とぼとぼと執務室に帰ってきた瀬能は、中にいた柊の純粋に不思議そうな顔を見て泣きたくなった。「兄上?」と首を傾げながらも寄ってくる妹を抱きしめて、瀬能はやっと自分が固く拳を握り締めていたことに気づいた。自分でもその理由は分からなかったけれど、柊の体温を抱きしめてゆるゆると力を解いた。
 聖に言われたことの意味は分からない。けれど彼が起こっていることはかっきりとわかった。今まで聖に拒絶されたことも嫌がられたこともなかったから彼は何があっても受け入れてくれると思っていたけれど、違った。その事実が裏切りのように感じられるのは、聖が優しすぎるからだ。いままで瀬能に優しい面しか映さなかったくせに、急に引き離すからだ。そう、解釈しかしたくなかった。


「兄上?どうしたんですか?」

「なんでもない。柊、大好きだぞ」

「柊も兄上が大好きです!」


 柊をぎゅーっと抱きしめて、瀬能は自分が守るべきものを確認する。本当は戦争なんて反対だけれど、大切な妹を含めた自分の守るべき民を守るためならば仕方ないと、ようやく思い始めたところだった。
 しばらく柊を抱きしめていると、背にした扉がノックされた。三度叩かれた後に、扉は開く。きちんと手順を踏んでいるから聖ではないけれど、声をかけないから美月でもないだろうと判断して妹を放すと、意見者と総督が連れ立ってやってきたところだった。


「何をしてるんですか、瀬能様」

「いや、あの……」

「しかし早くお戻りになられて良かった。少しよろしいですか」

「……はい」


 なんだか意図を含んだ角倉総督の言い方に瀬能はこれは怒られると直感して柊に「これから大切な話をするから」と言って部屋から出した。さすがにこれから怒られるから、とはいえない。柊が行ってから瀬能は促されるままにソファに腰掛けた。向かいに意見者と総督が座るという完全に怒られるパターンだ。そういえば聖はこの二人と血が繋がっているんだよなと思ったら妙におかしかった。全然似ているところなんて、ないのに。


「瀬能様、何を笑っておられるんですか」

「いや、なんでもないです!」

「ならば引き締めてください。みっともない」

「……ごめんなさい」

「まぁまぁ、角倉殿。そんなに威圧するのはよしましょう」


 完全に気おされて俯くと、真坂が軽く取り成してくれた。この場では彼が味方なのかと少し嬉しくなって顔を上げるが、目に入った彼の顔は不敵な笑みを浮かべていた。この顔は、聖と血が繋がっているんだと納得できるものだ。角倉も甥にあたる真坂には強く出れないのかどうか知らないがふん、と鼻を鳴らして黙ってしまう。それでも彼から感じる威圧感は相当なものだ。


「瀬能様、先ほどまでどちらへ?」

「あ……聖の、軍のところへ」

「なぜですか?」

「戦は避けられないようだから……ちゃんと、知っておきたかったんだ」


 瀬能はせめて彼らには分かってもらおうと声に少し力を入れた。何も知らないと嘆いているばかりではなくて色々経験をつんでよい領主になろうと思ったし、それを聖は賛成してさまざまなところへ連れ出してくれたり経験させてくれたりした。その延長で、戦の準備を見に行った。自分の国を守るために戦ってくれる兵士とはどんな人物でどれだけの人がいてどんな装備で戦うのか、どんなことを思っているのか。それを知りたかった。けれど、聖はその気持ちを理解してはくれなかった。瀬能が領主として焦っている気持ちも知っているはずなのに、追い返された。あのときの彼の冷たい顔を思い出すと、涙が出そうになる。
 浮かんでくる涙を堪えて唇を閉め、瀬能はじっと真坂を見た。もしかしたら分かってくれと懇願しているようにも見えるだろう。けれど瀬能は本気だった。本当に国のためを思っての行動だった。


「瀬能様」


 はぁ、と大きな溜息は正直どちらから出たものか分からない。おそらくは角倉総督の口から零れた溜息に、彼も分かってくれないのかと顔を歪めて二人の顔を見比べたらどちらも似たような顔をしていた。それは、聖のそれにどこか似ている。口を開いたのは、角倉総督だった。


「瀬能様、いいですか。あんなところに行くべきではないのです」

「だ、だが……」

「貴方は領主だ。あれらとは違います」


 反論は許さない、とばかりに角倉総督は低い声で威嚇するように「違うのです」と繰り返した。何が違うのかも分からないしどう違うのかも分からない。納得できないことが表情にありありと出ていたのか、角倉は一度口を噤んで不満そうに瀬能を睨んだ。その視線だけで射すくめられて逃げられなくなってしまう瀬能は、怯えて助けを真坂に出した。
 彼はしばし考えるように天井を見上げていたけれど、瀬能が黙っているとゆっくりと瀬能の目を見つめた。


「瀬能様、聖にも同じことを言われたんじゃあないですか」

「言わ、れた……」

「角倉殿。今回はあいつも馬鹿ではなかったようですよ」

「今回だけだろう」

「それにしてもあの馬鹿はフォローと言うものができんのか」


 真坂が小さく言って、苦笑交じりのため息が漏れる。けれどなんだかその表情は柔らかくて瀬能が驚いた。確かに彼は聖肯定派だけれど、こんな表情もできるのかと驚くほどに幼子に向けるような慈悲に満ちた言い方だった。それに対して実の父親であるはずの角倉は苦々しい表情で黙っている。まるで、聖が正解を引き当てたことが気に入らなかったように。


「いいですか、瀬能様。領主というのは民を守るためにあるんです」

「そんなことは分かってる」

「では、一万の兵の意味は分かりますか?」

「一万人の兵士ということだろう?ずいぶん多いと思うが……」

「違います」


 質問の意図を測りかねて首を捻りながら瀬能が答えると、角倉がはっきりと答えた。こんなにはっきり否定しなくてもいいのに、とまさかに助けを求めれば、彼はひげで覆われた口元を歪めて「ある意味正解ですけど」と笑う。そんな真坂を角倉は睨みつけて、一つ咳をした。


「一万の兵士とは、一万の駒のことを言います」

「駒……?」

「たとえば貴方は、四千の兵と二千の民ならばどちらを助けますか」

「そんなの!両方に決まっている!」

「どちらかです。我々は兵を一人と数えてはいけない、一つと数えるんです」

「そんなっ」

「領主は駒を動かし選択するのが仕事なんです。今回は聖が正しいんです」

「真坂殿まで……」


 助けてくれるのかと思っていた真坂までそんなことを言うのかと、瀬能は涙目になって彼を見た。けれど彼の表情は動かない。民を守るのが領主の仕事だ。それなのに兵は民であって民でないという。そんな理不尽なことがあってもいいのかと再び何故と問うと、彼らは望んでそうなったのだと真坂が静かな声で答えた。


「それも聖の人望です。ではついでに質問です。聖の命と兵十名、どちらを助けますか?」

「十人だろう。戦力が違う」


 瀬能が考える前に角倉がひどく冷たい言葉で答えた。即答に答えに瀬能は驚いて彼を見つめてしまった。だって聖は彼の実の子供なんだから、もう少し考えると思っていたのに。瀬能だって確かに、十人だと思う。けれど聖だって失いたくはない。最後まで瀬能の味方として守ると約束してくれた彼は、いつの間にか瀬能にとってなくてはならない存在になっている。


「はずれです。聖はもはやその名だけで抑止力になります。十人なんてものじゃあないですし、そもそもあれがいなければ軍がまとまらない」

「ずいぶんあれを持ち上げるな」

「叔父上こそ、ずいぶんご自分の息子の実力を過小評価しているようですが」

「今はそんな話をしているわけじゃあない」


 茶化した真坂に角倉が厳しい声で告げ、瀬能に向き直ってふらふら出歩くことを怒られた。その中で領主としての心構えを説かれたけれど、瀬能は依然として納得いかなかった。聖だって兵士だって民で、瀬能が守らなければならないもののはずだった。










 戦の準備が整うと新年を迎えてしまい一時期すべての業務が停止した。けれどいつ戦が始まるか分からないので関係部署は公休といえど誰かしらが各地の動向を探っていた。特に軍部は休みに休もうと思う人間がいなかったようで元旦から道場で稽古をしている奴らまでいた。おかげで聖はそれに付き合うという名目で元旦しか帰ってない。
 正月の間に聖は各関所に書簡を送り、西には警備の強化を、南北には併せておかしな動きがあれば西に兵を動かす準備をさせた。東の兵を中央に戻し、中央にいる精鋭、諜報以外の兵をすべて東に詰めさせた。温泉でも満喫して色と言ったからおそらく文句はないはずだ。
 そうして正月が明け、聖は法部に顔を出して友人とそのままお茶をしていた。正月明けということでそんなに忙しくないのか、のんびりしている。


「お前、こんなにのんびりしてていいのか?」

「外交部が動いてるし、それ次第。今は待つしかできねぇよ」


 もうすぐ戦が起こるんだろう、と言外に佐竹に言われて聖は小さく息を吐き出しながら目を細めた。現在外交部では交渉で戦を回避しようとしている。おそらく無理ではあるだろうけれど、これが戦の引き金にもなるだろう。起こるのなら早く起こってほしいというのもあるので微妙なところだ。聖の見立てでは、春になる前か入ってからか、そのあたりだと思う。


「それで?その景気の悪い顔はどうした?」

「なんかさ、吉野が隠しごとあるみてぇなんだよ」

「筧副将が?」


 聖がずいぶんふてくされた顔をしていたからか、佐竹が迷わず訊いた。年末から吉野の様子がおかしいのはなんとなく感じていた。けれど年が明けてからいよいよおかしくなって、上の空の時間が長い。どうしたのかと問えば真顔で恋わずらいだと答えられたけれど信じられない。けれど彼に本当のことを言う気がなさそうなのでそれ以上問い詰められずにいた。
 それを佐竹に相談したら、彼は変な顔をしてお茶を含んだ。何かを考えるように沈黙し、そしてゆっくりと口を開いた。


「反抗期じゃあないのか?」

「いつもあいつ反抗期じゃん」

「そんなことないだろう。それを言うならこいつだって反抗期だぞ」

「私は反抗期じゃないです、長官がまともだったら従順です」

「な?」

「まだ可愛い方だろ」


 法トップのじゃれ合いを聞いて聖は大きく溜息を吐き出した。うな垂れてお茶を飲むと、副官が茶菓子を出してくれた。でもそれに手を出す気も起きずに湯飲みを置く。いつもなら軍部もこのくらいの掛け合いをするけれど、最近はこんな風にならない。声をかけても返ってくるのは生返事ばかりだった。


「そろそろ戦も始まるだろう。そんなんで平気なのか?」

「そこは平気なんだけど……気になんじゃん」

「何が気になるんだ?」

「何で相談してくんねぇのかなーって」

「ガキか」

「うるせぇ」


 吉野は何も言ってくれない。だから聖がやきもきすることも多いのかもしれない。聖としてはお互いに既に空気のような存在で、隠すつもりなんてないと思っていた。けれど吉野は、大切なことでも聖に隠す。聖だって何でも言うわけではないけれど、あえて隠そうとは思ってない。なんとなくその齟齬が心地悪い。
 聖がむすっと黙ると、突然に佐竹が立ち上がった。仕事をしている副官が顔を上げて胡乱気な目を上司に向けた。


「どこ行くんですか」

「酒買ってくる」

「何でですか!?」

「こいつに呑ませんだよ。腐ってるときは酒が一番!」

「そんなこと言って自分で呑む気でしょう!」


 ひらひらと佐竹は手を振って、部屋を出て行ってしまった。残された副官が溜息を吐く。うちもきっとこんな風なんだろうな、と他人の位置から見て聖は少し口元を緩めた。しばらくお互いに黙っていたら、聖が黙々と茶菓子を食べるのを待ったようなタイミングで副官は仕事を中断して口を開いた。


「角倉大将。私だって長官に言わないことがありますよ」

「…………」

「長官はそれだけ責務も大変な仕事ですから、必要以上の重責を与えていい気なんてしませんよ」


 もしかしたら佐竹はこれを狙って出て行ったのかもしれない。そして副官もグルなのかもしれない。長官がいないから言える副官の本音というものを聞かせてもらえるとは思わなかったから聖は黙っていた。ここで下手に声を出すとそれが壊れてしまうような気がした。だから無言で煙草に火を点ける。


「副官はいつだって上官のことを心配してるんです。筧副将もそうですよ」

「…………」

「私だってあんなこと言いながら長官のこと、尊敬してるんですから」


 笑った顔は、少し吉野に似ていたように見えた。なんとなくその優しい笑みに安心して、聖は紫煙を吐き出した。なんだか気が楽になったようななっていないような。所詮彼がそうだとしても吉野がそうだと言う保障はない。けれど、その可能性はあるから少しだけ安心できた。
 しばらく適当に雑談していると佐竹が帰って来て、結局二人で呑み出した。副官は笑っていたけれど夕方まで呑んでいたらさすがに怒って、吉野が迎えに来た。別に酔っているわけじゃあないけれど、怒って頭を下げる彼があまりにもいつもどおりだからやっと安心した。
 雪が一度降り二度降り、やがて溶けて梅の花が咲いた。それまではどこの部署も緊張感を持っていたが、桜の蕾がほころびだしたのを見計らったようにその緊張もピークに達した。外交部から水面下に掛けていた圧力の均衡が崩れた。正式に臼木から宣戦布告があったと公示される二日前、聖は精鋭を引き連れて東へと向かった。





−続−

聖さんと佐竹さんは仲良しです