視界が赤い。あぁ、そうか。斬られたんだったか。
 深いどこかから浮上した意識で自分の行動を追って、聖はゆっくりと意識を取り戻した。気を失った際は状況確認をまず行う。これが長い荒んだ生活で身に着けた無意識の行動だ。臼木との戦は勝った、戻っても来れた。瀬能の顔を見たことも覚えている。そこから記憶がないから、きっとそこで気を失ったんだろう。みっともないところを見せてしまった。そういえば終戦式はどうしたんだろう。ぼやけた意識で抱きしめてしまったことを思い出して、あれはいい事だったのかいけないことだったのか判断が難しい。


「聖さん!!」


 ゆっくりと瞼を押し上げると、途端にけたたましい声がした。惣太の声だと言うのは分かる。分かるからこそ起きることを拒否したかった。うるさい。
 文句を言ってやろうかと思ったけれど、その声に反応したのかわらわら人が集まってきた気配がしたからもう億劫でやめた。すべてが面倒くさい。もうどうでもいい。起きるのだって、億劫だった。


「聖!目ぇ開けろ馬鹿」


 部屋に入ってきたのはおそらく皇里だろう。いつもの罵り口調が少しだけ焦っている。目を開けろと言われてもそれがひどく億劫で目を閉じたままでいると、肩を揺さぶられた。この手は惣太か。揺さぶられるのと起き上がるのを比較して起き上がったほうがマシと一瞬で判断し、聖はようやく目を薄く開けた。眼の前では、惣太が泣きそうな顔をしていた。


「聖さん、良かった!」

「どけ惣太。聖、意識しっかりしてるな?」


 惣太をどかして、皇里が身を乗り出してくる。うちの筆頭軍医はしっかりしているなぁ、とものすごくどうでもいいことを考えた。声を出そうとしたけれど、長いこと話していないのか声が枯れて出なかった。ひゅっと風の通過する音だけが喉を鳴らす。どれだけ眠っていたのだろう。二日ですめばいい方だろうか。
 ひやりと冷たい手が額に押し当てられ、驚いて目を閉じた。とたんに左目に激痛が走る。その痛みで斬られたことをまた思い出した。


「まだ微熱があるな。もうちょっと寝てろ」

「……俺、どれだけ寝てた?」

「三日。ほら、もう一寝入りしとけ」

「飯食わして」

「目が覚めたらな。惣太、頼んだぞ」


 熱があると言われたらそんな気がしてきて、体がだるい。皇里に言われるままに体から力を抜くと、眠気がじわじわと襲ってくる。
 幼い頃も熱を出したら母親の幼馴染が世話をしてくれた。あの人と皇里は似ていると思う。だから安心して言うことを聞いてしまうのかもしれない。眠ろうと思うのにじわじわと痛む左目がそれを妨害する。この痛みは、裏切りの痛みだ。また捨てられた。


「悪い、一人にしてくれ」

「嫌です」

「……は?」

「嫌です。ここにいます」


 瞼を開けずに言うと、惣太は珍しくはっきりとすぐに否定した。思わず口から間抜けな声が出たけれど、それに対しても惣太ははっきりと否定してくれる。動く気がないようなのでもう諦めた。そういえばここはどこだと聞けば、道場の救護室だといわれて少し安心した。今回は自宅療養などとは言われないだろう。
 黙って寝ようと思ったけれど、頭に浮かぶのは自分は捨てられた事実だけだ。


「……俺って棄てられやすいのかな……」


 裏切られる事には慣れたと思っていた。他の誰かが裏切られるのは許せないけど、誰かを裏切るのは許さないけれど。自分が裏切られるのなら良いと思っていたのに、いざ裏切られたと言う事実を突きつけられると無性に辛い。かつての傷を抉るような痛みは、目なのか心なのか。キリキリと痛む場所が分からない。
 口から零れた言葉を拾って、惣太が不安そうに聖の名を呼ぶ。その声に笑ってやる元気はない。


「誰も聖さんを棄てたりしないですよ?俺たちずっと聖さんについて行くって決めてるんですから!」


 惣太の声が体に響く。頭に、というより目に響いているのだろう。痛い。弟分の叫びは、聖の中をするりと抜けて響かない。聞えなかったような仕草で寝返りを打ち、惣太に背を向ける。背中に刺さる視線は感じるけれど、何かしらの反応を見せる気力もなかった。もうすべて、どうでもいい。
 背を向けて会話を拒否したからか惣太はそれ以上何も言わなかった。代わりに部屋にドアが開いて吉野が声をかけてきた。


「聖さん、気分はいかがですか?」

「吉野さん……」


 おそらく皇里にでも聞いてきたのだろう、吉野の声に聖はゆっくりと体を起こした。まだ幾分だるいのは発熱を自覚しているからだろう。少し疲れた顔をした吉野は、珍しく他意のない笑みを浮かべている。惣太が物言いたげな視線で吉野を見て、それに対しても吉野は笑みを向けることで答えた。その意味は分かるが、脳が理解することを拒絶した。
 布団の傍に腰掛けて、吉野はじっと聖の顔をみた。その視線で理解する。何も聞きたくないと、脳が拒否する。


「まずは報告を。終戦式はつつがなく終了しました。町も人も回復し始めています」

「…………」

「こちらの被害は兵の四分の三が負傷。内、死亡は一割です」


 聞きたくない。けれど聞かなければならない。だから聖は目を閉じて、黙っていた。吉野の口調では特例出兵の兵を含めた負傷だろうから、軍事力の全回復は相当な日数がかかるだろう。それにしても死亡者が少なくてよかった。否、一人でもいればよかったわけじゃあない。けれど少しだけ、救われた気がする。
 対応を指示しようと口を開いたけれど、声が発される前に吉野が各地方から兵を分散させたと告げ中央はいつもの人数で守っているそうだ。特に中央は一人一人の士気がひどく高いようだ。なんとなく、救われたような気になれる。


「臼木側は半数以上が死傷しています。その中で、西木鉄五郎の生死は不明」

「……そうか」

「それから、貴方の傷ですが」

「…………」

「顔に傷は残らないそうですが、眼球に深い傷があるそうです」


 ふっと沈み込んだ吉野の声に、聖はゆっくりと顔を上げて己の左頬に触れる。包帯が巻かれた頬から指をつっと上げて瞼に触れてみると、ツンと刺すような痛みに襲われた。これは相当深いんだろうな、と他人事のように感じる。おそらく視力は失われてしまったのだろう。鉄五郎を失って、それを知らしめるために残されたのは何も映さない左眼。とんだ茶番だ。


「いいですか、聖さん。あなたが悪いんじゃあないんです」

「……うるせぇ」

「鉄五郎くんについての報告書です。目を通して置いてください」


 そう言って数枚の書類を手渡した吉野は、スッと立ち上がって出て行ってしまった。頑なに留まろうとする惣太に声をかけて、不満そうな顔をしている惣太を半ば強引に連れ出してくれた。それが嬉しいような少しもの寂しいような感じがして、聖の口から嘆息が漏れる。ひどくのどが渇いて、枕元の水差しに手を伸ばして無造作に口に含んだ。少し頭がしゃっきりして、そのまま書面に目を通していく。
 西木鉄五郎は、臼木でも高級官僚の子息に生まれた。幼い頃から厳しく育てられ、若すぎる年齢で臼木の軍人になった。臼木が軍人に年齢制限を設けていないことも極端に血族意識があることも知っている。鉄五郎はその典型例のようだ。上層部の命令で竜田へ入り込んだ。聖が拾った際にしていた怪我はカモフラージュで、内戦で焼かれたという話も嘘だった。
 鉄五郎のすべては、嘘だったのだ。


「結局、俺は騙されてたってことだろ……」


 ポツリと漏らした一人ごとに打ちのめされて、そのまま布団に倒れこんだ。もう眠ってしまおうか。何も考えずに眠ってしまえればどれだけ楽だろう。吉野も惣太も聖のせいではないという。けれど鉄五郎を拾ったのも傍においていたのも聖だ。自分が拾って裏切られて、そうして傷ついているなんて馬鹿げている。そんなことは分かっている。自分に反吐が出た。
 読み終わった紙を投げるように手放し、そのまま目を閉じた。もう何も考えたくないのに、頭を回るのは鉄五郎が取っていた確かに不可解な行動。確かに気づいても良かったのかもしれない。けれど聖はそれに気づかず、吉野はそれに気づいた。結局、甘えていたのかもしれない。


「聖……起きてるか?」

「瀬能様?」


 不意に声をかけられて、聖は億劫そうに体を起こして訪問者の名前を呼んだ。ドアからひょこっと顔を覗かせたのは不安そうな顔をした瀬能だった。少し顔色が悪いけれどちゃんと寝ているのか、心配になる。聖が髪を手櫛で適当に直して寝乱れた着物をそこそこ調えて迎え入れる体勢を整えると遠慮がちに入ってきて、視線が聖の包帯に向けられる。


「目が覚めてよかった」

「瀬能……」

「傷、痛むか?」


 本当に安心したような顔で、瀬能が微笑んだ。彼の手が聖の包帯の方へと伸ばされるのを、反射的に聖は瀬能の手首を絡め取った。そのまま引き寄せて、力任せにさっきまで寝転がっていた布団に押し付ける。驚いて固まっている瀬能の両手を絡め取って、体を拘束した。
 瀬能はきっと、本気で心配していてくれたに違いない。けれど、だからって捨てられないとは限らない。どうせいつか捨てられるなら、今捨てられたい。打ち捨てられて、絶望してしまいたい。今、すぐに。


「ひ、聖?」

「瀬能さ、ノコノコ俺の部屋来て……喰われちゃうよ?」

「な、何をするんだ!?聖、落ち着け!」

「瀬能だって俺が最低だってこと知ってんだろ?」


 ククッと喉で笑って、聖は瀬能の着物を肌蹴させた。ビクッと体を緊張させる瀬能に息だけで笑って、聖の手が勝手に動く。聖が花街に入り浸っていることなんてとっくに瀬能は知っていることだろう。最低なんだ、自分は。捨てられてもしょうがない。そう言い聞かせないと、泣いてしまいそうだった。
 瀬能が嫌だと抵抗するのを無視して手のひらで両頬を包み、涙の溜まった目を覗き込んだ。


「嫌だったら、瀬能も俺を捨てる?」

「捨てる……?」

「嫌なら俺のこと捨ててよ。そしたらもう何もしないから」

「聖?何かあったのか?どうしたんだ?」


 捨てるなら今捨ててくれ、と懇願するような声を出す聖を、もう恐怖もなにもない表情で瀬能がじっと聖を見る。その瞳から目を逸らしたくなった。こんなに真っ直ぐに見られると心の中を見透かされるような気がして、怖い。
 一瞬戸惑っている間に、瀬能が聖の首に腕を回してぎゅっと抱きついてきた。頭を抱きこむようにするその仕草は、幼子にするそれに似ている。


「私はお前を捨てない。聖は私を守ってくれるんだろう?一生守れ!」

「…………」

「私が先に死んだら、私の墓を守れ。お前は私のものだ!」

「瀬能……」


 瀬能の言葉は、ひどく心地がいい。まるで麻薬のように聖の中に入り込み、荒んだ心を溶かしていく。抱きしめられたまま聖の体から力が抜け、瀬能の隣にごろりと体を横たえた。トクトクと聞こえてくる心音になんだか安心して、とろとろとまぶたが落ちてくる。すぐに心地いい眠りに襲われた。










 そろそろ聖が目を覚ます頃かと思い、皇里は吉野とともに土鍋で作ったお粥を持って救護室に入った。普段怪我をしても大人しくしていることのない聖だが、さすがに動けずに眠っているだろう。あれから二時間も経てば眠りは浅くなっているはずだ。
 けれど入って皇里が見たものは、大人しく眠っている聖ではなかった。縋るように自分よりも小柄な体を抱きしめて眠る彼は、まるで子どものような顔をしている。


「……何事だよ?」


 聖に抱きしめられている瀬能は身動きができないのか、涙目で進入者をみやった。皇里を見て吉野を見て、助けてくれとその唇が小さく動く。皇里の言うとおりに吉野にもこの状況がどうなって形成されたものか知らないけれど、どうやら聖は熟睡しているらしかった。もう少し寝かせてあげようと思いながら、吉野は瀬能の背に回る腕の拘束を緩めてやった。そこから這い出してくる小さな体を見ながら、思わずため息が一つ。


「た、助かった……」

「瀬能様、どうしてここへ?」

「聖のお見舞いに来たんだが……」


 どうしたのかと訪ねようとしたけれど、瀬能は口を噤む。あの状況ならば聖に襲われ事後であることはないだろうから、それ以上は問い詰めず吉野は着物を直す瀬能の前に腰を下ろして聖を見た。物淋しそうな顔をしているから、あとで代わりに惣太でも呼んでおこうか。それとも、彼が欲しているのは抱き枕ではなく鉄五郎なのだろうか。
 瀬能もちらりと聖を見た後、皇里と吉野の顔を見比べて言いづらそうに口を開く。彼の目線は膝の上の握りこぶしに落ちていた。


「聖は、捨てられたことがあるのか?」


 瀬能の言葉に、皇里と吉野は思わずお互いの顔を見合わせてしまった。やはり、この男は鉄五郎のことを気に病んでいる。きっと裏切る、だとか捨てる、は彼にとってトラウマなのだろう。本人が自覚していない分根強いそれから、どうしたって誰も守ってやることはできない。
 どこまで何を答えてやろうかと吉野が逡巡している間に、皇里がさらりととても軽い口調で答えた。


「今回の間者のことですね。それからこいつ、昔好きな女に振られたことあって」

「そ、そうなのか?」

「相手が聖の身分に気づいて別れたそうです。まだ引きずってるだけですから気に病まないでください」


 おそらくそれだけじゃあないだろうけれど、皇里はこの話を早く終わらせたいのだろうことが吉野にはよく分かった。言葉使いの良くない年上の友人は昔から聖と吉野の保護者のような態度を取る。聖も吉野もそれを受け入れているから反発はしないけれど、どんな立場になっても彼は変わらずに二人を守るのだろう。
 俺を捨てて、と聖は言ったのだろう。鉄五郎に裏切られ、以前最愛の人に別れを告げられた彼。頭では違うと理解していても、母親と別れたことが始まりのトラウマなのだろう。捨てられたわけではないと分かっているのに、幼い頃に感じてしまった恐怖が彼の知らない奥深くに根付いている。


「瀬能様、早く戻らないと怒られるんじゃあないですか?」

「そ、そうだな。また来るって、聖に伝えておいてくれ」

「はい、分かりました」


 まるで追い出すようなタイミングで吉野が瀬能に声をかけ、その声に瀬能がハッと顔を上げた。ここに来て一時間半以上経っているから、そろそろ見つかって怒られるころだ。少し慌てて部屋を出て、一度だけ振り返る。眠っている聖の顔の左半分を覆う包帯が、痛々しかった。


「よく寝てますね」

「どうせ眠れなかったんだろこの馬鹿は」

「で、いつ伝えるんですか」

「何をだよ?」

「左目の視力がなくなったこと、です」


 聖の視力は、たった一太刀の傷によって失われてしまった。吉野と皇里はどうにかならないものかと思案を巡らせたけれど、傷が深く場所が悪かったことが回復を不可能にした。たった一つの可能性は、義眼をいれること。これですら視力が回復するかどうか分からない。奇跡に近い可能性を信じなければならなかった。聖ならできるとも思えるし、あの確立なら不可能だとも言える。
 祈るしかないな、そう言ったのは皇里だった。





−続−

聖さんの寝顔ってわりと幼い