夕方に瀬能に呼ばれた聖は、軍服姿で瀬能の部屋に向かった。この時間ならば普段か着物か私服だけれど、今日は気分が悪いからと言う理由であちらこちら散歩と称して主に山道やらを歩き回っていた。おかげであちこちに葉っぱが付いていたけれど、すべて払ってきた。湖を眺めてぼんやりとした時間をすごして、だいぶ気は落ち着いただろうか。


「お呼びですかー」

「遅かったな!」

「うん?」


 部屋に入るなり妙な意気込みを瀬能から感じた聖は思わず一歩後ずさった。どうしてこんなにきっちりと着物を着ておめかししているのだろうと思う前に、この部屋にまだ真坂がいることを疑問に思った。絶対に何かを押し付けられると直感するも、逃げ出せそうにない。きらきらとした顔の瀬能に手をがしっと掴まれて嬉しく思うはずなのにそれどころか振りほどいて逃げたくなった。


「聖、出かけるぞ!」

「ど、どこに?」

「花街だ!」


 聞きなれた言葉に、ほんの一瞬安堵する。そのくらいならばお安い御用だと昼間行ったばかりの割りに思うけれど、その直後には瀬能が行くなら朱ではなく黒だと思い直す。自分で行くのならばどこに行こうが構わないが、ここに真坂がいるということはどうせ経験だとでも言われたのだろう。
 しばしの沈黙の後、聖は瀬能をしっかりと見つめ返して極上の笑顔を浮かべた。


「お断りします」

「な、何でだ!?」

「全力で拒否します」


 まさか断られるとは思っていなかったようで、瀬能は目をまん丸に見開いている。逆に聖は自分が二つ返事で行くと思われていたことに若干傷ついた。確かによく遊びに行くけれど、そんな印象は持ってもらいたくない。花街と言っても呑みにいくだけのときもあると言うのに。一人蚊帳の外を気取って笑い声をかみ殺している真坂に視線を送るけれど、彼は助けてくれそうにない。


「瀬能様、こいつに命令してやればいいんじゃないですか」

「で、でも……」

「そろそろ人に命令することも覚えるべきですよ」

「光定殿!」


 こんなことで命令なんてされてたまるか、と聖は声を荒げて真坂の名を呼んだ。けれど彼は珍しく意地の悪い笑みを浮かべると、命令したら逆らうわけがないと言ってくれた。確かに領主の命にたかが軍大将が逆らえるわけないし、そもそも瀬能のお願いに聖が逆らう事はない。今回が例外なだけだ。瀬能はともかく真坂は聖が黒門には絶対に近づかないことを知っているのにこの仕打ちはない。
 初めは戸惑って命令はできないとまでいいそうだった瀬能だが、真坂の表情に何を思ったのかきゅっと拳を握って真面目な顔を作った。領主になって一年半、まだちゃんと命令をしたことがない彼が初めての命令に自分が選ばれるのは光栄だけれど、残念だ。


「聖、一緒に行け」

「嫌です」

「……真坂殿!」


 初めての命令だろうがなんだろうが、聖はばっさりと切り捨てた。縋るように真坂を見た瀬能をわがままを言う子供のように見やって、聖はポケットに手を突っ込んでソファに座り足を組んだ。真坂を正面に見据えると、彼は楽しそうな顔をしている。そうして、彼がただ楽しんでいるだけなのに気づいた。


「行きたいなら光定殿が行ったらいいじゃないスか」

「馬鹿言え。私は妻以外に興味がない」

「だからって人に押し付けないでくださいよ。秋菜ちゃんとかに行かせればいいじゃん」

「馬鹿を言え。瀬能様と一緒だぞ」

「とにかく、朱門ならまだしも黒は行きません」


 絶対に聖は行かない。それはもうずっと昔から決めていたことだった。
 聖が角倉に引き取られると決まったとき、母は笑顔で送り出してくれた。幸せになってと言う言葉と共に零れた涙を、見ないふりをした。本当は聖だってあそこを離れたくなかったけれど、母がここから出ることを望んだから。ここから出れば幸せになれると自分から手放してくれたから、彼女の夢を叶えたいと思った。それも傲慢なのかもしれないけれど、そのとき確かにそう感じた。それなのに聖は今彼女が望んだとおりに幸せにはなれていない。だから、合わす顔がない。
 聖がはっきりと断言すると、黙っていた瀬能がすとんと真坂の隣に座った。この二人にタッグを組まれたらさすがに負けてしまう気がして聖は思わず逃げ道を探して後ろを見た。


「聖、母上に会いたくないのか?」

「なん、で……」


 何でそれを知っているんだ、という言葉は出てこなかった。あまりにも予想しない言葉だったから喉に言葉が張り付いて出てこない。目を見開いて言葉を失ってしまった聖に、瀬能の方が予想外だったのか戸惑って真坂を見た。それにつられて視線を移すと、真坂に上から目線で「私が教えた」と言ってくれた。なんて偉そうなおっさんなんだ、と聖は小さく悪態を吐く。


「聖はもう軍大将だろう?立派になったじゃないか」

「本当にそう思う?」

「思う!それに、どんなでも親は子供に会いたいと思うものだ」

「……あのさぁ」


 瀬能の言葉が癇に障り始めたのは、きっと心に余裕がないせいだ。それを分かっていても唇が紡ぐ言葉を押しとどめられなかった。皮肉気な笑みが零れ落ち、結っていない髪がさらりと顔の横に流れる。それを手のひらでくしゃっと掻き揚げて、聖の口から妙に色っぽい声が漏れた。低いそれに瀬能がびくっと体を縮こまらせる。怖がらせてしまうかもしれない、けれど言葉は止まらなかった。


「それ、本気で言ってるわけ?」

「え……」

「俺は会いたくねぇっつってんの。分かる?」


 聖、と瀬能の唇が動くのは見えた。怯えた瞳と目が合ってその中で自嘲めいた笑みを浮かべている自分を見て、ようやく自分がやらかしたことに気づく。こんなのは八つ当たりだ。ただの子供っぽい駄々でしかない。後悔したところでもう言葉はなかったことにできないし、現状がどうにかなるわけでもない。だから、そのために言葉を紡がなければならない。


「悪っ……すいません、俺」

「聖」


 謝罪の言葉を述べきる前に、真坂に鋭い声で遮られた。思わず口を噤むけれど彼は黙ってしまい、妙な空気が流れる。言葉の勢いを殺がれて言葉が続かず、聖は短く息を吐いて立ち上がった。背を向けて数歩歩き、一度足を止めて僅かに振り返った。泣きそうな顔をしている背能を見て、押し寄せる罪悪感に見ていられなくなった。


「頭、冷やしてくるんで……。行くなら誰か寄越します」


 吐き捨てるようにそう言って、呼び止める瀬能の声も聞こえないふりをして聖は足早に部屋を出た。止まったら踵を返して瀬能を抱きしめてしまいそうで、自分勝手に壊してしまいそうでどうしてもそれだけはできそうになかった。










 一応小田原に行かせたけれど、その日は行かなかったと報告を受けた。けれどそれを聞いたときの聖は後悔に押しつぶされそうで、吉野に何度も落ち込むなら謝りに行けばいいと言われ続けたけれど顔を合わせるのも申し訳なくて会いにも行けなかった。そうしているうちに、一週間経ってしまった。
 みどりから連絡があったのは、暑い日が続いていたくせに最後の名残雨とでも言いたげに降ってきたその日だった。連絡を受けて聖は惣太を連れて貪婪へ向かったけれど、姫菜はまだ準備中だといわれて先に酒を呑んでいた。


「緊張してんのか?」

「…………うるさいです」


 ちびちびと酒を舐めながらずっと緊張した顔で黙っている惣太に聖は笑いかけて睨まれた。その状況が面白くて今までの自分の心の虚も少しは晴れそうだった。あんなことがあったから聖も朱門にも近づきにくくなってしまったから、ここに来るのも久しぶりだった。
 聖は手酌で杯を傾けて惣太をみる。肴もつつきながら自分が座敷デビューするわけでもないのに緊張しているあたり面白い。


「一回経験しといてよかっただろ?」

「えっ?」

「そんなに緊張しねぇから」

「なっ、なんでそんなこと言うんですか!?」


 以前惣太が落ち込んだことがあったけれど、いざと言うときに自信になる。それをわざと口に出して言うと惣太が真っ赤になって叫んだ。まだまだ初心だなぁと感心する一方、一回くらいじゃあダメかもしれないと思った。思い返せば自分も何度女性と関係を持っても本当に好きな女には触れることさえ躊躇っていた。


「俺がお前のために姫菜の初座敷予約したの知らねぇとは言わせねぇぞ」

「……うるさいです」

「ま、頑張れよ」


 にかっと笑って、聖は惣太の髪をかき回した。うるさいと言う割には何も言わず抵抗もせずにいるから、クックッと喉から笑みが漏れる。
 そうしているうちに、みどりが入ってきた。準備できたわ、と満面の笑顔を向けてくれるから聖は顔をゆっくり向けるけれど惣太はびくっと顔を跳ね上げる。それに笑ってみどりが外に声をかけると、すっと襖が開いて煌びやかに着飾った姫菜がしゃらんとかんざしを涼やかに鳴らして頭を下げた。


「姫菜と申します。よろしくお願いいたします」

「おー、可愛い」


 もともと作法としては部屋に入る際に女性が頭を下げる。聖が頻繁に来てしかも気楽に接しているだけで、惣太は初めてそれを見た。顔を上げた姫菜は今までとは全く違い、綺麗に白粉をはたいて豪華な着物を着ている。少し恥ずかしそうな顔をしているけれど、惣太の方が恥ずかしくなった。
 さっそくみどりが聖に酌をしていて、姫菜が小さい声で失礼いたしますと惣太の隣に腰を下ろす。


「惣太なんかより俺が相手してぇんだけど」

「駄目よ、聖。今日は私で我慢なさい」

「ほら、初めては俺みたいな手練がよくね?」

「そういう意地悪言わないの」


 いたずらに聖が口にする言葉に、姫菜は白粉で顔色が変化したのかわからなかったけれど惣太の顔は真っ赤になっていた。それを見たみどりが聖を嗜めるけれど反省の色は見られない。実際姫菜が緊張しているのは手の震えでよく分かった。
 そらからしばらく呑んでいたけれど、先に痺れを切らした聖がみどりにしなだれかかって床の延べてある別室へ行こうと言い出した。それまでろくに姫菜を見ずに黙って呑んでいた惣太は、硬直した。


「ひ、聖さん……」

「がんばれよ?」


 にこりと聖が艶っぽい笑みなんかを浮かべてくれたから、惣太は口を酸欠の金魚のようにパクパクと開閉させるしかできなかった。正直聖は惣太が緊張しなくなるまでいてくれると思っていたのに、勝手にいなくなるなんてひどい。けれどそれを合図に姫菜も腹を括ったのか小さな手がそっと惣太の手に触れた。それだけで心臓が爆発しそうになる。


「お、俺たちも……」


 それ以上言えなくて、惣太の言葉は消えた。何かを感じ取った姫菜がこくんと頷いてくれたけれど、それだけで惣太の緊張は増して行く。聖が嫌がらせかと思うほどに気を使ってくれたから、床は襖を挟んで隣の部屋に延べてある。それをありがたいと思うような思わないようなで、惣太は姫菜の手を引いてゆっくりと移動した。先に布団の上に腰を下ろして、深呼吸を一つ。


「あの……。本当に、俺でいい?」

「う、うん」

「仕事だからとかそういうの抜きにして、俺でいいかな」

「私、初めてが惣太君で良かったって……思うよ」


 姫菜は畳の上に俯いて座っていた。ただ手だけを握って、そっと質問を繰り返す。自分の手が緊張で汗ばんでいるのがばれてしまうけれど、それでも良かった。惣太は姫菜が好きで好きでしょうがないから、緊張している。惣太の問いに姫菜は小さく頷き、そのたびにしゃらんとかんざしが音を立てた。


「俺、姫菜ちゃんが好きだよ」


 本当に本当に、大好きだよ。そう言って惣太は姫菜の手を引き寄せた。緊張で震えながら少し力を入れると、姫菜の体は素直に腕の中に納まる。豪奢な着物の割りにすっぽりと収まった体は小さくて、柔らかい。おそらく通常より高い体温の姫菜の背に腕を回して、緊張して酸欠を起こしそうになりながらもそっと姫菜の躯を布団に横たえる。そうして、まず聖に脱がせ方を聞けばよかったと後悔した。一度だけじゃあ、覚えられない。


「本当に俺でいい?」

「……惣太君がいい、もん」


 顔を近づけて訊けば、姫菜が恥ずかしそうに顔を逸らす。そうして吐息のような声が戻ってきたので心底安心した。同時に滲み出るように目の前の少女が愛しくなって、惣太は初めて赤い唇に自分のそれを押し付けた。





−続−

惣太のファーストキス!