東関でしばし療養と言う名の休暇を取った。その間に拾った少年が目を覚ますこともなく、微熱の続く彼と一緒に中央へ戻った。それまでは皇里が仕切っていてくれたようで、すんなりと状況報告を聞いて逃げるように瀬能の部屋に挨拶に向かった。吉野から報告を聞いて背中に怒鳴り声を聞いたけれど、無視して瀬能に帰ってきた旨を伝えて道場に向かった。そうして、きっちり着替えを済ませて髪も結って竹刀を握る。くすんだ気分がしゃっきりした。  左目は未だ眼帯に隠されている。きっとこの眼帯が取れても左目が視力を取り戻すとはないのだろう。それならそれに対応した技術をつけなければと思ったのがまず最初で、吉野はひどく呆れた顔をしてまず考えるのはそれですか、と言った。


「聖、本当に大丈夫なのか?」

「ぜんっぜん余裕」


 拾ってきた少年は道場の救護室に寝かせた。未だ目を覚まさないので皇里に看てもらい、今は惣太に世話を任せている。何かあったら知らせろとだけ言って、皇里に稽古を頼んだ。聖の相手をできるのはおそらく皇里か吉野程度だろうが、吉野は現在溜まりに溜まった書類をやっつけている。それに彼相手ではスパルタなので、こういう場合は皇里の方が何倍も適している。
 全神経を集中させて相手の気配を窺う。特に左側の神経を鋭く。そのおかげですでに息も切れているし汗はぽたぽたと滴っているがそれを手の甲で拭ってまた竹刀を構えた。


「うし、次」

「ほどほどにしとけよ?」


 多少呆れを含んだ言い方をしながら、皇里は付き合ってくれるようだった。振り上げられた竹刀を一つの視界で捉えながら、握った竹刀を揺らす。どこに来るか、全身で気配を読んだ。二時間ばかり前までは存分に打ち据えられていたが、段々感覚も掴めて受けられるようになってきた。シュッと空気を切って左側に揺れた竹刀を受けるために片手だけを動かし、攻撃に転じようと体を捻った。瞬間。右下から跳ね上がってきた竹刀に息を呑んだ。反射的に一歩引く、袖をかすった気配。上から振り下ろされる竹刀を受けて、飛び退いた。


「意識しすぎだ、馬鹿」

「うっせぇ……」

「もうやめとくか?」

「まだ」


 そろそろ疲労も溜まってきたが、聖は躊躇いなく首を横に振った。今度こそ全神経を集中させて四方の気配を読む。先に踏み込みたくなるのを稽古だからと我慢して、皇里の竹刀が振り下ろされるのを待つ。ヒュッと空を切る音。現れる気配と、殺気。そちらに竹刀を向けずに、体を傾けることで回避する。紙一重で避けて、左手で開いた胴に竹刀を振り込んだ。ひたりと当てたところで止めて、顰めていた息を吐き出した。


「怪我人の分際で……」

「とりあえずタイマンは勝てる」

「とりあえず?」

「おーし、ここにいるお前ら全員束になってかかってきやがれ!」


 なにをする気だと声を低くした皇里を無視して、聖は腕を振り上げた。本当は、疲れたししんどい。けれどこのくらいじゃあなきゃ本気じゃない。現在道場にいるのは精鋭が五十人程度、このくらいを相手にできなくて大将なんてやってられやしないだろう。戸惑った兵たちを見回して汗を拭い、竹刀を擡げる。ここでやらなきゃ、男じゃねぇ。










 聖の大きな声の一瞬の後、静寂が満たした。その後には兵たちの足音。それを聞いて光景が眼に浮かび、惣太は苦笑を漏らした。きっとみんな戸惑いながらも大好きな大将のために向かっていくのだろう。聖は負けるだろうか。あの状態で、いくら部下とはいえ勝てないかもしれない。でも惣太は、聖が勝つと確信している。実戦に強くていつだって格好いいのが、聖だから。
 それからちらりと眼を伏せている聖が拾ってきた少年に視線を移す。まだ名前は分からない。彼が何者なのかも、誰も知らない。彼が聖にとっての何になれるかも、分からない。


「なぁ」


 額の布が温まっていないのを確認して、惣太は軽く息を吐き出した。彼は臼木の軍服を着ていた。鉄五郎も臼木の兵士だった。吉野が言うには同じ手は流石に食わせないだろうから、彼は間者ではない。けれど惣太はそれがただの慰めで期待であることを知っていた。また傷つく彼を見たくないと思うのは、みんな同じだ。
 余りにも静寂が痛くて、呟く。


「聖さんのこと、裏切らないでくれよ?」


 もう彼はボロボロだから。気づかれないようにしているけれど、あの時一緒にいたから分かる。あの嘘っぱちの笑顔なんて哀しいことに見慣れてしまった。彼はもう耐えられないくらいにボロボロになっている。もし、彼にまで裏切られたらきっともう誰も信じられなくなるだろう。自分が信じているだけでは駄目なのだ、吉野ですら駄目なのだ。この子犬でないと、駄目だ。


「……オレ、師範が大好きなんだよ……」


 だからだからどうか。もう裏切らないで。
 そう小さい声で搾り出した。好きで好きで、大好きで。尊敬している師であり兄である聖。その人が傷つくところなんてもう見たくない。
 口に出した瞬間に泣きそうになって、慌てて眼をこすった。ここで惣太が泣いているわけにはいかない。そんな姿を聖が見たらどう思うのか、そんなことは分かりきっている。彼を託されたのは自分だし、笑っていなければならない。鉄五郎がいなくて全然大丈夫だという風に、今までどおりにしていないといけない。それなのに、涙があふれてくるのは聖を思ったからだ。


「惣太くん?」


 ここにいないはずの人物に声をかけられて、惣太はビクッと肩を揺らした。けれどそれが吉野のものだと分かると安堵に変わる。けれど泣いている姿は見せたくないから、目を擦って無理矢理笑った。見上げた吉野の表情は複雑で、その笑みも凍りつく。固まっている間に吉野がゆっくりと近づいてきて、惣太の隣に腰を下ろした。


「惣太くんまで無理して笑わないでくださいよ」

「だって……」

「今はあの人、囲まれてますから。勝手も違いますからそう簡単にはケリもつきませんよ」


 吉野の手がぽんと惣太の頭に乗った。少しぎこちなく撫でられて、なんだかほっとした。吉野だって聖にこれ以上苦しんで欲しくないだろうし、彼になら泣き顔を見られてもいいような気がした。けれど涙だけはグッと堪えて吉野を見つめる。その視線の意味を察したのか、吉野は微笑しただけで何も言わなかった。


「これ以上聖さんが辛いの、見たくないです」

「大丈夫ですよ。そのために僕たちがいるんですから」


 にこっと吉野が笑って、立ち上がる。何をしに来たのかと聞く前に瀬能様が呼んでるんですよね、と言われて背を向けられる。さっき言ったばかりなのにまた呼ばれたのか、彼は病み上がりなのに。僅かなイラつきが惣太の中に生まれたけれどそれを口に出すことはなかった。


「……なぁ」


 いきなり声を掛けられて、惣太はビクッと肩を震わせた。扉に手をかけていた吉野も振り返り、救護用ベッドの上に眼をやる。まだ辛そうにしながらも瞼を開けた少年がそこにはいた。どうにかなんでもないような顔をして、惣太は眼を開けた少年の顔を覗き込む。


「眼が覚めた?」

「ここは……」

「竜田国軍道場の救護室。うちの大将が拾った」


 少年が気づいたことを皇里に伝えに行こうと立ち上がると、それをドア付近にいた吉野に制された。足早に出て行く彼を見送って、すとんと座っていた椅子に腰を下ろす。額のタオルを取ってやって手で触れ、まだ微熱があることだけを確認した。その間にバタバタと足音が聞えてきて、まず皇里が飛び込んでくる。その後ろに流石に疲弊した聖が続いて入ってきた。


「惣太、ちょっとそこどけ」

「はい!聖さん、お疲れ様です」

「おう」


 皇里が診察するための場所を空けて椅子から退いて、座り込んだ聖に近づく。荒い呼吸を繰り返しながら、聖は笑って惣太に煙草を要求した。しかしそれは少年の診察を始めた皇里に一喝の元否定された。医療現場は禁煙、というのが皇里の持論だ。不満そうな顔をしながらも、聖は少年の方が興味深かったのか顔が見える場所まで移動して再び腰を下ろした。


「お前、名前は?」

「青川正悟」

「角倉聖だ」


 聖の名に正悟は一瞬眼を見開いたけれど、何も言わずに自分のことを語った。臼木の人間として松井田の間者をしていたこと、用がなくなると臼木に捨てられ殺されかけたことなどを淡々と話した。その間に皇里が簡単に診察を終え、傷からの微熱もじきに引くだろうと判断を下した。


「そうそう聖さん、瀬能様がお呼びですよ」

「何でお前はそういうこと先に言わねぇの!?」


 会話が切れた瞬間に放った吉野の自然な言葉に聖は眼を大きく見開いて部屋を飛び出し、まずシャワーを浴びると言い残して道場から出て行った。あんなにへとへとになっていたのにあんなに元気に動けまわれるのかと皇里が苦笑するが、その音だけが浮いて部屋に響いた。


「それでは僕は戻りますね。惣太くん、よろしくお願いします」

「俺も本部にいるから、何かあったら呼びに来い」

「はい、お疲れ様です」


 変な沈黙が漂いそうになったときにそれをきるのは、いつも吉野の役目だ。一瞬だけ冷たい眼でベッドの上の少年を見て、それからいつもの笑顔を浮かべる。踵を返した背中に続いて皇里も仕事の残りを片付けると言いながら一緒に出て行ってしまった。それを見送って、しばし沈黙。まず聞こえたのは少年の掠れた声だった。


「角倉聖……天才軍師」

「……そうだよ。聖さんはすごいんだからな!」


 ぽつりと呟かれた声に、惣太はそう言い返した。だからどうか彼を裏切らないでくれと、思う。
 彼は言葉で表せないほど強くて、でも代わりに脆い。恐ろしく男前なのに、偶に死にそうに弱いことを言う。自信満々で、自分勝手で、お人好しで、でも自分のことが大嫌いで。誰かのために命を掛けることは出来るのに自分の為に命を張ることなんで考えない。そんな人が苦しむところなんて、もう見たくない。見ていられない。


「何で俺を拾ったんだ……」

「お前が希望だからだよ!……なぁ、お前いくつ?」

「十九」


 話の話題を変えたかったわけじゃあないけれど、何となくそれ以上を言葉にはしたくなくて惣太は話題を変えた。先日誕生日を迎えたばかりの自分よりも一つ上の正悟になんだか親近感を覚えて自然に表情が和らぐ。彼が眠りに落ちるまでにいろいろな話をしたけれど決して惣太は警戒を緩めたわけではなかった。










 数時間前に顔を出したのに呼ばれるといわれて、聖はシャワーを浴びて適当な服に着替えて瀬能の私室に向かった。やっと煙草も吸えるか、と心のどこかで思いながら軽くノックして部屋を開ける。まだ日常生活で片目であることに慣れていないから時間がかかったけれど、怒ってはいないだろうかと冗談めいたことを考えながら中に入ると泣き出す寸前の顔をした瀬能が振り返った。


「瀬能……どうした?」


 机に座ったまま動かない瀬能に不思議に思いながら近づいていくと、一枚の紙を突きつけられる。何も言わないことに首を傾げながらそれを受け取って眼を通しながらポケットから煙草を出して火を点ける。紫煙を吐き出しながら文字を目で追うと、何のことはない財政関係の書類だった。
 そういえばうちも武器新調してぇな、と思いながら見て、段々表情が強張っていくのが分かる。まず思ったのは、当分武器の新調なんて不可能だろうこと。


「これ……」

「さっきまで長官たちが集まってた」

「……悪ぃ」

「聖が謝ることじゃない」


 ぽつりぽつりと瀬能の声がする。ひどく落ち込んでいるそれに聖が軽口を叩いてみたけれど、すぐにそんな気分も消沈した。戦が終わって日も経っていないからかもしれないけれど回復しない物価。これほどまでに回復しないことは珍しいし、各部でもはっきりとした政策は立っていないようだった。
 厳しいけれどしばらくすればどうにかなるだろうと聖は楽観して瀬能にそれを返したけれど、歳若い領主はそれを受け取ろうとしなかった。仕方なく机の上において手の届く範囲まで移動すると、何かを堪えるようにきつく唇を噛んだ瀬能に睨み上げられる。俺、何かしたっけと胸の中を捜索するが思い当たることは今回はなかった。よかった。


「芳賀様から、婚姻の話があった」

「……は?」

「柊を嫁に欲しい、その代わりに経済的援助はする、と……」


 突飛な話、ではなさそうだった。瀬能の婚姻かと思ったから驚いただけで、柊姫なら安心だ。まだ幼いといえども貴族ならば嫁入りしてもおかしくはない。芳賀という大国への嫁入りはなかなか悪い話ではなさそうだし、向こうから言ってきてくれるとはいいのではないだろうか。総督などが好きそうな話だと思う。けれど、瀬能の表情は浮かない。


「いい話じゃん。妹取られんのが嫌って歳でもねぇだろ?」

「……でも、柊は」

「嫁入りする娘の父親気分にゃ早ぇぞ?」

「聖……」

「俺はいつも甘い男じゃねぇからな。その辺は割り切っとけ」


 ここは瀬能を甘えさせてはいけないところ。そういうメリハリはつけているつもりだ。決して突き放すわけではなく笑った聖はくしゃっと瀬能の頭をなでた。不満そうな顔を向けてくる瀬能に一笑して紫煙を吐き出し、ふと芳賀の誰との婚姻話なのだろうかと思いつく。たしか当代領主は中年を少しばかり超えていたはずだが。


「なぁ、瀬能サマ?」

「何だ……改まって」

「その婚姻話って、誰から?」

「兵衛殿だ」


 まず浮かんだ感想が、やっぱり少女趣味なんだ、と誰かに聞かれたら殺されてもおかしくないものだった。たしかにそれじゃあ嫁に出すのは躊躇うなと思ったのだが口には出さず、こういう例も貴族間には良くあるものだからと曖昧な笑みで誤魔化した。





−続−

やっと…やっとスタート地点に!