これまで集めた情報から、吉野は一つ聖に黙ってことを犯した。おそらくバレたら烈火の如く怒るだろうが柳のように受け流す準備はきっちりできている。
 精鋭が東関に着いた日に漂っていたのはただならぬ緊張感だった。にもかかわらず到着した兵たちは士気を燃やした上で皆十分にリラックスして、開戦まで遊んでいていいかとまで言ってきた。いい傾向だと了承したけれど聖も吉野も東関の一室に篭っていた。もちろん温泉は満喫したが。
 東関到着二日目、西関から一人の男が到着した。それは丁度作戦会議中のことだった。


「何で良人が来るんだよ」

「僕が呼んだんです」


 ノックの後に入ってきた西関守護に置いた師団長がやってきたことに聖が低い声を上げたけれど、吉野が怯むことなく彼を招きいれた。本来関所守護の師団長を動かさないというのは暗黙の了解になっていた。周りがあまりにも不可解な行動を取っている状況で頭を動かしては利どころか害しか生み出さない。だからこそ聖がこちらに来た代わりに東の師団長は中央での雑事を任せたというのに。
 吉野は彼を招きいれて今まで二人で見ていた図面を覗かせた。戦闘領域になるであろう竜田山の地図には既に赤い印がいくつか付けられている。やる気がなくなったのかソファにふんぞり返って煙草を銜えた聖がひどく不機嫌に白煙を吐き出すのを見て、けれど吉野は臆すことなくそのひどく力のある瞳を見返した。


「作戦変更を提案します」

「却下。とっとと帰れ」

「では勝手に動きます」

「ふざけんな」


 明日あたりに開戦になろうと予想していたからこそ大まかな作戦は詰め終わっている。それを吉野は覆すと言い出した。それを聖が了承するわけもなく、返ってくるのは不機嫌な視線。けれど吉野にも譲れない理由があった。何を言われようと、今まで戦闘に関してはすべて聖のいうとおりに従ってきたけれど今度ばかりは折れるわけには行かなかった。
 だから、自分の荷物の中から今まで集めた資料のなかから必要なものだけをすっと抜き出して聖の前にばら撒いた。彼の手は煙草を吸うため以外には、動かない。


「芳賀から援軍の申し入れがあったことはご存知ですね。断りましたが芳賀方面は大丈夫でしょう」

「理由にならねぇ。ここはお前が守る、良人は必要ねぇだろ」

「もしものためです」

「意味がわからねぇ」

「臼木の動向が気になります。別働隊が必要かと」

「諜報がいる」


 なかなか上手い理由が見当たらなくて、思わず奥歯を噛んだ。これ以上の言葉が出てこない。けれどここまで来てなお聖に真実を話すことはできず、言葉を探して視線を泳がせた。
 本来の作戦は、吉野がここで全体の指揮を執り聖が精鋭を連れて前線に突っ込んでいくという簡単なもので、諜報が情報を得次第現場まで駆けその都度進路変更をする。本来大将は後ろに構えているなんて常識は竜田軍に通用しない。そもそもが人数が違いすぎる戦で常套手段をとっていたら勝てるわけがないというのが聖の言い分で、吉野もそれは納得したから今回の作戦を了承した。けれど、予想外のことというのはいつだって唐突に起こるものだ。そして、予測できるそれに対しては対策すべきだし、この優しすぎる男のために鬼になるのは吉野の役目だ。


「分かりました。僕の独断です、申し訳ありません」

「……俺も、ピリピリしてた」

「仕方ないですよ」


 聖でなくてもピリピリする。いつ開戦かと待ちわびるようなまだその時が来ないように祈るような妙な時間だ、これで気を張らないほうがおかしい。精鋭は上手く息継ぎをしているようだけれどやはりこの地は戦場となるのだ、緊張感は尋常じゃあない。
 吉野は微笑して、空気を変えようと窓を開けてからお茶を入れ替えた。せっかく来た良人は明日帰ってもらうことにして一緒に茶を淹れ再度作戦の打ち合わせを始める。幾度照らしても何かしらの見落としがあるような気がするが、今まではこんなことはなかった。やはり今回は、異様なのだ。


「それにしても、こんな大戦あれぶりじゃないですか。鉄五郎とか言うの拾ったぶり」

「あぁ、そういえばそうですね」

「なぁんか、作為感じません?」

「感じません」


 良人が何かを言い出したのを、吉野は間髪入れずに否定した。そうして聖を窺うけれど彼の視線はぼんやりと己が吐き出す紫煙を追っていて聞いているのか聞いていないのかも分からない。それにほんの少し安堵があ浮かんだけれど、聡い聖のことだ、何かしら感づいている可能性もある。
 最後にはっきりと他国と戦をしたのは確かに二年前、鉄五郎を拾ったとき。それからの間にあったのは国内の問題だけではなかったけれど戦の勘定に入らないようなものばかりだった。否、一つ微妙な位置にいるものがある。東関の反乱時にやってきた臼木。それに何かの意図があるならば、もしかしたら。
 その考えを打ち消すように、吉野は小さく被りを振って改めて地図を指差した。


「おそらくこの印の位置に兵力が置いてあると思います」


 そう言って吉野は主に良人に聞かせるために地図の赤い印を五つ指差した。この辺は地形の関係で人が隠れやすい。臼木の総戦力は七万であり、対する竜田には現在一万の兵力しかない。臼木とて全兵力を投入しはしないだろうけれど、兵力を分散しているおかげで竜田軍の兵力はおよそ五千しかない。あまり人数がいても邪魔だと聖が言うから、控えとして各地方に伝令があり次第半分の兵力を送るように指示した。
 そこを避けるようにして精鋭以下が攻め込む。定法として大将は最奥にいるから、奥に行けばいい。普段から五人程度の人数で動くようにしてあるから今回もそのつもりだけれど、だからこそ拭えない不安があった。


「諜報と情報を刷り合わせながらコースを変えて敵陣に向かいます。掃滅部隊を作る余力はありませんでしたから、ここを抜けられたら終わりです」


 突っ込んだ分の兵力しか持たないと吉野は言い、良人に作戦をすべて伝えた。聖と惣太に古参三名を加えた組を第一戦力と考えて、鉄五郎を外した。聖もそれには賛成したが、その理由は彼の優しさ。鉄五郎が元は臼木の人間だから戦いたくないだろうと懸念して吉野の補佐においていった。その方が確かにありがたかったけれど、吉野の思惑にはかすっていない。けれど、これでいい。


「おそらく開戦は明日か明後日になると思います。……聖さん?」


 そっと吉野が目配せしたとき、聖が半分ほどの長さになった煙草を灰皿に押し付けて立ち上がった。何も持たずに部屋を出て行こうとするんど声をかけると、気だるそうな彼は下ろしたままの髪に手を差し込んでかき回しながら振り返りもしないで欠伸交じりの声を返してきた。


「風呂入ってくる。それからおそらく開戦は今夜だから全軍に通達」

「……了解」


 なんだかアンニュイな聖の様子を見送って、吉野は一つ溜息を吐き出した。ソファでは同じく彼を見送った良人が眉間に皺を寄せたまま微笑している。何かいいたいことがあれば言えばいいのに、と吉野も微笑を返した。彼は軍に入る前から吉野が付き合ってきた友人で、表情は読みにくいが慣れてしまえば情に厚く統率力もある信頼のできる人間だった。だから、西の関を任せたしここにきてもらった。
 その彼はお茶を一口含んでから、地図をまじまじと見て一つ息を吐き出した。


「あれですか、大将には何も言ってない感じ?」

「えぇ」

「いいんですか?大将に黙って勝手に動いて」

「いいんです。それが僕の仕事ですから」

「いい人なんだか悪い人なんだか」

「頼みましたよ」

「そりゃ、もちろん」


 微笑の仮面をつけたまま吉野は話を打ち切った。武器などの最終確認等をすると良人一人を部屋に残し、出て行く。ことがどう転ぶか分からないのは初めからで、本来ならば第一段階で手を打てばいいだけの話だった。それに裏を掻いて二手三手と手を打ったのはまだ吉野自身がどう動くか迷っていたからだった。










 夕方、全員で食事を済ませて全兵力の四分の一を残して眠りに着いた。聖の予想では、宣戦布告は明日臼木からで今夜のうちに一度夜襲をかけられる。もともと兵力差があり、分かっているだけで四倍近くになっているようだ。自慢するわけではないが竜田の一兵はそこらの兵士の三倍は実力がある。だから兵力自体は互角で渡り合えるだろうから後は作戦が勝利を決する。それを念頭に入れた上で臼木は正々堂々と宣戦布告をしてくる前に夜襲をかける。理由は簡単だ、夜襲ならば自軍の消耗は少ない。


「……もったいねぇな」

「え?」


 もう夜も明けるという頃、ぼんやりと煙草を吸っていた聖が呟くと隣にいた惣太がきょとんと顔を上げた。まだ冷える夜に全員が軍服に得物を刺し、聖は珍しく髪をしっかりと結い上げている。彼の口元から燻る紫煙を追っていくと星のいっぱい出ている夜空よりも近くに満開の桜が咲き誇っていた。ちらちらと降ってくる淡い花弁は雪のようでもあった。


「桜、綺麗だからさ」

「聖、さん……?」

「どうせなら別の季節が良かったなって」

「……そうですね」


 落ちてくる桜は時に軍人にたとえられる。惣太はその表現が好きではない。潔く死ねと言われているようで好きになれない。死にたくなんてないし、綺麗に死んで欲しくもない。だからあまり春は好きではない。けれど聖は桜が好きらしい。春になれば飽きることなく花見をしているし、彼の生き方自体が桜にひどく似ていて怖くなる。
 このまま聖までもが散ってしまいそうで、惣太は思わず手を伸ばした。ちゃんと触れたのは、聖の軍服。急に手を引いたからか、聖が不思議そうな顔で見下ろしてきた。


「なんだよ?」

「な、なんでもないです」


 慌てて手を引いたけれどなんだか安心した。昼間吉野が変なことを言うからいけないんだと納得することにして、惣太も倣って空を見上げた。真っ黒な空を隠す桜の花片が炎に照らされて怖い色をしていた。
 昼間、吉野が惣太に真剣な顔で聖から目を逸らすなと言った。その理由も何もいつもなら教えてくれるのに今日は何も教えてくれなくて、妙に不安になった。だから聖のことがこんなに気になるのかと自分で納得したけれど、納得は不安を消してくれる訳じゃあない。


「秋菜ちゃん、お疲れ」

「だから秋菜ちゃんて言うな」


 聖が煙草を吐き捨てたのと同時に、男が気配なく現れた。惣太はものすごく驚いたけれど聖は気づいたのかにっと口の端を引き上げた。いつもよりも重い雰囲気でいつもどおりの言葉を口にしてから、小田原は目を細めて聖に近寄る。そうして、たった今見てきた臼木の動向を報告した。


「臼木側に動きあり。軍をまとめて動こうとしているようだ」

「結局夜が明けそうだけどな。読み間違えたか」


 深更のうちに攻めてくるだろうと思っていたけれど予想に反して敵方に動きはなく、夜が明けようとしている。それでもまだ春の空は暗い。聖の予想が外れたことになるけれど、小田原は至極当然のような顔をして聖の隣に腰を下ろした。足元に転がる数本の吸殻に眉を寄せるのを見て、聖の長い足がそれを踏み隠した。


「兵力は八倍、いくらこちらが一騎当千と言われようとも彼らは夜襲なんてかけたらプライドがずたずたじゃあないか」

「……まぁ、な」

「とはいえ、初めは夜襲をかける気満々のようだったけどね」

「いいんじゃねぇの。昼間でも夜中でもやることは変わらねぇ」

「それどころか動きやすくもなる」


 こちらは作戦上明るいほうが動きやすいだろうと小田原が笑ったがそれは確かに一理ある。それでなお聖の表情は硬い。何かを懸念しているのかどうかは分からないけれど、眉間に皺を寄せた聖はそれを解すように指で眉間を揉んだ。欠伸を一つ噛み殺したところで、別の諜報兵が駆け込んできた。


「たった今、臼木からの公式書状が通過しました」

「来たな。寝てる奴ら全員たたき起こして来い!」


 ここを通る文書は宣戦布告の文章しかない。それが来た以上こちらから仕掛けようともあちらから仕掛けようとも悪役はいないし、先制したほうが有利にことが進む。おそらくあの文が中央に届くのは太陽が昇るころだろう。それまでに全員の兵を起こして戦闘準備を整えるなんて簡単だ。聖の声と同時に半数以上の兵が駆け出して一方は仮設の詰所へ、一方は武器庫へと駆けていく。聖は傍においてあった愛刀を正剣帯に通すと一本の煙草を銜えた。


「とっとと終わらせて帰ろうな。まだ人事の書類も出してねぇし?」

「はいっ!」


 本部に宣戦布告の通達が到着するころ、軍はすべての準備を終えて整列していた。宣戦布告の内容は、臼木の内政に竜田が口を出したというものだった。それに対し竜田側は臼木との外交の変化を盾に自己防衛であると他国に主張した。
 その日の朝日が昇る時間、竜田臼木両軍が国境になっている山へと足を踏み入れた。兵力は臼木の四万に対して竜田五千という圧倒的不利な状況の中、戦いの火蓋は切って落とされる。魁は当然のように、大将を頭にした一組だった。





−続−

いい加減開戦しようぜー