瀬能の執務室に行くと、彼は真面目に仕事をしていた。執務室だというのに柊と美月がいるのは不思議だったが、まぁいいだろう。この二人ならば気にしないと思って聖は微笑を浮かべて部屋に入り、どうしたと小首を傾げた瀬能に向かって極上の笑みを向けた。


「先日の件の報告に」

「え?」

「岩浅の件」


 どの件だか分からないらしく具体的に言ってやると、表情を引き締めて手を止めた。勝手にソファに座っているので瀬能が移動してくるが自分で動こうとは思わない。美月は雰囲気を読んで出て行こうとしたけれど、そんなに深刻な話をするつもりもないからと手で合図した。
 瀬能が不安そうな顔をしているので、それが何となく面白い。これだけ心配してくれているんだったらもう少し早く来てやればよかった。


「あれはただ俺だけを狙ったもんだったから、特に国交問題にする必要はないと思います」

「そうか。それで……大丈夫か?」

「ん?俺は大丈夫。ただあの噂は調べてる」

「…………」

「瀬能様?」


 つらつらと並べた台詞に瀬能が黙り込んだので、聖は首を傾げて彼の名を呼んだ。一応美月もいるので様をつけたが、なんだか言っている自分でくすぐったい。
 彼は少し不安そうな顔で聖を見つめ、彼の瞳の中で自分が硬直した笑顔を浮かべていることの気づいた。まっすぐな瞳から顔を逸らすように聖は視線を瀬能の後ろに向けた。そうして足を組み替え、胸の中にたまった二酸化炭素を吐き出す。


「私は、聖を信じてる」

「ん?」

「聖は私を裏切らないと、信じてる」


 思わず、聖は息を呑んだ。まっすぐな瞳で好意を伝えられるのがこんなに恥ずかしかったなんて忘れていた。思わず顔が赤くなっているんじゃあないかと手で口元を覆う。天井を向いて言葉を探すが、そんなところに書かれているわけもなく結局うめき声しか出てこなかった。


「聖?どうしたんだ?」

「……嬉しいです」


 自分の声がこんなに掠れるなんて思いもしなかった。そんな思いを再びすることになるなんて考えてもなかった。そうしてふと、今が夏なことを思い出す。もしかしたら、夏はこういう季節なのかもしれない。けれど今が夏だからこそ、これから訪れる不安は背中から離れてくれない。
 なんだかそれが子供のように不安になって、聖は無言で立ち上がると瀬能の隣に腰を下ろした。いつの間にか柊と美月の声が聞こえないと思ったら、いつの間にか部屋の中からいなくなってる。そうして、聖はおもむろに彼の腕を伸ばして腕の中に閉じ込めた。


「ひっ、聖!?」

「ちょっとだけ、このまま……」


 ここに彼がいることを確認したい。でないとすぐに消えてしまいそうだった。そんなところまであの頃と同じで、同じ分苦い思いも変わらないけれどそれでも今確認しないわけには行かない。いつかは別れが来るのだろということは、幼い頃から知り尽くしている。
 瀬能は少し高い体温で硬直していたが、次第に体を弛緩させた。そうして完全に安心してから、ぽつりと呟く。


「煙草くさい」

「ごめん」

「体に悪いから、少し控えろ」

「ごめん」

「それから、暑い」

「……ごめん」


 最終的に何に対して謝っているのか分からなくなってしまった。煙草を控えることができないことに対して謝っているのか、そんなものに依存しなければならないほど弱いことに対して謝っているのか。ただ黙ってしまった瀬能に対して、もう一つ謝罪して聖は目を閉じた。甘えてしまって、ごめん。










 聖が執務室に戻ると、まだ惣太と信義が喧嘩していた。吉野に理由を訊いたけれど知らないといわれ、鉄五郎に訊いてもはっきりしなかったのでどうせ昔と同じくだらないことだろうと予想して鉄五郎を連れて外に出た。ついでに道場に放り込んだ八郎を連れて、特に目的もなくぶらぶらと街に出る。
 正直なところ、この八郎という男は軍人になどなりたくないような気がした。あそこから出たいとか、偉くなりたいとかそんな雰囲気を感じる。確かに朱門の人間はみんな劣等感を持っている。黒門が存在するからかもしれないが、聖から見ればそんなものを持つ必要などない。あの黒い門の向こうは赤い門よりももっと特殊な場所なのだから。


「鉄にはなんにも買ってやったことないよな。何か買ってやろうか?」

「本当ですか!?」

「おう。惣太なしでお前と出掛けることも滅多にねぇしな」

「ありがとうございます!」


 小間物屋に来たのは新しい扇子がほしかったからだ。惣太には昔から何かあげたり、食べ物を強請られたりして買ってやったけれどそうえいば鉄五郎には何もないことが思い当たって聖は彼の頭を撫でながら笑った。ぱっと笑った鉄五郎に好きなmのを選んで来いと言って店の中に放す。聖は自分用の扇子を見ながら、隣に控えている八郎に視線を移しもしないで問いかけた。


「お前、本当に軍人になりたいのか?」

「は?そ、それはもう……」

「俺には軍人よりも文官になりたいって感じに見えるけど。言っとくが軍から文官に転身はできねぇよ?」


 聖の一言で彼は簡単にひるんで見せてくれた。こうも簡単にぼろを出してくれるとは驚きだ。思わず鼻で笑うと、もう取り繕えないと判断したのか八郎は本当は黒門でお供になりたいのだと語った。
 赤門にはない制度で、黒門には『お供』というものがある。女一人一人に付きっ切りで世話をする男がそれだ。黒門で生まれた男子は大抵このお供になる。聖もあの頃は、一つ下の幼馴染のお供になるのだと単純に思っていた。お供はそのまま店の主人になることも可能で、実際聖の生家で国一番の店は聖の母親のお供が切り盛りしている。けれどその仕事を最も近くで見て、お供の男に育てられたような聖は確かにその仕事のよさを知っていた。同時に、いかに大変かも知っている。


「昔、黒門の少女に恋をしたんです。年のころは今なら二十前後、知ってるんじゃあないですか」

「黒門で二十くらい、なぁ」

「初めてその姿を見たとき、この子に仕えたいと思いました」


 彼の話では、今から十五年以上も前の話だという。小間物屋の前で、じっとその店のものを見つめていた二人の少女を見た。一人の方が年長なのだろう、背の低い方の少女を諌めているようだった。お遣いの帰りだったのだろうか体に対して少し大きい箱を持っていたから、八郎は手伝おうかと声をかけた。そうして面と向かってその少女を見て、お供になりたいと思ったそうだ。
 彼の話を扇子をみながら聞いていた聖は、一つの記憶にいきあたった。まだ黒門で生活していたとき、お遣いを頼まれて幼馴染と一緒に出掛けた。その帰り道に可愛いかんざしを見つけてほしいと言った幼馴染の腕を引っ張って帰って、あとで一人で内緒で買いに来た記憶。その断片に、声をかけてきた男がいたかもしれない。


「黒門の燈さんの子なら、心当たりがおありでしょう」

「……ないわけじゃあねーけど」

「お願いします。彼女に会わせてください」

「無理だな」


 すっと言い切って、聖は一つ扇子を手に取った。ぱらりと開いてみて、現れた夏椿の絵がまた気に入ってこれにしようかとそれを閉じる。それから、なぜと声を荒げた男を問答無用で睨みつけた。貪婪にいるのならば、聖が黒門へ近づかないことくらい知っているだろうに。
 

「お前にあいつを任せられるわけ、ねぇだろ」


 こんな男に、と聖は奥歯を噛んで吐き捨てた。自分の中の何かを踏み荒らされたような、ひどい気分だ。聖の中でお供とは憧れの存在で、いつもあんなふうになりたいとさえ思っていた存在だ。その上可愛い幼馴染をこんな他力本願な男に任せられるわけがない。
 扇子を持って鉄五郎に声をかけ、一緒に会計を済ませる。鉄五郎が選んだのは、鎖を象ったブレスレットだった。
 本部に戻るとまだ信義が帰っていなかったのでちょうどいいと思って聖は彼に八郎の教育を任せた。預けられたのはこっちなんだから、何をしようと文句を言われる筋合いはないはずだ。









 瀬能は、とても困っていた。目の前にいるのは真坂光定とその父であり前意見者の真坂国定。まるで二人から説教されるように瀬能はソファに座って小さくなっているが、本来はこんなに小さくなる必要はないはずだ。
 二人揃ってやってきたのは今から三十分ほど前だっただろうか。ちらりと時計を見て思わず溜息が漏れた。最近は政務に慣れてきたからか、光定がそれ以上の要求をしてくるようになった。一年はなれない政治で精一杯だったけれど少し余裕が出てきたから、言いたいことはずばずば言うし今まで以上に厳しい。特に、この話題は苦手なのに。


「瀬能様、結婚しろと申しているわけではございません」

「……でも……」

「それなりに経験をつんでおけと申しておりまする」


 二代の意見者が一緒になって女性経験をつめと言ってきている。もう瀬能は泣きそうで、ここにいない聖を心の中で呪った。助けてくれと念じても助けてくれないなんて、とんだ嘘つきだ。いつもはしない責任転嫁でもしないとやっていられない。今は政務でいっぱいいっぱいだし、そもそも女性に対して軽い気持ちで接していいようには思えなかった。


「これも領主として当然のことです」

「……真坂殿だって、一人ではないか」

「私は寡なだけです」

「瀬能様。これとて昔はそこそこ遊び、娶った妻を愛しぬいた男でございますよ」

「そ、そうなのか!?」


 前意見者の意外な言葉に瀬能は思わず光定を凝視した。てっきり女遊びなどしない男のように見えたが、そんな過去があったとは。
 そちらの方に興味が移ってしまって瀬能は光定の奥方について質問しようと思ったが、その前に頭痛を抑えるようにこめかみに手をやった光定に言葉を遮られた。溜息と一緒に出たしょうがない、の言葉はきっと瀬能にとってはしょうがないものじゃあないはずだ。


「聖でもお供につけて行ってくればいいじゃあないですか。あれなら作法も女の扱いも完璧です」

「光定、あの子はお上には行かないだろう」

「あぁ、そうでした」


 聖は確かに文官の中では煙たがられている。けれど真坂家の人間にはそうではないらしい。国定の親しげな呼び名に瀬能は少し意外だったので驚いたが、それ以上に気をとられる話題だった。聖本人に訊いても答えをぼかされたし、以前、瀬能が初めて黒門へ足を踏み入れたときもどうして聖は来ないのかと訊いたがそのときは誰も答えてくれなかった。まるで、その話題は触れてはいけないように。でも今ならば大丈夫なのではないだろうか。少しの好奇心が起き上がる。


「どうして聖は黒門に行かないんだ?」

「ご存じないのですか?貴方も会った極上の美人がいたでしょう、あれが聖の母親です」

「母親!?」

「そっくりだったでしょう。気づかなかったんですか?」

「似ているとは思ったが、母親だったとは……」


 それでか、と瀬能は合点がいった。あの時聖が浮かべたひどく曖昧な笑みはこれが原因だったのか。しかしだったらどうして彼が黒門へ行かないのかが不思議でしょうがない。母親に会いたくはないのだろうか。軍の大将はそれなりに地位があるのだから恥ずかしく思うこともあるまい。


「真坂殿、やはり黒門へ行こうと思う」

「……急にどうなさいました?」

「ただ、勝手も分からないから聖とだ」


 いいことを思いついた、と瀬能は自分の作戦に顔が緩んだが、どうしてか光定の表情は硬かった。ただ瀬能はそんなことは気にも留めなかった。ただ聖が喜んでくれると思っていたし、そうであるだろうと疑問にすら思わなかった。





−続−

五十話やって一年半……!?