自分は何も知らないと切ない顔で瀬能が言ったから、聖は彼に今までできなかった経験をできるだけさせてやりたいと思った。それが危険だと言うのなら自分が守ってやるとも思う。
瀬能の誕生日当日、聖は執務室で難しい顔をしたまま目の前にある扉を睨みつけていた。数回出入りしている吉野は聖と目が合ってもあからさまに溜息をつくだけで何も言わず、報告に入ってきた兵は悲鳴を上げて逃げ出す。悶々と考えていたけれど、聖はようやく考えがまとまったのかゆっくりを肺の中の空気を吐き出して立ち上がった。
「聖さん、どちらへ?」
「ちょっと散歩」
気候は少し寒くなってきた。もうシャツ一枚では昼間でも肌寒い季節だから、聖はソファに投げ出してある軍服を手にして苦い顔のまま執務室を出る。扉が閉まる前に吉野のこれ見よがしのため息が聞こえてきた。それと一緒に「紅葉がもうあんなにたくさん」という声も。
聖は軍服に袖を通しながらカツカツと階段をおり、少し早足に裏の館に向かった。途中で見上げた空は抜けるように青い。今日が絶好の行楽日和なのは、普段の瀬能の行いがいいからに違いない。足元が軽く階段を上がると、途端にだみ声が飛び込んできた。
「瀬能様!お部屋にお戻りください!」
「ちょっと、トイレに行くだけだから!」
「ならば自分もご一緒します!」
「結構だ!!」
瀬能の部屋で護衛の兵と瀬能がなにやら押し問答をしている。こんなに言い張る瀬能が珍しくてしばらく見ていようかと思ったけれど、瀬能の手首を掴んで押し止めている兵が何だかむかついて、大股で近づくと後ろから自分と同じ軍服を着ている兵の臀部を蹴り上げた。
「何やってんだ、テメェ」
「ぎゃっ!師範!?」
「聖!」
そんなに力いっぱい蹴ったわけじゃあないけれど彼は尻を押さえて数歩後ずさった。その隙に瀬能が逃げ出して聖の背に回る。守ってくれる人間だと認識されているのが嬉しいようなくすぐったいような、妙な気持ちになった。一体何をしていたんだと問い詰めると、瀬能が部屋から出たいと言うから止めていたのだと見たまんまのことを言われた。後ろから袖を引かれて振り返れば、不満そうな顔をして瀬能が見上げてくる。正直、小さいなぁと思った。聖の背が高いこともあるけれど、こんなに近い場所に立ったことがあまりないような気がする。
「瀬能様?」
「私は少し気分転換したくて……」
仕事が嫌になったのだろう子どものような顔をして、瀬能は俯いた。本当に子どものようだと苦笑して、聖は丁度良かったと故意に笑いかけた。不意に自室の扉から柊が顔を覗かせ、その後ろには美月の姿も見られる。彼女たちも稽古か何かの途中だったのだろう。美月が唇だけで「何かあったんですか」と訊いてくるので聖は軽く首を振って否と答えた。
「瀬能様、紅葉狩り行きませんか?」
「紅葉狩り!?」
「天気もいいですし、せっかくの誕生日ですしね」
「行く!」
裏の狭間山の紅葉が綺麗に赤く色づいていることに数日前に気づいた。いつもならば聖が勝手に行方をくらませて紅葉狩りに行くのだけれど、今年はどうせなら瀬能を誘うと思った。誕生日というのもいい口実だし、実際彼は紅葉狩りなんてしたことがないだろうから。いくつもの初めてを、彼からいくつ貰うつもりだろう。
ぱっと顔を輝かせた瀬能に笑いかけて、ついでに彼の肩越しの除いている妹姫と自身の姉にも声をかけた。柊も美月もとても嬉しそうな顔をして同意してくれたので護衛の兵に振り返って聖は口の端を少しばかり引き上げた。
「そういうわけで、報告するならよろしくな」
「師範!?」
「報告は任せた」
怒られたくないから、という言葉は合えて口に出さずに、聖はひらりとまだ臀部を押さえている兵に言って踵を返した。柊が部屋から飛び出してきて、嬉しそうに兄に飛びつく。思ったとおりに初めてだと彼女は笑い、瀬能も嬉しそうに顔を綻ばせている。後で怒られようとも、やっぱり誘いに来てよかったと思って自然に笑みが零れた。
狭間山は結構近いので、女の足でもそんなに時間はかからない。視界一面が赤か黄色に覆われるような気すらする道を歩きながら、広場になっている場所を目指して歩く。ひらひらと落ちてくるイチョウに柊と瀬能は楽しそうに笑っていた。なんだかこういう雰囲気が、羨ましい。自分は安らかに楽しく、純粋に紅葉を見たことがあっただろうか。考えたって、思い当たることなんてないはずだ。初めから聖は薄汚れていたのだから。
「紅葉、綺麗ですね」
「そうですね。やっぱ誘って正解だった」
「最近の瀬能様もお疲れだったみたいですしね。私たちまで連れてきてくれてありがとうございます」
「一人も三人も変わりませんから」
少し先に行く兄妹の背を見ながら聖は美月の遅い歩調にあわせて歩いた。一人の護衛も三人の護衛も変わらないのは本当だし、今は怪しい話も聞かないから武器を持ってないけれどおそらくは大丈夫だろう。いざとなったらあの時のように素手でも戦える。もともと聖は素手の方が得意だ。
そういえば、もうあれからずいぶんな時間がすぎた。瀬能がここで襲われたのはもう一年半前ほどになるだろうか。よくここまで頑張ったと思う。まだ右も左も分からないし花火を見たこともなければ紅葉狩りをしたこともない子どもだったのに、その背に国という大きなものを背負ってしまった。
「聖、すごいな!空が真っ赤だ!」
「……あぁ、綺麗ですね」
見上げれば、紅葉がはらはらと降ってくる。その赤は酷く鮮明だった。赤。それは人の血の色。命の色だ。聖にとっての赤は人の命か、女の唇。その二つでしかない。だから赤い色は好きじゃあない。けれど瀬能はそれが綺麗だという。
綺麗ですねという声は、震えてはいなかっただろうか。聖は意識して声を絞り出したけれど、声は上擦っていなかっただろうか。自分の穢れが気づかれなければいい。無意識に偽物の笑顔を貼り付けて、聖は笑った。それを美月が複雑な表情で見ていることには気づかない。そこまで気を使っている余裕がなかったというのが本当のところだ。
「兄上!こちらもすごいですよ!」
柊が一際はしゃいだ声を上げる。その先を視線で追っていくと、広場についていた。一面が風で運ばれてきた黄色と赤のじゅうたんに色を変えていて、真ん中に鎮座する桜の木は渋い赤に葉を染めて立っている。駆け出した子どもを追うように瀬能も駆け出し、聖は美月と共にそれを見送って桜の根元に腰を下ろした。美月のために軍服を地面に敷いたけれど断られたので、再び袖を通した。
「聖さん、綺麗ですね」
「……そーですね」
「なんだかつれない返事」
「なんか、眠くて」
ポケットから煙草を取り出して、無造作に口で飛び出した一本を銜える。火を点ける前に目を瞬かせて聖は答えた。隣に座る美月は仕方なさそうな顔をしたけれど「ちゃんと布団に横にならないからです」と文句を言われた。確かに執務室にいるときはソファで寝ているけど、聖は月の半分以上は花街の布団にお世話になっているようなものだからそれが理由じゃあない気がする。けれどそれを美月に伝える必要はないから曖昧に笑った。火を点けて、眠気を逃がすように紫煙を吐き出した。
「そうだわ、笛を吹いてください」
「笛ぇ?俺、笛は……」
「私知ってますよ。聖さん、笛がとてもお上手だわ」
生憎笛は吹けないんです、と言おうとしたけれどその作戦は見事に失敗した。確かに家で吹けばいくらでかいとはいえ聞こえてしまうかもしれない。だから聖は苦笑して持ってませんよ、と小さく呟いて両手で降参を表すように軽く肩を竦めながら手を上げた。
本当は、持っている。ここ数日ずっと一人で出かけるか瀬能を誘うか悩んでいたけれど、結局ここに来ることは分かっていたから笛は持ってきている。けれど聖はその音色を他の人間に聞かせるつもりはなかった。せがまれて吹いてやれるのは惣太くらいなものだろうか。聖をすべて受け入れられる人間にしか聞かせない。汚いところも弱いところもすべて真正面から見てくれる人間にしか、聖は吹いてやろうと思わない。それは絶対的な人間関係に似ている。だから瀬能には聞かせられない。彼に弱いところを曝け出すなんて、できるわけがなかった。
「聖は笛が吹けるのか?」
さっきまで柊と遊んでいたのに、瀬能が急に顔を覗き込んできた。紫煙を深く吸い込んだところだったので危うく吹き出しそうになってしまった。どうにか上を向いて細く吐き出すことには成功したけれど、なんだか驚きすぎて心臓が煩い。聖が答える前に、美月が嬉しそうに笑った。
「えぇ、瀬能様。聖さんはとってもお上手なんですよ」
「ぜひ聞きたいな」
「また今度、笛があるときに」
期待の目を向けてくるからありきたりな返事を返したけれど、聖には彼に吹いてやる気はこれっぽっちもなかった。瀬能に自分の汚いところもみっともないところも見せるつもりはない。彼の目にはいつだって頼りがいのある男でいたいから。そういえば、惣太に初めて聞かせたのもひどい喧嘩をしてぼろぼろになったときだった。そろそろ鉄五郎にも聞かせてやっていいかなと、心のどこかで思った。
「……ねむ」
「いい天気ですものね」
「美月さん、膝貸して」
「ふふ……どうぞ」
欠伸をかみ殺して、煙草をもみ消す。ずるずると木の幹に預けていた背を美月の方に傾げてこてんと額を預けた。美月が笑って膝を叩いてくれたので聖は遠慮なく美月の膝に頭を預ける。そのまま本能のままに目を閉じるとすぐに心地いい眠気が迎えに来る。小さく欠伸をして、身体から力を抜いた。
そっと頭を撫でられて、聖は眼を開けようかと思ったけれど本能がそれを拒絶した。すぐに動かそうと思っても体は動かなくなる。顔が少し寒くなったから、きっと美月が覗きこんできたのだろう。目を開けられないから分からない。
「……美月殿はいつもこういうことをしているのか?」
「こういうこと?」
「聖に、膝枕……とか……」
覗き込んできたのは瀬能だったか、と聖は薄く目を開けた。彼の前で無防備に眠っていられない。けれど美月は聖のそういう性格も分かっているから、聖の頭を慈しむように撫でる手を止めない。それが心地よくて眠いけれど、聖は眠れない。
少し上気した頬の理由は聖の寝顔か、それ以外か。判断はできないけれど、もしかしたら去年酔った勢いに任せて膝枕を強制させてしまったことを思い出しているのかもしれない。
「聖さんが帰ってきたときは、よくしますよ。姉弟ですもの」
「姉弟でも……」
「瀬能様だって柊様になさるでしょう?それと同じですよ」
納得したんだかしていなんだか、ひどく曖昧な言葉を瀬能は呟いた。瀬能としては成人した男女がこんなにも密着したらいけないというのだろう。けれど、聖と美月は誰がなんと言おうと姉弟だ。変な感情なんて微塵もないのは昔から。初めて会ったときから彼女は姉で聖は弟だった。その関係が今も続いているから、今も家に帰れば一緒の部屋で夜を明かすことすらある。ただ他愛のない話をして、気がついたら朝が来ている、そんな関係。
「私は聖さんにとっては特別なんです。たった一人のお姉さん」
「『特別』……」
歌うように言った美月の言葉は、途中だけすっぽりと瀬能が切り取った。確かに美月は聖にとってたった一人の姉で特別だ。お互いにお互いを特別だと言い続けてもいる。けれど瀬能がそれを気にするところじゃあない。その特別はきっと、違う意味の特別だ。
「瀬能様だって柊様にとっての特別ですよ。そして、聖さんにとっても」
「……聖にとっても?」
「えぇ。聖さんを信頼してくださる領主様ですもの」
「…………そうだな」
瀬能の声が、低く沈んだ。聖は違うと言いたかったけれどそれが言葉にならず、薄く開かれた唇から細い息だけが吐き出される。いつもなら気配を感じただけで目を覚まして動けるのに、どうしてか今日は瀬能に弁解することができず起き上がることすらできない。
結局、聖は瀬能が傍を離れるまで起き上がることができなかった。長い狸寝入りを終えて少し痛む頭を持ち上げて、意味深な笑みを浮かべる美月に嫌な予感が胸をよぎった。
−続−
シスコンブラコン姉弟です。