美月の笑みの理由を問わず、紅葉は散った。そろそろ雪もちらついてくるかもしれないと思いながら、彼女にその理由も聞けないで聖は日々をぼんやり過ごした。大きな事件もなく過ごす平和な日はいいことだと瀬能のところに顔を見せたり道場に入り浸ったりしているが文句を誰にも言われない。
「聖さん、定例閣議の資料届きましたよ」
昼食を外でとって帰ってくると、吉野が本から顔を上げて机の指を視線で示した。聖の机の上に乗っているのは毎回定例閣議の前日までに届けられる資料で、これを見てから定例閣議に臨むため閣議中は眠気に耐えるので精一杯になってしまう。いくら閣議が嫌だと言ってもさすがにこれを読まなければ仕事にも差し支えるので、コーヒーを自分で淹れて席に着いた。
「なんかあったか?」
「そうそう、詰所の壁が凹んでます」
「テメェらで始末させろ」
留守中に何かあったかと問えば、どうでもいいことを報告された。おそらく自分たちで破壊したのだからそんなもん自分で直せと不機嫌に吐き捨てて、資料を手に取った。机の上に煙草とライターを無造作においてぺらりと捲る。はじめからザラッと目を通しながら煙草を掴み、底を叩いて一本を口の端で引き出す。けれど火も点けずに銜えたままで。
「煙草代あげるだぁ!?」
「聖さん、うるさい」
「ふざっけんなっつーの」
法部の報告を読みながら聖が声を上げるのを吉野が邪魔そうな目でちらりと見た。けれど特に興味がないのですぐに本に目を落とす。口の中で文句を言いながら煙草に火を点け、手でパタパタと机の上を叩いてペンを探す。指で触れた赤ペンで乱暴に線を引いた。ここはあとで法部に文句をいいに行くとして、紫煙を吐き出しながらページを捲る。
祇部の報告は特にいつもどおりだし、教部も人事部も医部もいつもと変わらない。けれど、民部のページで目は留まった。珍しい文字の羅列に聖の目が細くなる。
「商人が減ったのか……。吉野、お前これ読んだか?」
「何です?」
「入ってくる商人が減った。おかげで物価が上がってる」
民部は国内の物流を管理している。他国からの輸入や輸出の状況が毎回簡単な表にして載せられているが、これははじめて見る数字だ。他国から入ってくる商人の数が激減している。これは何か対応策をとらなければ物価が急騰して大変なことになる。まずは塩だな、と聖が口の中で呟きながらページを繰る。煙草代がどうのと言っている場合じゃあないようだ。
外交部のページになると、逆に妙な報告が上がっている。減った商人は臼木のそれらしいことと、芳賀から援助の申し出があったらしい。おかげで助かっているようだけれど、何かがおかしい。どこかがかみ合いすぎている。
「そうだな……、民部に行ってくる」
「聖さん。うちのページに目を通しました?」
「うち?」
煙草を灰皿に押し付けて立ち上がった聖に、吉野がようやく本を閉じた。軍部の資料は吉野が作っているけれど、そのすべての情報を聖は耳に入れている。今更目を通してもしょうがないだろうと思いながらページを開くと、改めてみただけに驚いて瞠目する。竜田国の北に位置する松井田で内乱が起こっているらしい。あまり関係ない話だと聖は北の警備に気合を入れさせただけだと止めたけれど、こうなればうっすらと別の図案も浮かんでくる。
すべては、繋がっているのかもしれない。
「岩浅の動向集めとけ。それから東の警備に変な気配したらすぐ通達させろ」
「分かりました。民部へ?」
「その後にたぶんみんなで一緒に領主のお部屋へ」
さっき出したばかりの煙草とライターをポケットにねじ込んで、聖は資料を丸めつつ部屋を出た。その背を吉野が見送って、溜息を一つ吐き出す。扉が聖の姿を隠してから、吉野は厳しい顔をして机から書簡の束を取り出した。
三階に上がって民部の執務室に向かう途中で、ばったり佐竹に会った。丁度彼も向かう途中だったようで深刻な顔をして資料を握り締めていた。聖は少し顔を綻ばせ、彼に煙草代の値上がりについて文句をいながら目的の部屋に行く。行くまでに判明したのだが、煙草代が上がるのはこの物価上昇に伴ってということらしかった。つまり、この状況を解決すれば元に戻るのだろう。
軽くノックして中に入ると、既に外交部の長がいた。彼らはすでに深刻な顔をしてぼそぼそと話し合っていた。聖と佐竹の訪問に気づいた初老の民部長官は、優しげな顔を更に綻ばせて微笑む。細い目が更に細くなり、開いているのか聞きたい。
「おや、お二方」
「おそらく用件はそっちの人と一緒です」
「では、場所を移しましょうか」
おそらく初めからそのつもりだったのだろう、彼はここでは狭いからと言って領主の部屋に移動すると言った。そこには真坂もいるだろうし、総督である角倉の姿もあるだろう。最近顔を合わせていない父親がいることを思うと聖の足取りは重くなる。おそらく煙草も吸わせてもらえないから、できれば会議室を使いたかった。
四人で連れ立って瀬能の部屋に行くと、思ったとおりすでに真坂と角倉はソファに体を沈めていた。部屋の空気がものすごく重くて踵を返したかったけれど、その前に瀬能とばっちり目があった。
「やっと揃ったか」
「閣議の前に報告させていただきます」
おそらくみんな思っていることは同じだろうけれど、改めて民長官が口を開く。各々が開いているところに腰掛けるのを彼は待っているけれど残念ながら角倉の隣しか開いていなかったので聖はその場にしゃがみこんだ。彼の隣に座るくらいなら床の方が何倍もいい。当の男は視線も向けてこないし、ここにいる人間はだれも分かっていたことだから何も言わない。ただ瀬能だけが物言いたげに聖を見つめた。
瀬能の視線に微笑み返してから、民長官を見る。全員の視線が集まってから彼は再び口を開いた。
「商人の数が減ったのは臼木ですが、岩浅から入ってくる物価が高騰しています」
「何か因果があると?」
「断定はできません。ですが、時機が同じというのはそういうことかもしれません」
「それを結ぶのなら松井田の内戦も結べるが、それについてはどうだ」
「現在調査中ですが、おそらく無関係ではないと思います」
各長官が自分たちの領分からはみ出さずに質問に答え、現状を報告する。本来ならば質問するのは領主であるはずだけれど、瀬能は話についていくだけで精一杯なのか、先ほどから角倉と真坂だけがその役割を果たしている。松井田の内乱なんて起こるまで気づかなかったし、どこかの国と揉めている話も聞かなかった。あまりにも突飛だったから内乱と判断した部分すらある。けれどこれを一つに結ぶと、綺麗な絵がかけることも事実だ。
ここにいる全員がその可能性に気づいている。けれど大きすぎるそれに半分も信頼は置けなかった。最悪の場合の予想にそれは似ている。ただ瀬能だけが分かっていないようで、泣きそうな顔で周囲の顔を見回していた。
「芳賀から援助の申し出があったそうだな」
「はい。ただ時期が時期なので、少し早すぎるきらいもありますね」
「その申し出を受けるべきかは明日の閣議で結論を出すことにしよう。各自、再検討をしてくれ」
報告さえ終わればすべて明日だとばかりに角倉が表情を微塵も変えずに低い声で言った。それを聞いて全員が頷くけれど、聖だけは唾でも吐き出しそうな顔をして目を逸らすだけにした。おそらくこれから三人で話し合いでもするのだろう。瀬能の仕事だけれどこの二人と顔をつき合わせているのは相当大変だと思いながら、聖は逃げるように執務室を後にした。
執務室に戻ったけれど、佐竹が一緒にくっついてきた。なんでも副官が仕事をしろと怒っているらしい。聖も似たようなものだけれど戻ると、吉野はわりと忙しそうにしていた。おそらく松井田の資料でも集めているのだろう、部屋には小田原の姿もあって少し意外だった。無意識に惣太と鉄五郎の姿を探すけれど、そう言えば彼ら二人は今日は休みだということを思い出す。
「早かったですね。おや、佐竹長官いらっしゃい」
「なんで秋菜ちゃんがいんだよ」
「秋菜ちゃんていうな。岩浅の資料を持ってきたんだよ」
「仕事が早いな」
からっと聖は笑みを浮かべるとソファに腰を下ろしてポケットから取り出した煙草を銜えた。深く吸い込んだ紫煙を吐き出して、小田原の報告を聞く。聖の正面のソファに腰を下ろした佐竹にお茶を出しながら吉野も顔から表情を消した。
以前から、岩浅の行動はおかしいと思っていた。常に臼木が動いてその後に動き出しているように見えなくもない。この図式に当てはめれば、おそらく以前流れた角倉謀反の噂の辻褄が合ってしまう。小田原の説明は、それを裏付けるものだった。目的は分からないけれど、やることだけはおのずと見えてくる。
「きな臭いなぁ」
「俺たちはみんなきな臭ぇよ」
苦笑交じりの佐竹に鼻で笑って、聖は紫煙を吐き出した。いくらきな臭い、野蛮だといわれようともそれが聖たちの仕事だし存在意義だ。だから、まずするべきなのは現状把握と戦の準備。深く紫煙を吸い込んでちりちりと灰になっていく先端を見て目を眇め、紫煙を吐き出した瞬間にノックの音が響いた。
はい、と吉野がいつものように応答する。ノックなら惣太たちじゃあないなと灰皿に長くなった灰を落としながらドアに目をやると、瀬能が立っていた。
「ちょっといいか?」
「どうぞ。汚いところですけど」
「おや瀬能様。真坂殿や角倉殿に絞られでもしましたか?」
「そ、その前に逃げてきたんだ……」
少し疲れているように見える瀬能に座ってもらい、聖は灰皿を持って自分の机に浅く腰掛けた。聖が座っていた場所が比較的綺麗だという理由で開けたのだが、瀬能は少し申し訳なさそうにしている。領主ならもう少し堂々とすればいいのにとも思うけれど、それが瀬能のいいところなのかもしれない。
「どうしたんです、そんなに疲れて」
「さっきの話、皆はわかっているようだったが私は全然分からなくて……」
「あぁ、それで」
まるで置いていかれた子供のように悲壮な顔をした瀬能に思わず聖は笑ってしまった。吹きだしたら睨まれたけれど、しょうがない。確かに領主としてそこは分からなければならないかもしれないけれど、瀬能の場合絶対的な経験が足りない。それは補って補えるものじゃあない。笑いを収めようとしたけれど、子ウサギのような瀬能を見たら笑いが止まらなくなって聖は顔を逸らしてクツクツと笑みをかみ殺そうとした。
「わ、笑うな!」
「ごめんごめん……あ、髪焦げた」
一通り笑うと俯いたからか落ちてきた髪を煙草の火種が焼ききった。数本の髪が少し鼻につく匂いを発して落ちて行くのを見て、どうにか笑いは収まった。ちらりと吉野を見るともう仕事を始めるようで小田原に何か囁き、彼はすぐに部屋から出て行く。それを見送ってから吉野も道場へ行くと珍しく出て行った。
「じゃあ簡単に説明しましょーか。まず岩浅と臼木は何らかの繋がりがあって、岩浅の方が立場が低い」
「……そうなのか」
「そして芳賀は何らかの形で彼らに関与している。ついでに言うと、松井田も裏で圧力を掛けられている虞がある」
「誰にだ?」
「芳賀か臼木のどちらかでしょうね」
子どもが昔語りを聞くのよりかは真面目な顔で瀬能は聞いた。ただ考えるよりも発言の方が早く、帰ってくるのは子どもと変わらない発言。聖の話に頷きながらも彼の思考が回っているのか怪しいところだ。何の物価が上昇しているのかといえば資料には塩と鉄と記してあった。そのうち芳賀が援助してくれるのは塩だという。鉄の方は知らないのか知っていて知っているふりなのか、それによって彼らの立ち位置も決まるのだが巧妙に隠されている。
「それで、これからどうなるんだ?」
「戦になると思います」
「戦……」
「鉄が入ってこないって事は武器を作らせないってことだ。そっちは出るから対して問題はないが、塩は兵糧に欠かせないからな」
山に囲まれた竜田国は塩が取れない。常に他国に頼り国庫に貯蔵してある。聖にとって心底興味がない話だが角倉の所以はかつて塩を守る家柄だったと伝えられている。塩はそれほど大事なものだ。鉄が入ってこないということも、こちらの戦力だけを考えるのならば大した痛手ではないけれど、入ってこないということははあちらが集めているということだ。それだけで戦の準備だと匂わせている。
青い顔をした瀬能が泣きそうな目で聖を見たけれど、笑ってやることしかできなかった。彼が不安に思っていたとしても、戦を回避するのは聖じゃあない。
「戦にならない方法はないのか?」
「それは外交部に頑張ってもらわないと」
「……私は無力なのだな」
静かに呟かれた瀬能の言葉に、聖は返す言葉を見つけることができなかった。ただ戦になれば負けてやる気はない。そんなことが何の慰めにもならないと知りつつ、聖は彼に「護る」という約束しかできない。そんな自分が歯痒くてしょうがなかった。
−続−
これ、何の話?