長い梅雨が終わり、急に降り止んだ雨のおかげで澄んだ空から降り注ぐ太陽の光は暑い。梅雨の間、聖はずっと道場で兵士たちをいじめていた。何かを吹っ切りたいのか忘れたいのか分からなかったけれど、惣太も鉄五郎も巻き込まれたくなくてずっと執務室で吉野の手伝いをしていた。
 雨が止んだ頃、聖は袴姿ではなくなぜか着流し姿で現れて何も告げずに惣太だけを連れて出かけた。初めは惣太もどこに行くか分からなかったけれど、途中で高い菓子折りを買って向かう方向には、想像がついた。


「聖さん……」

「ん?」

「最近、来てなかったですよね」


 赤門を潜って奥まで歩いてくけれど、まだ日が高いからか人の姿はまばらだった。それも客らしき姿はひとつもなく、女性たちが稽古に向かうところだったり井戸端会議をしている旦那さんだったり。こんな時間にここに来るのは初めてだから、なんだか知らないところに来たような感じがして思わず惣太は聖に一歩近づいた。
 歩きながら窺うようにして聖を見上げてここ最近はずっと道場に篭っていたことを聞くと、聖は曖昧に笑って惣太の頭をかき回した。


「聖?」

「……みどりさん」

「どうしたの、こんな時間に。最近ご無沙汰だったじゃない」


 店の前に立ったとき、後ろから声をかけられた。惣太のほうが聖よりも先に振り返り、みどりとその後ろに控えている姫菜の姿を見て軽く頭を下げる。惣太も姫菜とはあの夜以来で、なんとなく照れくさい。照れくさくて惣太が視線を斜め下に下ろして足元を見ると、聖もそうしたような気配が感じられた。


「この間は、ごめん……」

「……えぇ」

「これ、みんなで食って」

「聖、本当に反省しているならちょっといらっしゃい」


 俯いた聖のこんな弱弱しい声なんて、惣太は聞いたことがなかった。いつだって自信満々で、なくても適当にへらへら笑っている聖がこんな子供みたいな声を出すとは思えなくて思わず彼を見上げるが、ただただ彼は不機嫌な顔をしていた。
 営業していない店の中に案内されて、惣太は聖と一緒にいつもの部屋にあがった。用意をしてくると言って姿を消したみどりを待っている間もなんだか居心地が悪くてそわそわしていたが、聖はもうどんと構えているというか開き直っていつものように煙草を吸っていた。


「聖さま、灰皿どうぞ……」

「お、ありがとな。姫菜、この間は怖い思いさせて悪かったな」


 黙って座っていた姫菜が、聖の前に灰皿を差し出す。惣太はそれをそわそわ見ていたけれど、聖が彼女の頭を子供にでもするように撫でたからなんだか少し安心した。安心したけれど、姫菜の方が頬を染めたから惣太は少しムカッとした。けれどそれもつかの間、彼女は目元を染めて惣太に向き直るとはにかんだ笑みを浮かべた。それを見た瞬間に、ドクンと心臓が跳ねた。


「惣太君も、ありがとう。……すごい、格好よかったよ」

「えっ……あ……。無事でよかった」


 自分の顔が瞬時に赤くなっていくのが分かる。それを隠すために惣太が顔をあらぬ方向に背けるけれど、聖の口からかみ殺した笑いが漏れてきているのは気づいた。視線だけで姫菜を浮かべると、彼女も恥ずかしそうに頬を染めている。そうして、小さな声でお茶をお持ちします、と言ってそそくさと部屋を出て行ってしまった。
 彼女が襖を閉めたのを待って、惣太は肺の中からすべての酸素を吐き出す勢いで息を漏らした。笑っていた聖が短くなった煙草を灰皿に押し付けて、手持ち無沙汰になったのか懐をあさり、目的のものがないことに一つだけ舌を打ち鳴らす。


「初々しいなぁ」

「……ほっといてください」


 聖の笑い声が急に消えたのが気になって彼のほうに視線をやると、彼はもう笑ってはいなかった。姫菜が出て行った襖を見つめ、どこか切ない表情を浮かべている。惣太は知っている、彼は姫菜のことを言っているのではない。かつて己が見た記憶をあの襖に投影している。
 聖が目を向けていた視線の先が開き、みどりが一人の男を伴って入ってきた。その男はここの生まれなのか落ち着いた仕草で優雅にみどりに合わせて腰を下ろす。


「この子が軍人になりたいんですって」

「八郎と申します」

「は?」

「反省してるならよろしくね?」

「ちょっ、ちょい待った。意味は分かるけど、は?」

「聖さんのほうが意味わかんないですよ」


 混乱しているらしく、聖が米神を押さえて煙草を口の端で引っ張り出した。火を点けて紫煙を吐き出し、そうしてもう一度待ってくれと口にする。その間もみどりはにこにこ笑っていた。
 八郎という彼はここで生まれた。年は二十七らしい。ここで生まれた男は店を継ぐか出て行くかの二択しかない。それは黒門でも変わらないだろうけれど、継ぐの内容が違う。それについて惣太はよく知らないけれど、やはりこういうところでも差が出るのかとは思った。その男は昔から継ぎたくないと言っていたらしい。そうして軍人になる道を選んだそうだ。
 軍人が彼にとってどんな道なのかは知らないけれど、簡単に選んでいい道ではないと惣太は思う。特に、演習の前になんて。ただ聖が何も言わないから黙っている。


「だからよろしくね」

「……まぁ、いいけど」

「聖さん?」


 何か含みのある言い方で聖が頷いたのが引っかかったけれど、惣太の疑問に彼は答えてくれなかった。妙な沈黙になりそうだったけれどみどりがすぐに彼を部屋から出し、追い出すようにして襖を閉める。聖の前に座りなおして、にっこりと笑った。


「本当に反省してるなら、またあの娘たちと遊んであげてね。お菓子はおいしくいただくわ」

「おう……」

「先日小田原の若様と高見さんからもお詫びにお菓子いただいたけどね。あ、吉野君も来たわ」


 みどりから顔を逸らして、聖は不機嫌に目を眇めた。けれどそれが照れだと分かるから惣太は表情を和らげる。結局みんな大将が大好きでしょうがないのだ。特に皇里は普段あれだけ馬鹿にしているのに昔から他人思いのいい人だ。
 束の間みどりは笑ったけれど、急に真面目な顔になって惣太を見つめた。その妖艶な視線に思わず惣太の背が伸び、たじろいだ。彼女が真面目な話をしようとしているのが分かったからか標的が自分ではないことに安堵したのか、聖が長くなった灰を灰皿に落として足を崩した。


「この間言いそびれちゃったんだけどね、惣太君」

「はい」

「姫菜を、お座敷に出そうと思うの」


 みどりの言葉が予想外で、惣太は思わず息を呑んだ。この場所で座敷に出るということは、客と肉体関係を持つということと相違ない。そのことを彼女は言っているんだろうし、惣太はそれが分からないほど子供じゃあない。実際、聖に唆されて女性と関係を持った。ただ姫菜がもう座敷に出るとは思えなかった。ずっとずっと、このままの関係が続くと思っていたから。
 答えられない惣太の代わりに聖が静かな声で頷いた。たぶん聖には惣太の思いなど手に取るようにわかるのだろう。昔から、惣太は聖に敵わないのだから。


「いつ?」

「来週にでも、もうあの子も知っているわ。本当はこの間話そうと思ったんだけどね」

「わかった、来週惣太も連れて顔出す」

「えぇ」

「じゃ、そろそろ帰るな。惣太、行くぞ」

「はい……」


 聖に腕を引かれるようにして立ち上がり、惣太は唇を噛んだ。こうなってもまだ自分の気持ちに整理がつかないことが悔しい。そんな気持ちを汲み取ってくれたのか、聖の大きな手が惣太の頭に触れた。くしゃくしゃと撫でられた手しか、惣太は今縋るものがないのかもしれない。












 八郎と伴って軍部に戻った聖は、彼を道場に放り込んで適当な奴に後を頼んだ。そうして自分は惣太を伴って執務室に向かう。出迎えてくれたのは、吉野の氷点下な笑顔だった。一体何があったのだと情報を探すと、鉄五郎がソファで倒れていた。本当に何があったんだ、ここ。


「よ、吉野……?」

「お帰りなさい、聖さん。道場にお客様がいらしてますよ」

「道場に?」


 さっき寄ってきたんだけど、と聖が首を傾げたけれど吉野は不機嫌に「知りませんよそんなこと」と珍しく吐き捨ててくれた。一体何があってこんなことになっているんだと聖はまず吉野の机の上に広げてある紙を一枚拾い上げると、そこには各地方から来た手紙のようだった。どれもこれも先日の岩浅の件についてだった。


「ところで聖さん、あの件は報告したんですか?」

「まだ、だけど……」

「各部署から報告書の提出を求められました」


 先日の岩浅に襲われた件は、ただの私闘に近いものだと思っていたから報告は不要だと思っていた。けれど軍部の中ではその噂は広がって各地方にまで飛んでいってしまったらしい。この散乱した手紙はそれが原因で各地方から来た心配の手紙なようだ。ここだけでなく、鉄五郎が応接テーブルでも仕分けをしている。
 求められたのならと吉野が報告書を作っているらしいのでそれは任せて、ならば瀬能にだけは自分から説明に行こうかと聖は奥で着替えを済ませた。煙草をポケットにつっこんでさて行くかとドアノブに手をかけようとしたとき、先にドアが開いて何かが転がり込んできた。


「聖!」

「なっ……」

「無事か聖!?」

「信義……?」


 転がり込んできたのは南の関を任せてる男だった。彼の後ろから息を切らした惣太が駆け込んできて、荒い息で師範が心配だから駆けつけたそうですと言ってくれた。そんなことくらいで責任者に出てこられても困る。そもそもそんなに慌てるような大事件じゃあなかったはずなのに。


「何でお前がここにいんだよ」

「聖の心配と、ちょっとした追加情報を持ってきた」

「書面でいいだろ」

「…………」

「そんな今気づいたって顔しなくても……」


 書面などとは気づかなかったという顔をしている彼に聖は溜息を吐き出して、さすがにそんなにくだらないことを言うわけもないと思って踵を返してソファにふんぞり返った。息も絶え絶えな惣太がお茶を入れてくれるのを待ちながら煙草に火を点け、信義が喋りだすのを待った。


「お茶どうぞ」

「お前なんかの茶が飲めるか!」

「お前になんて出してないですよ!聖さんの分しか淹れてねぇ!」

「惣太君、僕にもください」

「あ、はーい」


 惣太がお茶を運んでいくと信義がくわっと目を剥き、惣太も珍しく声を荒げた。いつも人当たりよく人懐っこい惣太がこんな態度を示すなんて珍しいと鉄五郎は机の上を片付けてから吉野に理由を問うと、彼らは昔から仲が悪かったのだと教えてくれた。もともと信義は聖が軍に入る前からの付き合いだったらしい。聖を神格化する勢いで憧れ、その周りにいる惣太にやきもちを焼いているそうだ。惣太も惣太で、自分よりも聖と長い付き合いがありことあるごとに絡んでくる彼が好きではないらしい。


「で、何の話だよ」

「角倉の謀反の噂、あれを流したのは岩浅じゃあない」

「……なんだと?」


 南の関所は岩浅との国境にある。だから今回、岩浅の動きを掴むような指令をいくつか出していた。角倉謀反の噂がずいぶん広がっていることと一緒に、あれを流したのが岩浅でないならば一体他の何に狙われているのだろう。一気に噴出した疑問に聖は奥歯を噛む。聖の無言の疑問に対して、彼は首を横に振ることで答えた。


「捜査中だが、俺は芳賀が怪しいと思っている」

「芳賀?」

「あぁ。もともと怪しいとは思っていたんだけどな」

「芳賀、な。いいや、俺とりあえず報告行ってくっから」


 前領主の葬儀の際に初めて見た芳賀の領主から感じた嫌なものを思い出して、聖は僅かに顔を歪める。信義にさっさと帰れと伝えて、当初の予定通りに瀬能に報告に行こうと聖は立ち上がった。惣太が八郎さんはどうするんですかとか聞いてきたので、とりあえず吉野に事情説明もう含めて任せることにした。
 正直、ただでさえいらつく季節に煩わしいことを増やさないでほしい。





−続−

閑話は惣太の恋物語