定例閣議終了後は少し騒がしかったけれど、十日も過ぎれば通常に戻り本部も静かになった。年の瀬が迫ったことが原因かもしれないけれど、皆いつかも分からない戦よりも近く必ず来る正月に備えだした。ただそれも表面だけで、軍部は正月も関係なく仕事をするし外交部をはじめ関係各所は戦を防ぐために奔走していて正月どころじゃあなさそうだった。
 そんな折、寒風吹きすさぶ中軍部は年に一度の大掃除の日を迎えた。一年間乱暴に使った詰所を訓練も兼ねて兵士全員で掃除する。なので、朝っぱらから城下警備のために見廻りに出る兵以外は詰所の前に集合した。


「見廻りは忘れずに行けよー」

「倉庫と厩も忘れずにお願いしますね。それから、お昼は炊き出しですから頭使って取りに来てください」


 集合した兵に欠伸交じりに聖がそう言って、吉野が順番に取りに来いと付け足す。兵たちは各々が欠伸をしながらも元気に返事をした。その返事にまた聖が「元気だなぁ」とやる気のない声で呟く。吉野が彼の脇腹を突いて黙らせたのを見届けるようなタイミングで、兵たちが書く掃除場所へと散っていった。
 たった今起きたような眠そうな顔で聖は欠伸を何度も噛み殺しながらそれを見送り、全員が作業を開始するまで吉野と二人で黙っていた。二階から物を運び出したり蒲団を屋上に干したりとちゃんと分かっているようだ。誰が陣頭指揮を執るのかと思ったら、予想通り聖の古くからの舎弟たちだった。


「聖さん、行きますよ」

「……朝っぱらから」

「その朝っぱらから帰ってきたのは誰ですか」

「俺だけど。今日くらい昼まで寝かせとけよ」

「おやおや、どの口がそんなこと言うんですかねぇ」


 文句たらたらな聖に対し、吉野は微笑を浮かべた。あの閣議の後からまた週の半分も帰らない日が続いている。彼が何を考えているの変わらないけれど、聖にしてはずいぶん馬鹿みたいに考え込んでいるようだ。いい加減現実を見なければいけない時期に来ているというのに、聖はどうにか目を逸らそうとしているように見えた。
 ただ、吉野は彼を慮ってやれるほど甘くない。皮肉めいた笑みに口元を歪めスタスタと倉庫の方へ足を進めると、聖が少し遅い歩調で着いてきた。


「悪いな、親友」

「……悪かないですよ、親友」


 彼が何に対して謝っているのかはわからない。煮え切らない己の態度にかそれ以外か、けれど吉野はそのすべてを包括して悪くないと微笑んだ。その一言で何かが吹っ切れたのか、聖が吉野の隣に並ぶ。寝癖の残る髪を掻き揚げて落ちてくる髪を耳にかけ、ポケットから取り出した煙草を銜えて火を点けた。そうして、中に燻るすべてを吐き出すように一度深く紫煙を吐き出す。
 倉庫には主に武器が収納されている。その関係で軍部の管理下にあり、今回の掃除対象になっている。詰所から館の前を通って武器庫に向かうには一直線だけれど、聖はその間に珍しいものを見つけた。


「瀬能様」

「あ、あの……」

「どしたんですか。朝っぱらからこんなところにいるとまた怒られんぞ?」

「……一緒に行ってもいいだろうか」

「はい?」

「戦の準備をするんだろう?私も……見たいんだ」


 瀬能の申し出に吉野は驚いて目を見開いた。まさか貴族が、それも領主がそんなことをしたいと言い出すとは思わなかった。貴族なんて現実には目を瞑って安全な場所から数字だけをみて勝った負けたと一喜一憂するだけの人種だと思っていた。先の戦でも、死者の数を相手よりも多い少ないと見積もって喜んでいた。それが吉野はひどく気に入らない。
 聖も同様に一瞬驚いた顔をしたけれど、瀬能の表情が真剣だと分かると口元の笑みを排して彼を見、それからゆっくりと頷いた。


「意味、分かって言ってるんだよな」

「もちろんだ」


 真剣に問えば、真摯な声が返ってくる。彼は本気なんだ、と信頼できた。もしかしたらこの歳若い領主はすごい器の持ち主なんじゃあないかと、吉野はようやく彼を守るに値する人間のではないかと気づいた。
 倉庫までは無言で歩いていたけれど前後から楽しげな声が聞こえてくる。大掃除にはしゃいでいるのか真剣になっているのか分からないけれど、楽しそうで何よりだ。倉庫について聖は半分ほど吸った煙草を吐き出して踵で踏み消し、一度空を見上げた。


「師範、師範代。早くないスか、まだ終わってないですよ」

「分かってます。早く終わらせて報告」

「はい!」


 大将たちに気づいた兵が駆けて来て、まだ倉庫内の備品の点検は終わっていないと告げる。それらの作業を自分たちでやるつもりはなく、吉野は急がせるだけ急がせた。こちらは炊き出しの準備もあるし、その後に各武器の確認もしたい。もともと午後からの予定だけれど、早いに越したこともあるまい。
 終わるまでに炊き出しの準備でもと吉野が踵を返すと、聖はその場から動かなかった。背中に一つ、呼びかけがある。


「吉野。俺、厩行って来る」

「行ってらっしゃい。僕は炊き出しの準備を」


 最近馬にも構ってやれなかったと聖が笑った気配がしたから、吉野は苦笑して軽く手を上げた。早く戻って来いという意思を込めてそれを珍しくひらりと揺らし、聖が返事をしたのを待って元の道を辿って戻る。詰所に戻って、掃除している人間から何人か手伝いを選ばなければならない。
 結局吉野は惣太と鉄五郎を含む五人を選び、惣太に炊き出しの指揮権を任せて執務室に戻った。彼にもまだ仕事はたくさん残っている。










 厩に来るのは久しぶりだった。最近構っていない愛馬の前に姿を見せると、興奮して飛び掛ってくるような勢いで向かってくる。柵があって本当によかった、なかったら死んでたかもしれない。まずマミを一度抱きしめてから瀬能に触ってみろと促し、聖自身はアミを撫でた。すごい勢いで舐められる合間に隣を見れば、瀬能はこわごわと手を伸ばしている。

「馬触って硬直って……」

「わ、笑うな!」


 緊張しているのか瀬能が悲鳴のような声を上げた。マミが舐めようと舌を伸ばしたら途端に噛まれるとでも思ったのか手を引っ込めて、その姿に思わず笑う。「噛まねぇよ」というけれど瀬能は涙目になって睨んできた。じりじりと交代する彼を見てまた笑いがこみ上げてきて、かろうじて噛み殺して笑う。アミを離してマミに手を伸ばすと、さっき同様すごい勢いで舐められた。ベタベタになったので一度シャワーを浴びなければだめだ。


「聖は馬にも人気があるのだな」

「何だそれ、厭味か?」

「べ、別に……」

「それで?今回こんなところまでこようと思ったのはどうしてだ?」


 少し拗ねたような声音で言う瀬能をからかったら、顔を逸らされた。本当に厭味だったらよかったのに、と心の中に去来する想いがある。女みたいに本当にそういう風に厭味を言ってくれたら嬉しいのに。まだ彼の心が読めない。
 ここらが潮かと、聖はマミの首に腕を回して撫でながらちらりと背後の瀬能を窺った。ビクッと震えた肩と何かを言おうとする口に少し時間を与えるけれど、猶予はそんなにない。


「あの、その……」

「止められたんじゃねぇの?」

「止められたけど、でも……見たいと、思った」


 瀬能よりも先に言葉を提示してやると、彼はゆっくりながら言葉を選び出す。けれど選んだその言葉は、聖が望みながらも畏れていた言葉だった。
 確かに瀬能はいろいろなものを見たいといっていたし、領主として経験は必ず役に立つ。けれどこの場合だけは例外だ。一国を納める人間がこんな血なまぐさいところに出てきてはいけない。彼は現実世界を知ってはいけない。ここは、聖の領分だ。


「私は領主だから、聖たちが戦ってくれるのを見届けないといけなくて……。だから、戦ってくれる人たちをちゃんと見ようと思ったんだ」

「うん」

「ちゃんとこの目で見ないと分からないことはたくさんあるって分かったから……」


 丁度草を干してきた兵たちが戻ってきたのでそれを頼み瀬能の手を取って厩から出た。近くの壁に背を預けて煙草を引き出しながら瀬能にも座るように手で指示する。隣を指したのに、聖から離れたところに背中を預けた。間にある人一人分の距離は、聖と瀬能の間にある絶対的な何かだろうか。それとも、たった今遠くなった信頼だろうか。
 一度紫煙を吐き出した聖は、空を見上げたままゆっくりと口を開く。


「もう戻れよ」

「え……?」

「お前はここにいたらいけない。貴族らしく机で考えてろ」


 自分の声ながら妙に冷たく聞こえた。それに自分で自嘲の笑みが浮かぶ。こんなに突き放すことはないだろうに、彼のために突き放さなければいけないような気もする。隣の瀬能の姿を見ないように、聖は目先の火種だけを見るように意識して言葉を続けた。


「こんなところ、見る必要もねぇだろ」

「聖……?」

「ここは俺の領分だ」


 瀬能が息を呑んだのが空気の振動で伝わってきた。優しい言葉をかけそうになるのをどうにか堪えて、紫煙を変わりに吐き出す。どうしてこう、何もかもが上手くいかないんだろう。沈黙が苦しいけれどそれ以上聖が搾り出せる言葉もなく黙っていると、瀬能が何も言わずに踵を返した。それを追わず言葉もかけず、彼の姿が消えるのを待つ。角を曲がった瀬能の足音が遠くなってから、聖はやっとゆるゆると息を吐き出してその場にずるずるとしゃがみこんだ。


「……ほんと、信じらんねぇ」


 マミがその姿を見たのか、一度嘶いた。けれど顔をあげることもできない。地面に座り込んで、吸った気のしない煙草を横の地面に押し付ける。
 どうしてこうも不器用なんだ、俺は。後悔とも懺悔ともつかない言葉が渦巻き、思考を乱した。領主は人を人としてみるべきではない、国全体を守るのが仕事なんだからそれらを見ろ。そう言葉で言えばよかったのに聖は突き放した。取り返しのつかない事態にこのままアミにでも食われたくなった。


「師範!炊き出しの準備できました、よ……」

「……鉄。ごめんな」


 走ってきているとは分かっていた鉄五郎が、聖の姿を見て少し前で足を止めた。遠慮がちに用事を伝える彼に顔も上げずに謝罪を口にする。十中八九、臼木との戦は避けられない。鉄五郎を連れて行かないのは吉野と確認済みだったし、それは当日まで黙っているつもりだった。けれど思わず口をついたのは、弱っていたからかもしれない。


「な、にが……ですか?やだなぁ、師範。いきなり謝ったりして」

「臼木と戦なんかしたくねぇよな、故郷だもんな」

「そんなことないです!俺は師範について行くって決めたんだ!!」


 はっきりと鉄五郎のように自分の感情を表に出せればいいだろうと、この状況で思った。鉄五郎は半泣きになって走って行ってしまったけれど、泣きたいのはこちらも同じだ。この自己嫌悪を抱えて動く気にもなれず、聖はその場で唇を噛んで動かずにいた。暖かい日差しにいくらかうとうとしてしまったけれど、そう時を待たずに迎えに来た吉野に蹴り起こされてなんだか少し落ち着いた。










 自分の脇腹が青痣になっていることに気づいたのは、蒲団に入ってからだった。夕方に文句を言う吉野を無視して花街まで繰り出して、自分の中のもやもやしたものを吐き出すようにみどりを抱いたときに彼女に触られて気づいた。よほどきつく蹴られたのか広範囲で真っ青だ。けれど気にはならなかった。


「みどりさん、俺……」

「どうしたの?」

「どうしようもねぇんだけど」


 みどりを腕の中に抱いてうとうとしながら、聖は憂さを吐き出す。これはいつものことだから彼女も何かを察してくれただろう。何をとも言わずに吐息のように吐き出せば、彼女の手がそっと髪を撫でる。まるで母が子にするようなその仕草が妙に心地悪いのはそれをされた記憶がないからだろうか。
 ここは聖のとっての逃げ場だ。そんなことは初めからわかっている。みどりの指先が触れる感触が心地よくて、何かが解かされるようなこの感じが嬉しくて。やっと吐息と一緒に何かを吐き出せた気がする。


「大丈夫よ、みんな貴方のことなんてお見通しなんだから」

「好きな奴にばっかり素直になれないとか、格好悪ぃだろ?」

「惣太君だってそんなことないのに。まだまだ子供ね」

「そんなこと……」

「あるわよ。周りがフォローしてるんだから、余計な心配はやめなさい」

「余計じゃねぇと思うんだけど」

「貴方は十分いい男よ。そんなことより今は考えることがあるでしょう?仕事のできる男って格好良いわよ」


 囁くみどりに聖はうっすらと笑い目を閉じた。さっきまでぐるぐると胸の中を回っていたそれは収まっている。よかったと短く安堵の息を吐き出すとすぐに睡魔が襲ってくる。それに任せて、聖は眠りの淵に体を投げ出した。
 それから正月までは瀬能に会いに行かなかったから、誤解が解けているのかどうか分からない。解けていなければ気まずい思いをするだろうし、たとえ解けていても会いたくなかった。今はそんなことよりも、大切なことがある。外交部からの報告で戦回避が不能となった今、聖がやることは山ほどあった。





−続−

まだ戦しないんだ……