた状態で姫菜を待っていた。みどりが出てきたことに気づいてあげた顔は不安と心配が綯い交ぜになって歪んでいる。


「何があったの?」

「あの、聖さまがびしょ濡れでいらっしゃって……」

「聖が?」

「ねえさんたちが代わる代わるお部屋に」


 珍しいこともあるものだとみどりは柳眉を僅かに上げた。どうしましょうと指示を仰いでくる姫菜の肩をそっと掴んで笑顔を向けたけれど、みどり自身そんなに余裕があるわけではない。彼女に惣太に連絡を取るように言ってどこの部屋かを訊いた。いつもの部屋だと言われたので、帰ってきたら湯の準備も合わせて申しつけた。
 嫌な予感がする。滅多にないことだが、極たまに金のある男がする下卑た遊戯がある。金に物を言わせて一晩のうちに何人もの女を呼び体を合わせる。本来ならばたった一人の馴染みと行う営みを女という人種をただの道具だとでも思っているかのような態度は、一度でもそれを行えばどこの店からでも以後暖簾をくぐることを許されない。しかし、それにも例外が一人だけいる。聖がそれだった。以前に聖がした下卑た遊戯はそれでもなお、女の心を逃がしはせずに女のほうから彼を追放しないでくれと懇願したほどだ。聖の悪い癖、それはもう治っていたと思っていたのに。


「聖……」


 小さくその名を呟きながら、みどりは部屋へ急いだ。聖がそれを行ったのは五年ほど前になるだろうか。そのことを知って当事者であるのはこの店ではみどりだけだ。確かにほかの男とは違い聖はそれこそ壊れ物にでも触れるようにどの女にも優しく触れる。けれどみどりからしてみればそちらの方が危なっかしい。一体何を探しているのか、何を欲してるのか。それがまったく想像できない。
 聖のいる部屋の角を曲ったとき、部屋から乱れた着物を抑えてりーこが飛び出してきた。乱れた髪と赤い肢体に今が彼女の番だったのだと理解し、同時に彼女の頬に伝う涙にも気付く。後から自己嫌悪に陥るくせに、聖はひどく優しく人を傷つける。次に待機していた女が緊張した面持ちで襖に手をかけたのを慌てて止めて、みどりは驚いている彼女に対して軽く首を振った。彼女を下げて、自分が襖をあける。ここで女を守るのは、みどりの役目だ。


「……聖、いい加減になさい」

「みどりさん」


 部屋の中でたった一枚延べられた布団の上に胡坐をかいて、聖は座っていた。すぐそばには濡れそぼった着物が乱れて捨てられ、彼の髪も張り付くほどに濡れていた。後ろ手に襖を閉めて、みどりは湿った布団の上でにたりと口の端を歪ませている聖を睨むように見つめる。彼の瞳は、あの頃のそれにひどく似ていた。伸ばされた筋肉質の腕に誘われるように指先を近づけ、触れた瞬間にはすごい力で引き寄せられて一瞬の後には布団に押し付けられていた。上から見下ろしてくる刃のような瞳に何人の女が恐怖し、魅せられただろう。危うい氷の上にでも立っているようなそれは嫌悪よりも執着を抱かせる。りーこもこの瞳に屈服しすべてを奪われ、そうして涙したのだろう。どんな眼をしていても聖が受け入れてくれることは終ぞないのだから。


「聖。何かあったのね」


 みどりは一人臆すことなく聖の眼を見つめ返すと、不意に笑みを覗かせて冷たい頬に指を伸ばした。するりと指先で顔に張り付いた髪を払ってやり、瞳の中を覗きこもうと努力する。
 最後に聖のこの目を見たのは、まだ彼がたった一人の女性の面影を探していたとき。その時も女の中に何かを探すように抱き、放逐していった。あのときと同じ眼をすることはないだろうと思っていたのに、どうして今になって同じことを繰り返すのか不思議でならない。分かるのは、聖が探しているものはあのときと違うものだということだけ。


「どうしたの?」


 はっきりと聖の眼を見て聞いてやると、不意に瞳が和らいだ。けれどそれも一瞬のことで、聖は力任せにみどりの着物を肌蹴させる。まるでそれを求めるしか知らない子供のように素肌に顔を埋め、そこでなぜか動きが止まる。数呼吸分の沈黙の後に、聖が鼻先を埋めたまま細く途切れてしまいそうな息をゆっくりと吐き出した。


「……女の匂い」


 どこか安堵したような声音に思わずみどりが首を傾げると、不意に瞳を和らげた聖が顔をあげてきまりの悪い顔を作る。たった一瞬だけのその表情はみどりの肩口に押し付けられることで視界から消える。同時に和らいだ雰囲気に安堵し、子供にするそれのように背をなでると聖はくすぐったそうに身を捩ってごろりと横になった。みどりの体を胸の中に閉じ込めるようにしてしばらく黙っていたが、何がきっかけになったのかぽつりと口を開く。


「やっぱり、ここが一番安心する」

「聖?」

「さっき婚約者……もう俺の婚約者じゃないんだけど、抱いた」


 悪事を白状する子供のような声音は僅かに震えている。相槌を打ったら途端に霧散するような気がして黙っていると、聖はぽつりぽつりと続きを続けた。
 婚約者とは名ばかりで、五年前のあの日に聖が強姦したことは許されない。同じ女を、今度は了承を得て抱いた。けれど気付いたのは己の胸の中の虚無で、お互いにその向こうに違う面影を探す。ひどく不安になった胸の中を埋めるものを探して気が付いたらこうなっていたと、聖は悲しそうな顔に微笑を無理矢理刷いた。


「俺、やっぱ昔から……」


 吐息のような言葉が切れたと思ったら、規則的な寝息が聞こえてきた。緊張の糸が切れたようにぐったりとした体から抜け出して、みどりは微笑を浮かべる。それはまるで母親が子に向けるそれに似ていた。着物を直してから掛布をかけてやり、脱ぎ捨てられた着物を畳んでやりながらみどりは音もなく降り続ける雨を見ていた。










 それからどのくらい経ったか分からないが、姫菜が戻ってきたのか襖が少しだけ開いた。まだ不安そうな顔をしているので男性不信にでもなってしまったのかと不安になったが、みどりが笑いかけると泣き笑いのような顔になって一つだけ頷いた。彼女の後ろには少年が一人いた。どこか複雑そうな表情を浮かべている。彼を促すように姫菜に視線を向けると、理解して静かに襖をあけた。


「眠ってしまったわ」

「聖さん……」

「大丈夫よ」


 入ってきて一瞬顔を強張らせた惣太だが、みどりが声をかけると安堵したようにその場にへたり込んだ。仕事ではなかったのか私服でいるのは珍しいが、なんだか昔のような錯覚にすら陥る。まだ聖が軍に入る前、こうして入り浸っている聖を惣太が迎えに来た。そうして、ここにいることにひどく安堵していた。それを見て思わず笑ってしまったら、惣太が落とした顔をあげて小首を傾げるので、なんでもないわと笑ってごまかした。きっと今、あの頃の気分に浸っているのはみどりだけではないはずだ。


「惣太くんも泊ってらっしゃいな。姫菜、用意してあげて」

「はい」


 もう遅いからと言ってやると、少し遠慮したような惣太がはい、と返事を返した。相変わらずに礼儀の正しい子だと感心しつつ姫菜を部屋から追い出した。ほんの少しの沈黙の後、みどりはそろそろ惣太に伝えなければならないと思っていたことを今口にしようかと思い立った。本当は聖に先に伝えて相談しようかと思っていたのだが、何となく今がタイミングの様な気がした。
 けれどみどりが口を開く一瞬前に惣太は息をのんで顔を険しくし、聖が体を起してあたりを厳しい目で見まわした。惣太と目が合うと意外そうな顔をしたが、何も言わずに畳んで脇に置いてある着物にばさっと袖を通した。


「こんな時間に野暮だな」

「でも聖さんが呼んだんですよ」

「モテるのも考えもんだな。得物は?」

「ある訳ないです」

「使えねぇ」


 手早く帯を締めて、聖は両腕を軽くほぐすように回した。その声は元の聖ではあるが、発される声は凍てついている。聞いたことのない声に惣太は慣れたように立ち上がり、みどりに短く「逃げろ」と言った。ここは花街で、絶対の不可侵とされている。だから小さな喧嘩はあるものの反乱だろうが族同士のぶつかりあいだろうが起こりようはずもない。そんな場所で、惣太は逃げろと言った。
 意味がわからないが二人の様子からただならぬものを感じ、みどりは動けなかった。頭では危険なはずはないと言うが、体は逃げろと悲鳴を上げる。相反する二つに挟まれて、結局動かない道しか選べなかった。先にしびれを切らしたのは聖の方。


「連れてけ惣太!」


 怒鳴るような声にみどりの背がびくりと震える。それは聖という甘い男の声でもなければ軍大将の声でもなかった。戦う男としての一声。それに弾かれるように惣太がみどりの腕を取って立たせ、部屋の外に逃げようと急かした。聖に逆らうすべも見いだせずに立ちあがって引かれるままに逃げだそうとしたが、襖を開けた瞬間に惣太は後ろにみどりを巻き込んで飛び退った。間一髪で避けたそれは行燈の光に反射して鈍く刀身を光らせる。殺されると、素直に思った。同時に窓ガラスが割れて全身を黒に包んだ男たちが一斉に乗り込んでくる。その全員が手に刀を持っていた。


「……岩浅、だな」

「ご名答!我らが大将の仇、取ってくれる!」

「こんな場所で仇打ちたぁ、風流じゃねぇな」

「うるさい!貴様に俺たちの気持ちがわかるか!!」

「惣太っ!」


 五人に囲まれ、みどりはもう駄目だと思った。悲鳴をあげて助けを求めようにも声は出ず、喉からは掠れた息のみが出る。聖が囲まれているというのに、惣太は助けに入る様子も見せずにちらちらと周りに視線を配っている。聖の鋭い声に名を呼ばれただけで何をするか分かっているのかみどりの耳元に逃げてくださいと小さく言葉を落とした。そうして、どうにか出口を塞いでいる男と対峙する。
 先に動いたのは、男だった。きらりと光る刀を一閃させたのを危なっかしく惣太は避けて、それが返ってくる前に当て身を喰らわせる。相手の開いた鳩尾に向かって突き出した手で男はバランスを崩し、その隙に惣太はみどりの腕を掴むと廊下へとやや乱暴に押し出した。向かってくる男とどうにか渡り合いながら、外に誰かがいるはずだと怒鳴る。その人間に助けを求めろと言ったのと唯一残っていた窓ガラスが派手な音を立てて割れたのは、一緒だった。


「聖さん!?……チッ、無茶ばっかして!」

「下だ、追え!」


 部屋からは聖の姿が忽然と消え、黒ずくめの男だけが残されていた。窓から飛び降りたことが見ていなかったにもかかわらず瞬時に分かり、惣太は荒々しく舌を打ち鳴らす。惣太のそんな姿を初めて見たとみどりは感心したが、そんな場合ではない。入ってきた窓から飛び降り始めた敵を追うように惣太は唯一部屋に残っていた男を睨みつけた。
 ふっと笑って、黒い影は刃だけを煌めかせて一閃した。それを寸でのところで避けて、惣太の手が柄を握った男を捉える。刀の振り下ろされる力を利用してそのまま男を巴投げにして捨てた。畳みに背を打ちつける瞬間ほんの刹那力の抜けた手から刀をもぎ取って、惣太の目が暗く眇められる。その刃が煌めく瞬間、みどりは思わず目を閉じた。そうして聞こえた肉を割く音とくぐもったうめき声。世界が一瞬にして沈黙に包まれたような気がした。


「もう大丈夫だと思います。ごめんなさい、部屋を汚してしまって」

「い、いえ……」


 喉に 引っかかるような声で頷いたけれど、吐き気が込み上げてきた。惣太は人を呼ぶと、もう一度謝ってから聖の加勢に行くと店の外へと駆け出した。
 聖がどんな世界で生きているかを知っているつもりでいたが、みどりは何も知らなかった。人を殺して生きていくことの辛さや恐怖を今知り、同時に殺し殺される場に聖が好んで立ち続けていることに涙があふれ出してきた。きっと惣太もそうなるのだろう。男とはなんと愚かで美しい生き物なのだろう。






−続−

予想外に長くてびっくりしてます