ここ一一帯にいる兵士は全て殺した。自身が誰よりも血まみれになっていてなお、吉野は微笑を絶やさない。けれどその笑みは、決して普段見ることができないものだった。惣太ならなんと形容したのだろう。林田ならば地の顔とでも言ったかも知れない。微笑んでいるけれど、残忍な色をうかがわせるような笑みだった。


「初めから貴方は敵だったんですね」


 静かにそう問うたけれど、鉄五郎から返事はなかった。ただ、彼の目がそれを肯定している。今まで見たことのないような冷たい目は、ただの子どもができるものではない。おそらく出逢いから既に仕組まれていたものだっただろう。聖が彼を拾うことも計算されていたのか、拾わなかったら別の方法で潜り込んだのかまでは知らないけれど結果的に彼は間諜に入っていたのだろう。優しすぎる聖を、責めるつもりはない。
 鉄五郎の持つ刀が吉野からそれることはなく、小さく息を吐き出すと吉野はすっと自分の持っていた刀を無造作に捨てた。もうこれは使い物にならない、と己の腰に佩いている得物を抜く。そうして、鉄五郎に切っ先を向けた。


「一つだけ聞きます。聖さんのこと、少しは好きでしたか?」

「えぇ、好きでしたよ。あの馬鹿みたいにお人好しなところとか」

「それが聖さんのいいところですから」

「そのおかげで殺し損ねた」


 苦々しい口調で鉄五郎は言い捨て、「でも」と言葉を続けた。その続きなんて吉野はとうに見通している。
 けれどこれで全てが繋がった。言い知れなかった違和感も、否定しようとしていた事実の露見によって全てが整合性を持つ。鉄五郎が貴族しか参加できないとされている祭の内容をよく知っていることも、休日に姿を見ないことも聖の話をよく聞きたがったことも内部の情報を得ようとこそこそ嗅ぎまわっていたことも。すべて、聖を殺すためだった。そうして、それが叶わなくなってからは――。


「代わりに師範代の命を頂きます。天才の右腕、貴方さえいなくなればかの天才といえども殺すは容易い」

「あんまりあの人を舐めちゃだめですよ。それに、僕だってそう簡単にやられてあげるつもりもありません」


 薄く口の端を引き上げて、吉野は肩を落とした。それから、すっと刀を構える。
 正直、今回は無用心にも程があった。別働隊の編成もせずに単体で突っ込んだものだから雑魚処理に体力を裂いている。良人に応援を送るように頼んでおいたけれど、特例で来るのはまだ時間がかかる。けれど大将に真実を伝えればよかったかと言うと、それも間違いである。角倉聖はそうであってはならない。そうでなければ、聖は聖たり得ない。


「では、殺し合いといきましょうか。僕は手加減なんてしませんよ」


 にこっと笑って、先に間をつめたのは吉野だった。真っ直ぐに鉄五郎に突っ込んでいき、それに応じて刀が振り下ろされた刹那には真横に飛んでいる。そのままスピードを落とさずに、吉野は鉄五郎の真後ろに回りこんで刀をその細い首に突きつけた。たった一瞬の攻防だった。吉野にとって鉄五郎など取るに足らない相手だ。聖とて一瞬の下に斬り伏せられる。けれど彼は、あまりにもこの裏切り者に対して情を移してしまった。


「さぁ、ここからシナリオはどうなっているんですか?」


 おそらくこれ以上のシナリオはないであろうに、吉野はわざと問いかけた。臼木が描いたのはここで鉄五郎が聖を殺す絵図。標的を殺し損ねた挙句に副将に殺されるなんてシナリオはどこにも用意されていない。たとえここで殺さなくても、国に帰れば生きてはいられないだろう。臼木とは、そういう国だ。
 ならばせめて、ここで首を落としてやるのが一時の巣とされていた竜田の慈悲だ。薄く笑み、吉野はすっと刀を首に擦りつけた。


「吉野!!」


 突然に降ってきた声。それがここにあるべきではないもので吉野は顔を上げた。意識は鉄五郎のそのままに探った視線は、聖と惣太の姿を捉える。包帯で左眼をふさいだ聖が、痛々しい表情をしているのは見て取れた。どうして戻ってきたのかと聖に対する怒りと、良人と惣太、皇里になぜ来させたのかと言う怒りが湧いて、力の入った手が鉄五郎の首を薄く裂いて血を垂らした。
 駆け寄ってきた聖がそのまま鉄五郎に近寄るのならば惣太を一喝して意地でも軍幕へと戻すつもりでいた。ちょうど小田原もこの付近に戻ってきているはずだ。けれど、吉野の想像したどの行動でもなく聖は悲しい顔をしたままで刀を抜いて鉄五郎の喉元に突きつけた。


「なぁ、鉄……楽しかったか?」


 突然の言葉に鉄五郎も戸惑ったのだろう、けれどそのまま頷いた。その反応に聖の顔にあからさまな安堵が浮かぶ。そうして、彼はおもむろに切っ先を下ろした。すっと鞘に仕舞い、顎で臼木の側を指し示す。ポケットに突っ込まれた手は、おそらく強い力で握られているのだろう。それなのに、彼の表情はひどく柔らかかった。


「行けよ、どこにでも」

「………」

「こっちに戻ってきたかったらそれでもいいから……」


 惣太と吉野の非難の声が聞こえたけれど、聖はその言葉を撤回しない。吉野の意識が聖の方に移行していたのだろう、鉄五郎が首筋のそれを弾いた。我に返った瞬間には、踵を返して古巣の方へと駈けていく。その姿が木々の間から見えなくなるまで聖は何も言わなかったし、吉野も言葉が出てこなかった。
 ひどく静かだ。どこか遠くから聞こえてくる喧騒が殺し合いだとは思えない。はらはらと上から舞い落ちてくる薄紅色の花弁はまるで涙のようだった。


「聖さん……」


 惣太が心配そうに名を呼ぶけれど、返事はない。代わりのように聖の手が持ち上がって、落ちてくる花びらが彼の手のひらに納まった。ここだけ時が止まったようだった。聖が何を考えているか分からない。けれど声に出したら彼が消えてしまうような気がして、誰も言葉を発せなかった。
 その沈黙を破ったのは、たった一人の足音だった。


「たった今連絡が入った。戦闘終了、我々の勝利だ」


 やってきた小田原秋菜が、淡々と事実のみを伝える。それを聞きながら、聖は手を握った。手のひらに乗る花弁はそのまま彼の手に包まれ、けれど開いたときにはくすんで地面へと落ちていく。それが落ちきるのを待っていたように聖はポケットから煙草を取り出して、火を点けた。小田原に現状把握や今後の指示を軽く与えてから、ぽんと惣太の頭に手を置く。


「戻っか」


 彼が浮かべていた笑顔はひどく悲しげで、惣太の胸がきゅんと締め付けられて涙が出そうになった。
 周りを見渡せばおびただしい数の死体が転がっている。一体何人が命を落としたのだろう。何のために戦うのだろう。それが分からず、惣太は天を見上げた。薄紅色の空が、広がっている。










 戦闘が終了したと連絡があった。死傷者は大将を含めて兵の三分の一にも上ったそうだ。大将の安否はそれ以降の連絡を受けていない。特例出兵で出陣した兵たちは、現地についてみると戦闘が終了していたらしい。大将負傷の報で一気に士気が上がったらしいですよと先に帰還した諜報の兵に言われたけれど、瀬能の顔色は一層悪くなっただけだった。
 戦闘は六時間程度の短いものではあったけれど、その消耗はすさまじい。終戦式は今夜になるらしいから、終戦の報が着いてからは法部と外交部が忙しく走り回り始めた。


「聖……」


 東関では十分な施設がないために、兵士たちは激しい戦闘の後だというのに中央に引き返してきている。事後処理は特例出兵の兵たちに任せたそうで、太陽が沈むまえに大半の兵たちが帰還してきている。けれどまだ、聖の姿を瀬能は見ていない。はらはら舞う桜の下で、たった一人で待っている。


「約束、したじゃないか……」


 守ってくれるといったのに、いなくなったら守ることもできなくなる。そう呟いて、瀬能は唇をかみ締める。死傷者が全て帰ってこれるわけじゃあないことは知っている。動かせないほどの重傷者もいれば死者だっている。けれど聖がそれであるとは思いたくなかった。だから、こうして空が薄橙に染まり始める時間まで待っている。
 視界は悪い。桜が絶え間なく降ってきて視界も悪くさせるから、余計に気が焦った。遠くまで見通せないと、こんなにも不安になるのか。こんな状況で戦っていたであろう兵士たちを思うと瀬能の胸は潰れそうになる。


「聖……」


 不安をかき消すように、瀬能は聖の名を呟いた。彼の名前だけで僅かでも安心できるようになったのはいつからだっただろうか。聖、と自分にだけ聞こえるように何度か呟いた。はらはらと落ちてくる桜が、もしかしたら聖が帰ってくる前に散ってしまうんじゃあないかと思うほどに視界を隠していく。
 ザワリと、大きく木々が鳴った。不意に吹いた風に目を閉じて、それから開くと視界が薄紅に染まっている。桜を美しく思っていたのに、今日はそれが怖く感じた。聖が好きだという桜が、今だけは怖い。まるで聖までもを消し去ってしまいそうだった。


「聖……、聖!」


 視界が開けた時に、瀬能は道の向こうに青年の姿を見つけた。二人分の人影は黒い竜田の軍服を纏っている。彼らが近づいてくるまで瀬能は動くことも声を発することもできなかった。たった一度呼んだ声は届かなかったようで、彼らが瀬能の姿に気づくそぶりはない。
 長髪の青年の頭には包帯が巻かれていて、赤黒い血がこびりついている。負傷したとは聞いていた。無事でよかったけれど、ひどいのだろうか。彼が近づいてくるほどに瀬能の視界は歪んでいった。


「せ、のう……様?」


 お互いの距離がどのくらい縮まった頃だろうか、聖の声が瀬能の耳に届いた。涙を拭って前を凝視すれば、聖が小走りに走ってくるのが見えた。怪我をしているのに、そんなに気にしなくていいのに。近づいてくるほどに聖の軍服にこびりついた血がよく見えた。
 彼の後ろを副将が速度を変えずに歩いている。聖だけが近づいてきて、すぐに瀬能の前に膝をついた。それは家臣が領主にする正式な礼だった。


「瀬能様、ただいま戻しました」

「おかえり、聖」


 礼を解き立ち上がった聖に、瀬能は思わず抱きついた。見る見るうちに涙が溢れてきて、それを隠すように聖の軍服に顔を押し付けると鉄臭い匂いが鼻をついた。彼は瀬能のために人を殺した。その生と死の匂いを、瀬能は肺いっぱいに吸い込んだ。決していいものではないけれど、これは瀬能が享受しなければならない咎なのだと、言い聞かせる。
 ふっと頭に暖かいものが押し付けられた。髪を梳きながら動く仕草にそれが彼の手だと知れる。人を殺した手で人を愛す聖が、じんわりと愛おしく思える。命を懸けてくれる守護者が、ここにいる。


「聖……」


 帰ってきてくれてありがとうなのか、守ってくれてありがとうなのか。はたまた怪我をするなと怒ろうとしたのか。分からないけれど震える声で瀬能は聖を呼んだ。けれど返事は返ってこないで、代わりに一身に体重がかかった。今まで支えられていたものが急に押されて、危うく崩れそうになったがどうにか持ちこたえて、自分よりも大きな聖の身体を支える。


「聖?」


 触れる体温は、ひどく高かった。呼びかけても返事がなく、瀬能は動くことすらままならない。誰か、と声を出して呼びたくてもここには誰もいないのだ。か細い声など届くはずもない。どうしよう、と半泣きになりながら聖を見上げたとき、不意に体が楽になった。しなだれかかるように倒れてきた聖の体が離れ、そちらを見ると吉野が彼も血まみれの体で聖の肩を抱いていた。その目には色濃い呆れが浮かんでいる。


「筧副将……」

「担架を。まったく、無茶するからです」


 吉野がどことはなしに呟いたから自分が取りに行かなければならないのかと瀬能は思ったけれど近くに潜んでいた兵士が駆け出した。それを見送ってから、吉野はやっと瀬能を見る。聖の肩を抱くのも大変だろうと瀬能が吉野と逆の肩を支えようとしたが慎重さがありすぎてできなかった。


「瀬能様に会うまでは自分で歩くって、馬鹿ですよね」

「え、あの……」

「ただ斬られたから発熱しただけですよ」

「大丈夫なのか?」

「このくらいならば問題ありません。でも少々問題がありまして、終戦式は僕が代表します」

「そうか……。筧副将、ありがとう」

「なんです?」

「国を守ってくれてありがとう」

「それが僕らの仕事ですから。それに、その言葉は大将へお願いします」


 それ以降会話はなかった。しばらく黙っていると担架を持った兵が走ってきて、手早く気を失っている聖を運んでいく。みんながみんな血まみれで、瀬能はそれしか知らないけれど戦なんてしたくなかった。けれど無事に帰還してくれたことが嬉しく、誇らしくもあった。
 聖の意識が戻らないまま終戦式は滞りなく終了した。けれど隣にいるのが聖ではなく軍礼服を着た吉野であったことで今までのように安心はしなかった。





−続−

鉄編終了!鉄は生きてるんでしょうか?