演習が終わって帰って来た頃には聖の誕生日は過ぎ去っていた。どうやら国一周マラソンの代わりにやらせた野営の期間がずいぶん長かったようだ。別に自分の誕生日などに頓着していない聖は全く気にしておらず、誕生日なんていわれなければ忘れていたが顔を真っ青にした兵たちが小さな包みと一緒に祝いの言葉を述べるから思い出した。
 渡されても聖はその包みを適当に投げ出してぼんやりと煙草を銜えたまま窓で区切られた向こう側の空を見上げていた。夏特有の薄い空と真っ白な雲を見ていると、無性にどこかに行きたくなった。


「聖さん、文がたくさん来てますよ」

「文?」

「えぇ、朱門の方々から。相変わらずの色男ぶりで」


 執務室でぼんやりしていた聖は、入ってきた吉野を見るために首を回した。この暑いのに長袖のシャツをきちんと着ている吉野は確かに大量の文がある。朱門の習いで文は簪にくくりつけられている。会いにきたときに返してくれという意図を含んでいるけれど、今はそれを知っている人間も少ないだろう。遥か昔の慣習だ。それにしてもすごい量だった。吉野はそれをどさっと机の上に置くと、一本の簪を手にして何気ない仕草で手紙を解いた。貰った本人の許可も求めずに読んでいるけれど、特に気にしていない。もともと読む気すらなかった。


「きっと皆さん、誕生日のお祝いなんでしょうね」

「へー」

「女性をないがしろにするなんて珍しい」


 聖が気のない返事を返すと、吉野がからかうように笑った。別にないがしろにしているわけじゃあないと分かっているくせに口に出すのは、ただ聖をからかいたいだけだろう。維持が悪い、という呟きが紫煙に混じって口から漏れた。
 吉野が投げ寄越した一本の簪から文を解いて開くと、細く可愛らしい文字で誕生祝とまた来て欲しい旨が書かれていた。差出人の名前を見ても、その娘の顔は思い出せなかった。特に興味がなくそれを未開封の文の中に投げ入れる。豪奢な簪が切なげにしゃらんと音を立てた。


「大将はいるか?」

「佐竹長官」


 何となく沈黙してしまった室内に、戸が開いて人の声と共に人影が入り込んできた。聖がゆっくりと首を回す前に吉野がその人物の名を発し、自分が座っていたソファから立ち上がると彼に席を勧めた。佐竹は室内を見回し、まず机の上の文の山に視線を止めた。ソファに腰を下ろしながら、聖との間に積み重なる簪を一本拾い上げる。けれど文には触れず、見事な細工の簪を見た。
 それを視界の端に映しながら、聖はいつの間にか短くなってしまった煙草を灰皿に押し付ける。全然吸った気がしないから、もう一本火を点けた。これもまた吸わずにいつの間にか空気に溶けているのだろうか。


「なんだ、腐ってるのか?」

「腐ってはいねぇよ」

「お前のことだから道場の方にいると思ったぞ」

「別にいつもいるわけじゃあねぇし」


 作り置きしてある冷たいお茶を湯飲みに注ぎながら、吉野はこの受け答えも聖らしくないと目を眇める。喧嘩友達ともいえる佐竹が来てくれたことはありがたいが、何か効果があるだろうか。あれから聖はずっと心ここにあらずと言った調子でぼんやりしている。惣太なんて、聖さんがどこかに行っちゃいそうだと不安そうにしていた。
 煙草を銜えたままの聖が手を伸ばして簪を一本抜きだす。遥か昔ならば女たちは己の気に入りの簪に文を結いつけ、男がおとなってくれることを期待した。けれどいつの間にかそれが慣習化し、簪は安物の使い捨てになった。けれどここにあるのはどうしてもそうとは思えないものばかりだった。


「瀬能様とまだ仲直りしてないんだろう?」

「……何でそれ知ってんだよ」

「えらく落ち込んでられるぞ」

「落ち込んでるって、悪いの俺じゃねぇかよ……」


 灰の長くなった煙草を指に挟んで、その手を額に当てて天井を仰ぐ。聖の口から吐息にも似た言葉が切ない音になって出た。手が目を隠すから表情は読めないけれど、少なくとも口元だけは自嘲気味に歪んでいる。演習の間に聖は吹っ切ったけれど、まだ会いに行っていない。吉野がそれとなく何度か会いに行ってはどうかと言っても聖は答えを濁して笑うだけで、実行しなかった。それが気になって上の空になっていたくせに、踏ん切りがつかなかったのか言葉が出てこなかったのか。とにかく何かと理由をつけて逃げるのも、ここまでのようだ。


「瀬能様はものすごいご自分を責めていたな」

「…………」

「お前を傷つけた、考えなしだった、とな」


 吉野がお茶を佐竹の前に置くと、彼はごくごくとそれを飲み干して聖に向かってにやりと笑った。まるでいじめっ子のようなその表情に聖の目が不満そうに歪められる。聖にとって佐竹は親しい年上の兄のようなものなのだろう。実際の兄とはこんなに親しくなれないから尚そう見える。吉野ではできないことを彼はやってのけるから、それが少しだけ吉野には気に食わなかった。


「……謝ってくる」

「あぁ、そこにおられるぞ」

「はっ!?」


 また半分ほどしか吸っていない煙草を灰皿に押し付けて、聖はゆっくりと立ち上がった。演習から帰ってきてからの聖は暑いからと言って軍服に袖を通す回数が格段に減った。この方が楽だと言ってずっと着流しを纏っている。今日も裾に牡丹の咲く紬の浴衣だ。その裾を翻し、聖は肌蹴るのもお構いなしに大股でドアに近づくとそこから顔を出し固まった。


「聖さん?」

「き、着替えてくる……」


 声をかけると顔をこわばらせて、聖はぎこちない動きで奥の部屋に消えた。本当にいたのかという驚き半分で佐竹を見ると、彼はニヤニヤと笑っていた。この表情を見る限り彼は聖の淡い恋心に気付いているのかもしれない。それをこの場で問いかけるか否かを考えていたら、聖があわただしく戻ってきた。一体どこに行く気なのかラフに細身のパンツにタンクトップを着ていた。この短時間にピアスも換え、昔のようにシルバーアクセが首元と指に鈍く光っている。


「ちょっと出かける」

「その格好でですか?」

「おう」


 バシャバシャと顔を洗って髪をワックスでスタイリングして、煙草とライターだけをポケットにねじり込んで再びドアの向こうに顔を出した。今度はきっと、生き返った目をしているのだろう。本当に外に瀬能が待っていたのか、あの一見して不良でしかない格好で行ってしまった。
 あまりの早業にぽかんと肩甲骨の露出した背中を見送って、吉野は溜息を吐いていっぱいになってしまっている灰皿をゴミ箱に捨てた。そうして朗らかに笑っている佐竹にやはり問いかけた。知らなかったら伝えてはいけない情報だが、なんとなく彼は知っていると確信している。


「佐竹長官は聖さんが瀬能様に好意を寄せていること、ご存知ですか」

「そうなのか?」


 佐竹の答えを聞いた瞬間、肝が冷えた。領主に対して、それも男が恋心を抱くなど、論外だ。特に聖では通常のそれよりも罪は重い。外すと思ってなかった予想を外して顔から血の気が引いた。
 吉野の顔が真っ白になっていることに逆に佐竹が慌て、その関係なら薄々気づいていると告げた。ついでに真坂意見者も知っているというと吉野の肩が安堵に下がった。


「私はてっきり、瀬能様の方が大将に熱を上げているのかと思っていたが」

「そうなんですか?」

「あぁ。今のところ一番信頼してるんだろうな」


 その信頼を壊さなければいいが、と佐竹は笑って執務室を出て行った。たった一人残った吉野は、茶器を片付けながら会話を反芻する。信頼という形はとても美しいものかもしれない。けれど聖はそれでは満足しないし、逆に彼にとっての信頼は望んでいるものじゃあない。瀬能の抱くそれがただの憧れにしろなんにしろ、聖にとっては素直に受け取ることができないものに違いない。だから吉野は、せめてお互いに気づかない恋であることを願うしかできなかった。










 暑い中街に出てきたのは間違いだと聖は思った。外ならば雑音で多少会話が途切れたとしても誤魔化しがきくと思ったけれど、実際は人の視線が気になってしょうがない。聖の格好がそれに起因していることは分かっているが、あの時は相当慌てていた。けれどどんなに地味な格好をしていたところで状況は変わらない。見られるのには慣れているけれど、意識するとこんなにもたくさんの視線は痛かった。
 結局その視線から逃れるために選んだのは、街はずれにある小さなお堂だった。小さな鳥居を潜ればそこはもう別世界のように静まり返っている。夏祭りの花火にはここは穴場だ。


「こんなところで悪い」

「いや……。聖は私の知らない場所を知っているんだな。私は自分の国だというのに何も知らない」


 本当ならばどこかお茶屋にでも入っていいのだが、そんな店は残念ながら静かに過ごせないしうすら汚い。こことそう変わらないけれど、風が通るだけまだましだ。
 ばつが悪くて聖がそういうと、瀬能はものめずらしそうに辺りを見回して少し寂しそうに言った。幼い頃から館からそう出たことのない瀬能は知らなくて当然だけれど、彼は本気でそのことについて悩んでいるようだった。火を点けようと思って擦ったライターの火が、風に少しだけ揺らめいているが銜えた先端に火は点らない。


「聖、あの……この間は悪かった!」

「……なんで先に謝るかな」


 先に謝まろうと思っていたのに踏ん切りがつかなかったのは聖だ。起こってしまった事実は消せないことを知っているから、聖の口から乾いた笑いが漏れた。みっともねぇ、と結わいていない髪をくしゃっと握りようやっと煙草火を点す。一度紫煙を吸い込むと、指の先まで冷たくなるようだった。
 きょとんとしている瀬能に向かって、火を点けたばかりの煙草を指に挟んで頭を深く下げる。ご無礼を、と言ったところで瀬能が慌てたので頭を上げて笑った。


「俺の方こそ、大人気なかった」

「……でも、やっぱり行ってくれないのか?」

「そこは譲れねぇな」


 引き下がりながらもやはり行こうという瀬能に、今度は腹も立たなかった。嘘のように内心が澄んでいる。煙草を燻らせながら聖は瀬能の隣に浅く腰掛け、木々の深い緑が遮る空の向こう側に視線を投げる。一体どこから話せばいいのだろうかと考えながら、ちらりと隣を窺うと瀬能は境内に座って足元を見つめていた。


「話、長くなってもいいか?」

「いい。聖のことが知りたい」

「それ、口説き文句?」

「くどっ……違う!」


 そんなことを言われたら話さないわけにもいかないと聖は薄く笑って口元を引き上げる。どのくらい長くなるだろかと空と残りの煙草の本数と相談しながら、聖はゆっくりと口を開いた。空の向こうに浮かんでいるのは、昔の母の面影。母はどんな風に変わっているだろう。皺でも増えたのだろうか。それとも、また美しくなっているのだろうか。


「俺が生まれたのは、旗野って黒門の店。母親は、瀬能も見たろ」

「すごい、綺麗な人だった。聖にも似ていた」


 綺麗になっていたのか、と安堵が半分と悔しさが半分だった。聖から見ても母は歳を取ることを忘れたように美しく、変わらなかった。幼いころは姉妹にさえ見られた。それが聖は誇らしくもなったけれど、いつしかそれか哀切に変わった。母はずっと変わらず、労働を強いられなければならないのだと気づいた頃から母を見ているのが辛くもなった。
 旗野は黒門でも最も奥まったところにあり、実質この国で最も位の高い店だった。そんなところに通えるのは領主から三代名家くらいのものだろうか。特に聖の母は燈といい、一晩買うだけで庶民の半年分の生活費とも言われる金がかかる。そこで聖は育った。聖の父は角倉元伸に間違いない。彼は燈が身篭ってからは遠のいていたけれど、聖が十になったときにやってきて角倉に引き取ると言ってきた。それに応じるまで一週間の猶予はあったけれど、その間母は店に出なかった。


「国で最高位とか言っても所詮遊女だ。角倉に引き取られることを二つ返事で選んだ」

「聖は嫌だと言わなかったのか?」

「言えねぇよ。あんな……あんな顔で幸せになれ、とか言われたら」


 ここまで話すのに短くなった煙草を足元に投げ捨てて、投げ出した足で踏み消す。次の煙草に火を点けて雲よりも薄い紫煙を吐き出して、子守唄のように話の続きを探す。空に滲んだ母親は、最後に見た泣きそうな顔をしていた。
 そのままお供になるよりも、角倉に手渡した方が幸せになれる。そう考えるのは夢を見ることができない女には当たり前の解答だった。そして別れの日まで母は聖を片時も話さず、まるで自分の言い聞かせるように幸せになってと繰り返した。その言葉が呪縛のように聖の脳内に繰り返し木霊する。あのときから、幸せなんて見つからない。


「それ以来会っていないのか?」

「遊女ってのはな、瀬能。夢が見られないんだ」

「夢?」

「好きな男の子供を孕んで所帯を持つなんて叶わない夢。特に朱はな」

「……そうなのか」

「湿っぽい話は終わり。なんか食ってから帰ろうぜ」


 三本目の煙草を吐き出して、聖は立ち上がった。視線の先の面影は空に滲むように消えてしまった。身体をほぐすように何度か捻って、まだ境内に座る瀬能に手を伸ばした。捕まれと促したのだけれどもその手は取られることはなく瀬能は一人で足を地面につける。聖の顔も見ずに小さく呟いた。


「それでも母君は聖に会いたいと思うぞ」


 食い下がらない瀬能に笑って、聖は長い足を投げ出すように一足先に鳥居を潜った。帰ったら久しぶりに道場に顔を出そう。そういえば貰ってもあけていないプレゼントの袋をまず開封しなければ。数日分ぼんやりしていた時間を早回しに実感して聖の口元が自然に緩んだ。駆けてきた瀬能の、誕生日おめでとうという言葉ににやけた口元を、手で慌てて隠した。





−続−

タンクトップは正義だ。