その瞬間、一体何が起こったのかわからなくなった。ただ聖の顔から赤い何か飛び散って、その傍には血刀を提げた鉄五郎がいた。鉄五郎の肩越しに、少し距離を置いてここにいるはずのない吉野の姿と、その更に後ろにいる臼木の軍服を纏った人だかり。何が起きたかなんて、分かりたくなかった。


「怯むな、突っ込め!そこらへんにいる諜報は道探せ!」


 聖の姿がよろりとよろめき、それを見て惣太は我に返った。ギンと幸二はすでに聖と鉄五郎の間に立って牽制するように刀を構えている。けれど聖は彼らに向かって突っ込めと命じる。聖の命は絶対だけれど、彼を守るのが自分たちの役目。その狭間で迷った故に、判断が一瞬遅れた。再び振りかぶった鉄五郎に対して、ギンと幸二が慌てて刀を握りなおすが間に合わない。そう感じて惣太が駆け出した瞬間、鉄五郎が真横に飛び退った。彼がいた場所を、吉野の得物が貫いている。


「吉野さ……」

「全員、進みなさい!惣太君は大将と一緒に退却、ここは僕が引き受けます」

「吉野お前っ!」

「怪我人は黙りなさい!大将の負傷はくれぐれも漏らさないように、士気に関わります」

「は、はい!」

「ふざけんな……っ」

「足手纏いです。全員、とっとと動く!」

「聖さん!」


 最初に動いたのは、ギンと幸二だった。吉野にその場を譲るように、兵の薄そうなところに向かって突っ込んでいく。その背中に吉野が「予備兵が動員されたから気をつけてください」と投げかければ、頼もしい拳が振り上げられる。
 それを見送ってなお、聖はその場に留まった。惣太が彼の腕を引くけれど動かすことはできず、じっと鉄五郎を見ている。惣太だって、彼を見たかった。けれど見れば理由を問いただしたくなる。この場でそれをしたらいけないと、分かっていた。それは自分の役目ではなく、吉野がやってくれる。今惣太がやらなければならないのは、聖を無事に後退させることだ。


「鉄……なんで……」

「俺はもともとこっち側です。もう後がない、お命いただけますか?天才、角倉聖大将」

「聖さん!」

「……ちっ」


 再び鉄五郎が剣を構えるけれど、その間には吉野が神経を張り詰めて立っている。聖の小さな呟きなんて、聞こえても無意味だった。今までと違い、無邪気さの欠片もない鉄五郎の瞳が怖くなって、惣太は唇を噛んだ。惣太だって今まで戦場に立ち似たような目はごまんと見た。あれは、指揮官たちの人を人と数えない目だ。それを、ずっと隣で笑っていた年下の少年がするとは思えなかった。
 彼の口から紡がれた言葉の冷たさに、惣太は促すようにもう一度聖の名を呼んだ。今度は状況から退却をしたほうがいいと判断したのか、舌を打ち鳴らして聖が踵を返す。惣太も聖の前を走るために戦場に背を向けた瞬間、背中で刃物同士がぶつかり合う甲高い音がした。一瞬と待った足を、吉野の鋭い声に促される。


「行きなさい!」


 その声を背に、惣太は駆け出した。もともとここにいた兵たちを倒してきたからか、あまり兵がいない。それを幸いに全力で軍幕まで駈け戻る。傷は深くないのかもう血は止まっているようだけれど、聖の目はひどく苦しそうだった。ちらちらと周りを確認しながら、もと来た道をひた走る。時折飛び出してくるやつは惣太が倒した。
 もうすぐで東関にたどり着けるかと言うところで、背筋がひやりとした。反射的に刀を構えて辺りを見回すと、ものすごい数の気配がある。そういえば先ほど吉野が予備兵が動員されたと言っていた。足を止めて聖を見れば、彼もまた刀を構えて真剣な目をしている。それなのに心がここにないようで、惣太は少し怖くなってわざと聖の名を呼んだ。


「聖さん」

「周り、すげぇいるぞ。畜生ぬかった」

「どうしますか」

「……悪ぃな」

「は!?」


 妙な間を開けて、この場に相応しくない優しい声で聖がなぜか謝罪を述べた。何を言ってるんだと彼を仰ぎ見たけれど、聖の姿はそこにはなかった。視界の端に翻った軍服が、敵の壁に向かって突っ込んでいくのが見える。この場にいるのは聖と惣太で、その状況で大将が一人で突っ込んで行って勝てるわけがないのに。惣太が追いかけたけれど、追いつけるわけもない。
 吉野に頼んだといわれたのに。守れないなんて悔しくて不甲斐なくて、追いつけないと分かっていたけれど惣太は聖の背を追いかけた。もう何年もずっと、こうして彼の背中を追っている。目の前で敵兵と刀を交えた聖は、すぐに囲まれるだろう。いつまでも刀が交わらなければいいとさえ惣太は思った。けれど、その未来は訪れない。


「ご無事ですか師範!」

「ここ道開けます!」

「ここは俺たちに任せてください!」


 聖が刀を交える前に、その後ろから臼木の壁を割って竜田兵が現れた。予備の兵はいないと聞いていたから驚いたけれど、惣太は今度は止まらなかった。苦い顔をしている聖の手を引いて、そのまま開けてくれた道を突っ走る。聖の手を握って彼を引くように走るなんて初めての経験で、必要以上に心臓が激しく脈打つ。それはこれが今までにない状況からだろうけれど、少し誇らしくもあった。
 道を抜けると、そこが最終戦線だったようでほとんど人がいなかった。ところどころに衛生兵が立ってあたりを警戒していて、聖を見て皆一様に一瞬動きを止めていた。


「防衛ラインがあんなに上がんなよ……」

「でもそのおかげで俺たち逃げられたんですよ!よかった、帰ってこれて」


 軍幕が見えて、ほっと安堵の息を吐き出す。近くにいた衛生兵にはすでに大将負傷の情報が伝わっていたのか、そのまますぐに軍幕の中へ行くように言われた。そこには皇里がいるはずだからもう安心していいのに、惣太は図らずも不安になって走りながら聖の顔を見上げていた。そういえば、ここにいるはずの吉野がどうしてあそこにいたのだろうか。
 綺麗な栗よりもくすんだ長髪を今日は高い位置に括っていてどこからどう見てもいつもどおりなのに、左眼を潰すように皮膚が割れ、そこから真っ赤な血が垂れた形跡がある。もう固まってはいないけれど、頬を伝った血が軍服までもを汚している。
 軍幕の中に飛び込むと、空気がピンと張り詰めて漂っていた。軍医は慌しく動き回り、けれど入ってきた大将に、空気が一変する。驚きのような、憤慨のような。それは決して正の感情ではないだろうが負の感情でもないようだった。一番奥に、良人の姿が見えて惣太は首を傾げた。


「惣太、お前は無事だな!?」

「はい!聖さんが目を……」

「詳しくは治療しながらだ」


 皇里は有無を言わせずに聖の腕を引っ張ると、あいているソファに座らせてその前に陣取った。惣太はなぜ良人がここにいるのかとか、変わりすぎた状況についていけずにきょろきょろと辺りを見回す。聖もそうなのかもしれないけれど、彼は口を引き結んだまま黙って皇里に傷の手当をさせた。あるいは、彼はもう気づいていたのかもしれない。
 聖の傷を手当しながら、皇里は良人がここにいる理由を簡単に語り吉野が出て行った理由を話してくれた。元々吉野は、鉄五郎を怪しいと睨んでいた。だから事前に聖に何も言わずに自分が出て行く用意をしていた。身一つで出て行く無謀を皇里も咎めたが、彼もそれには耳を貸さなかったらしい。


「そこの机の上に吉野が調べた資料が置いてある。見てみろ」


 皇里に言われて、惣太は机にそっと近づく。そこでは良人が本来大将がやるべき仕事を片側して動かしていた。差し出された資料を持って聖の元に戻って彼に手渡すが、彼は受け取らなかった。しょうがなく惣太が目を通して必要な部分を声に出す。見たくなくても、聖はきっと知らなければならない。自分のしていることが残酷だとは思いながらもそれをやめるわけにはいかなかった。


「鉄が臼木の間者……」

「それを知っているのは吉野と俺と小田原と、そこの西関のやつだけだ。俺もさっき知ったんだけどな」


 あっけらかんと皇里が言って、不意に立ち上がった。治療が終わったようで綺麗にガーゼが左の顔半分に張られている。腰の刀をかちゃりと鳴らして、奇麗な顔を自嘲気味に歪めている。その目が、惣太には恐ろしく見えた。かつて見たことのある、あの冷たい目。獣のようなその眼に、慣れているはずなのに背筋が勝手に震える。
 けれど惣太はここで彼を行かせるわけにはいかない。ここに惣太がいるのはそのためだと思う。聖は今、ひどく不安定だから。


「その怪我でどこに行く気ですか」

「戻る」

「ダメです!俺が行きますからここにいてください!」


 きっと聖は、自分を責めている。一言も言わないけれど、鉄五郎の裏切りに気づかず吉野に勝手な行動をさせ、辛い思いをさせてしまったことに対してひどく後悔している。その必要はないのに、いつも彼は自分で全てを背負おうとする。少しくらい任せてくれてもいいのに、いつだって彼は一人で抱え込もうとする。
 だからこれ以上辛い思いをして欲しくなくて惣太は聖の前に立つと、彼は不機嫌な顔で惣太を見下ろした。一瞬怯みそうになるけれど、怯まない。


「どけ」

「嫌です!」

「どけっつってんのが分かんねぇのか」

「どきません!」

「聖、お前あのガキのとこ行く気だろ?」


 それまで黙っていた皇里が不意に口を挟んできた。聖と同時に視線を向けると、彼は眉根に皺を刻んで軽傷の兵を手当てしている。ギンと鋭い視線を向けてきて、滅多に見れないものであるから惣太は思わず聖の背に隠れそうになった。でも自分が睨まれているわけじゃあないからどうにか踏みとどまる。聖は怯むことなく、不機嫌に彼を見ていた。


「あれは俺のだ」

「違う!」


 皇里の問いに返した聖の答えは、やはり誰もが恐れたものだった。聖は気に病んでいる。後悔している。傷ついている。彼にこう感じさせないために吉野もみんなみんな動いてきたのに、それが水泡に帰してしまった。彼はあまりにも優しいからこんな風になって欲しくなかった。
 だから、惣太の口から勝手に言葉が飛び出した。その勢いに聖だけでなく皇里も驚いているけれど気にせずに背伸びして彼の胸倉を掴んだ。


「聖さんは悪くない!」

「惣太……?」

「だから……だから、責めないでください!」


 鉄五郎を拾ってきたのは聖。彼は疑うことをせずに仲間にいれ、裏切られた。彼を疑ったのは吉野。本来ならば自分がする仕事だったこと聖は責めているが、それはお門違いだ。それは吉野の仕事で、聖は笑っていればいい。吉野のその考えには共感できるから、惣太は泣きそうになるのを堪えて聖の隻眼を真っ直ぐに見つめた。少し滲んでしまって、睨むように見つめる。まだ彼の瞳は、冷たいままだ。それが不意に、緩んだ。


「分かった分かった。俺は平気だから、な」

「聖さん……」

「あいつらばっかりにいいとこ取りされたくねぇもんな?」


 ぽん、と彼の大きな手が頭を撫でるものだから、なんだか安心して手が離れた。ついでに堪えていた涙も溢れた。慌てて拭ったけれど皇里に見られてしまったようで彼は声を殺すように笑っている。彼を少し睨みつけると、なんだか大人の表情で笑われたから少し嬉しくなって惣太も聖と共に出て行く準備をする。聖は人数把握を正確にしておけ、と言い残して一度肩を回した。


「あ、大将」


 出ようとした出鼻を挫いたのは、ずっと黙っていた良人だった。今思い出しましたとでも言うようなその言い方に聖が億劫そうに振り返れば、彼はひどく曖昧な表情を浮かべている。聖が少し苛々しているのかポケットから煙草を取り出して火を点けるけれど、それがあまりにもこの場に合わないから少し気が抜けた。


「なんだよ」

「さっき特例出兵の通達だしちゃいました」

「……到着し次第防戦にして、今のラインを突っ込ませろ」

「あーい。大将、行ってらっしゃい」


 とてつもない重要事項をさらりと言ってのけた良人に聖は一瞬難しい顔をして紫煙を吐き出したけれど、二息ほどして何も言わずに対応を指示した。それに軽く手を振って、良人が笑う。半分ほどの長さのそれを吐き捨てて軍靴で踏み潰し、今度こそ軍幕を出た。眼の前に広がってた光景は、桜の下で激しく刀を交えながらも優勢にいる自国の兵たちがいた。










 ここはひどく静かだ。桜の舞い散る音でも聞こえてきそうなほどの静寂のなか、瀬能はじっと竜田山を見つめていた。あそこでは、剣のぶつかり合う音が響いているのだろうか。人々の喧騒で騒がしいのだろうか。以前、そこは瀬能の領分ではないといわれ、聖の世界を瀬能は何一つ知らないのだと思い知らされた。それでいいのだろうか、未だに不安が胸にある。


「瀬能様」


 避難しろといわれてから一時間も経っていないだろうに、再び角倉がやってきた。仕様のない子どもに言うような声音に、かつての父を思い出す。まだ瀬能が幼い頃、わがままを言って困らせたのと似ていた。
 彼を無視して外を見ていると、後ろに立った男は現在の状況を教えてくれた。現在は劣勢で既に兵の四分の一が重軽傷を負っているらしい。細かい情報はこちらまで伝わってこないけれど状況くらいは講和を申し込む可能性があることから伝えることが軍には義務付けられている。


「このままではこちらも危ない。お逃げください」

「……嫌だ」

「大将負傷の報も流れてきました。敗色が濃いのはお分かりでしょう」

「聖……聖は無事なのか!?」

「さぁ。そこまでは分かりませんが、士気は一気に落ちるでしょうね」


 淡々と角倉の語る言葉の中に、私情は一切感じられない。瀬能はそれすらももどかしかった。彼は聖の実の父親のはずなのに、こんなにどうして冷静でいられないのだろうと、自分が取り乱す変わりに考える。そうだ、美月は大丈夫だろうか。聖の負傷の報を聞いて動揺してはいないだろうか。あの二人は仲がいいから、心配だ。


「角倉殿は、取り乱さないのだな」

「なぜです?」

「聖は実の息子だろう!?」


 聖が大丈夫と言ったから大丈夫だと自分に言い聞かせながら瀬能が問いかけると、角倉は一瞬だけひどく心外そうな顔をして瀬能に再び避難をするように言った。どうして今ここに、だれもいないのだろう。せめて真坂がいてくれたら聖のことを擁護してくれるんじゃあないかとか、せめて柊でもいればこんなに泣きたい気持ちにならなかっただろう。残念ながら、妹姫は美月に預けて安全なところに移動させた。


「とにかく、ご避難を」

「嫌だ!」

「いい加減になさい!貴方は領主です、きちんと自覚していただかなければ困ります」

「聖は大丈夫だと言った!だから私はここで待つ!」


 角倉が声を荒げたのを初めて聞きながら、瀬能は怯まずに言い返した。確かに涙目になってはいたけれど、きちんと相手の目を見てはっきりと言ってやった。
 瀬能の意思が固いことを見て取ったのか、初老の男性はあからさまな溜息を吐き出してまるで信じられないとでもいいたいような口調で瀬能を見る。その眼はどこか瀬能を軽蔑しているような色すら含んでいるように見えた。聖と似ていない顔もその仕草も、けれど時折聖と似た些細な癖だとかがちゃんと聖の父親だと証明しているように見えるのに、特に本人たちが拒絶している。


「あの男の言葉を信じるのですか?」

「自分の息子の言葉を信じないのか?」

「あれの言葉など信じる価値もない。瀬能様もいい加減に目をお覚ましください」

「なぜだ?本当の親だろう!?」

「私はあれが自分の息子だと思った事はないのですよ。利用価値があるから手元に留めているだけに過ぎない、けれどその価値もなくなった」


 角倉の口から淡々と語られる言葉に、全ての言葉が出てこなかった。聖はそんな場所に立たされていたのか。いつもへらへら笑っている聖が実は胸の奥に抱えているものはとても大きいんじゃあないのかと、瀬能はふと気づいた。美月が聖と仲がいいからうまく行っているのかと思っていたけれど、そういえば家に帰りたがらなかった。こんな家に帰りたくないのは、分からないでもない。
 瀬能はきっと角倉を睨んだ。そうして、じわりと浮かんでくる涙を堪えてめいっぱい威嚇する。自分はあまりにも聖のことを知らなすぎた。そのせいできっとたくさん傷つけた。だから今だって、気まずいままだ。


「出て行け!私は聖を信じてる!」


 叫ぶようにそう言って、瀬能は窓枠をきつく握り締めた。帰ってきたら、たくさん文句を言ってやろう。そうして、ちゃんと感謝を伝えて聖の話を聞いて仲直りをしたい。だからどうか、無事で帰ってきてくれ。そう願いをこめながら、遠くの桜を眺めた。





−続−

今回惣太頑張ってます