聖の顔の傷が塞がって国内の機能が元の戻る頃には桜の花びらは散り、葉桜の季節になっていた。ぐだぐだと時間を過ごしながら仕事をこなし、片目を眼帯で隠しながらも道場で上手く立ち回れるようになった。
 よく晴れたある日、吉野がソファで寝ていた聖を叩き起こした。お昼前に惣太と三人で、なぜか馬に乗って東関まできていた。マミとマミは嬉しそうだったけれど、彼女たちのテンションが高すぎて聖は若干酔ってしまった。東関の温泉に入ってうとうとしながら自分の状況に気づいた。


「療養です」

「このタイミングで?」

「皇里に全てをお願いしてきましたし、もう我々が離れても問題ありません」


 まだ中央で指揮を取らなければならないだろうに、三人揃ってこんなところに来て仕事をほったらかしてもいいのか、と聖が珍しく正論を問うたのに吉野がしれっと答えてさっさと上がるように言った。たった一人でのんびりと温泉に入っていても楽しくないし、酒もないから確かにもう十分だ。
 風呂から出て、軍服を着るのも療養ならば相応しくないだろうと着流しに手を伸ばした。適当に羽織って帯を締めると、なんだか少し楽になった。ここまで来たら仕事だなんだと言うこともない。


「惣太くん、出かけてきますからよろしくお願いしますね」

「出かけるって、どこに?」

「はーい。行ってらっしゃい!」


 さてこれからどこに行こうか、と聖が煙草を銜えたところで吉野がやってきた。奥に向かって声をかけると元気な声が返ってくる。惣太には分かっているようだが、聖は一体どこに行くのか皆目見当もつかない。花街に行くわけじゃないだろうし、そもそも吉野と花街の違和感具合に驚いた。
 どこに行くんだと言っても吉野も私服で国外れの方に歩いていく。何度声かけても答えてはくれなくて、結局山の麓に入るまでには声をかけるのをやめた。煙草を吹かしながら見上げた空は青いが、それを映しているのは右の片目だけだ。今ではもう左目に触って見る勇気すらない。


「皇里と話し合って決めました」

「何をだよ」

「義眼を入れます。水晶と碧玉の最高級品です」


 山の中に分け入るようにして歩き出てきたのは、今にも倒壊しそうなあばら家だった。それの存在に驚いたことで吉野の言葉を聞き逃してしまい、聞き返すとひどく不愉快な顔をされた。なんだかこちらが文句をいいたいんだがそれを堪えて、聖がもう一度聞くと義眼を入れる、と少しイラついた声で言われた。
 まさか義眼職人がこんなあばら家にいるのかと逃げたくなったというのに、吉野は躊躇いなくそのあばら家の扉をガタガタ開けた。立て付けが悪いのか、両手で力任せに、と言う印象を受ける。


「吉野?」

「ごめんくださー、い!」


 ガタン、と戸が外れた。一瞬吉野の動きが止まったけれど戸を立てかけるようにして中に入っていく。数歩手前で立ち止まっている聖を吉野が手招くので、しょうがなく足を進めた。皇里と話し合ったのならば安全性は保障してくれるだろう。いくらなんでも死にやしない。そう自分に言い聞かせて、聖は腰を屈めて自分より背の低い戸をくぐって中に入った。
 中では小さな老人が座っていた。埃っぽい室内で薄汚い風体は不安しか呼び起こさない。彼はにやっと前歯のない口で笑った。


「ほほぅ、お主が例の別嬪か」

「よろしくお願いします」

「これでは女も放っておかんだろう」


 吉野に促されて老人の前に座ると、彼の皺くちゃの手が聖の顎に引っかかって持ち上げる。初めてに近いその感触に聖は逃げたくなって、理性でそれを押し止めた。老人という年齢の人間と接することがほとんどなかった聖にとって、彼の目は得たいが知れない。幼いころは女性ばかりに囲われて、老いていても気高く美しい人に囲まれていた。角倉に引き取られても老獪な人間ばかりでおおよそ油断していい相手じゃあなかった。経験をつんでいるだけで恐ろしい相手だ。それなのに、この眼の前にいるのは簡単に折れてしまいそうなほど小さな体だ。


「さて、さっさと始めようかの」


 するりと包帯を解かれ、今まで隠れていた肌が露出する。まだかさぶたの残る頬には傷が残らないという。まだ触れるのも怖いので聖自身は触っていないが、包帯にかさぶたのかけらがついていた。隣で吉野が「顔を見せられるようでよかったですね」と言うけれど、なんだかそれも違うと思う。
 老人の隣においてあるのは、球体だった。水晶と碧玉の一級品、あぁそうか。それが目に入るのかと思ったけれど実感は湧かなかった。


「痛いのはもう嫌じゃろうて、腕から麻酔を入れてやろうぞ」

「……別に嫌いじゃねぇけど」


 痛いのが嫌いかと聞かれれば、嫌いじゃあない。痛いのは生きている証だと思うし、今は打ちのめしてほしい。こんな自分をめちゃめちゃにしてほしい。そんなマゾめいた考え方すら頭をよぎるときがある。自分を騙くらかして誰かと遊んでも、全く楽しくないのだ。
 素直に腕を出して注射針が刺さるのを見る。冷たい何かが入ってくるのを感じながら、小さく息を吐いた。手探りで懐から煙草を出して、片手で器用に火を点ける。どうせ麻酔が効くまで時間がかかるだろう。


「聖さん、惣太君が心配してますよ」

「何を?」

「聖さんに元気がないって」

「ふぅん」


 軽く返事をして、紫煙を吐き出す。惣太が心配していると言われたらテンションを戻さなければならないだろう。どうせあいつには空元気もばれてしまう。狭い家屋なのに、隙間風があるのか紫煙が滞ることはない。一本吸い終わってもそこまで不快な感じがしなかった。
 急に眠気が来て、そのまま聖は意識を失うように眠った。こんなに急に来る麻酔は、危ないんじゃあないだろうか。










 目を覚ましたら夕方だった。目に違和感はあるものの、痛みなどはない。その上に眼帯をされ、取ってもいいのは一週間後だと言われた。勝手に取ってもいいのだろうけれど、怖いから皇里に同席してもらおう。そう思いながら、東関への同じ道を帰る。もうすぐ暗くなるだろう。一番星を見つけた。


「吉野」

「なんですか?」

「……ありがとうな、親友」

「どういたしまして、親友」


 足元を見て歩きながら、小さく呟くと吉野が苦笑してそれに応じる。なんだかそれがくすぐったくて聖はそれ以上言葉を続けなかったけれど、吉野は「惣太君が待っているから帰りましょう」とサラリと言う。並んで歩いているわけじゃあない。顔を見られないけれどなんだか少し赤くなっている気がする。
 こんなに投げやりになって、ひとりで馬鹿みたいだ。その間に周りはこんなにも現実的に動いているのに。


「あ」

「聖さん?」


 足元に黒い物体を見つけて、聖は足を止めた。そのことに気づいて吉野も足を止めて振り返る。聖は足元にある黒い物体をしゃがみこんでじっと見た。暗いからよく分からないけれど、それは人のようだった。死んでいるのかと思ったらまだ浅く息がある。ここは戦闘区域に入るか入らないかと言うところだから、あのときの参加者かもしれない。だとしたら驚くほど生き延びたと思うけれど、虫の息なことは確かだ。


「死んでんの?」

「殺したけりゃ殺せ……」


 声をかけると、帰ってきたのはヒューヒューと喉を鳴らした声だった。掠れているのは水気がないからなのかどうか知らないが、まるで今にも死にそうだった。億劫そうに見上げてきたその目は、もう生きることを放棄したような暗いもの。夜の沼の底のようなその色に、手が勝手に伸びていた。


「じゃあ俺が拾お」

「聖さん!?」


 聖の言葉に一番驚いたのは、担ぎ上げられた少年ではなく吉野だった。その瞳に困惑しか映っていないのは、過去こうして少年を拾い裏切られたばかりだと言うのに同じ過ちを繰り返そうとしているからだろう。如何してこうも警戒心がないというか、学習能力に欠けていると言うか、という目をしている。けれど聖は諦められない。希望を捨てきれないのだ。もしかしたら今度は過ちじゃあない気がして、縋ってしまう。
 聖が無邪気に笑み、吉野は深く溜息を吐いた。たとえその無邪気さが無理矢理だって、笑えることには変わりない。


「だーいじょうぶだって、今度は」

「拾った犬の面倒は自分で見てくださいよ……」


 そして、聖はまた犬を拾った。今度こそ、ちゃんと笑っていられますように。きっと誰もがこの子犬を見たら思うのだろう。
 息絶えそうな人間を担いで、聖は今度は吉野の隣を歩き出した。見上げた空は黒く、星が綺麗に輝いていた。










 子犬を抱えて帰ると、惣太が待っていた。そわそわしていたのだろう、扉を開けたらぱっと笑顔を向けて「おかえりなさい」と言う。食事もまだらしく、一人でさぞつまらなかったことだろう。けれど惣太の表情は、まず聖の顔に向けられそのすぐ後に担がれた少年を見て固まった。大きく目を見開いて、これ以上ないくらい呆然とした顔をしたのが面白い。


「それなんですか!?」

「拾った」

「拾ったって……人間は犬猫とは違うんですよ!?」


 この間裏切られたばかりだというのに。その言葉を惣太はどうにか飲み込んだが、聖は分かっているのだろう苦笑に似た笑みを浮べてソファに寝かせた少年の体に包帯をしていく。意識がないのか抵抗らしい抵抗もせず、浅い呼吸を繰り返していた。また裏切られるかもしれないのに、と腹の中がグチャグチャになる感覚だった。一緒にいたのにどうしてと吉野に向かっても謂れのない怒りが浮かんでしまう。


「師範。言っておきますけど、俺たちはみんな師範が大好きなんですよ!」

「何だよいきなり。惣太、悪いけどこいつの世話頼むな」

「聖さん、どちらへ?」

「風呂。せっかくだから満喫してくる」


 拾った少年を置いてスタスタと浴場へ向かってしまった聖を見送って、惣太はきつく唇を噛んだ。それを見た吉野が不思議そうに首を傾げ、惣太に夕食の有無を聞く。ないならば久しぶりに食べに出てもいいかもしれない。それとも適当に作らせようか。そう考えるのは吉野で、珍しく惣太は何も言わなかった。


「惣太くん?」

「……なんで聖さんは、拾ってきたんですか」


 あんな辛い思いをしてほしくないと思うのは、おそらく竜田軍の願いだ。けれど当の大将はあんなことがあったにも関わらずこんなにも早く何かを拾ってくる。軍服の様子から臼木のそれであることが知れたのに、躊躇いなく拾ってくる。それが惣太には信じられなかった。また裏切られたらどうしようと、本人よりも怯えている。
 そんな惣太の隣に腰を下ろし、吉野は微笑した。そうして、ゆっくりと口を開く。


「希望ですよ」


 希望なのだと、そう囁いた。聖にとってそれは希望で、賭けなのだ。もう裏切られないか、裏切られたとしても試してしまう。そんな二律背反で選ぶのは、いつだって自分が傷つく方法だ。そんなことは惣太だってよく知っている。だから泣きたくなるのに、あの男は何にも分かっちゃいない。


「笑っていればいいんですよ、あの人は」


 静かに言った吉野は、食事はどうしましょうかね、と話を逸らした。けれどその一言で惣太は理解してしまった。聖は笑っていなければならない。大将として、そうあらなければならない。だから彼のしんどい部分は全て吉野が背負っている。だから惣太も、それを背負おうと覚悟した。
 あの人は、太陽だから。





−続−

人はそうおちてるもんじゃあないと思うけど