柊姫の婚姻は、翌日に行われた緊急の閣議で正式に決定された。その日、ひどく落ち込んだ瀬能に聖は何も言葉をかけられなかった。兄に呼ばれている、と聞いたのはそれから一週間後のことだった。嫌だ嫌だと思いながらやっと家に帰ったのは、日が落ちるころだった。
「聖さん!遅かったですね」
「……そんなに遅くないですよ」
帰宅早々、美月が頬を膨らませて文句を言われたけれど、それを軽く流してあまり実感のない自室に入った。軍服から着物に着替え、着流しでいいかと思ったがさすがに兄の前でそれはまずかろうと久しぶりにしっかり着物を着た。少し苦しいなと少し思って苦笑が浮かぶ。そういえば、兄が当主になってからなんだかんだと逃げ回って会うのは初めてかもしれない。
「お食事の用意、できてますよ」
「はいはい、今行きます」
襖の向こうから美月に呼ばれ、髪を適当に結い上げて部屋を出た。美月と一緒に廊下を歩きながら、なんとなくの違和感に出会う。そういえば、今日は雛生は来ているのだろうか。だったら会いにくいなと思いながら、美月に先導されて奥の間に入る。父はいないのか奥で食事をとっているのか、ここに姿が見えずに安堵した。
部屋の中では既に兄が上座に座っていて、その隣に光定がいる。聖と美月の膳が彼らと向かい合うように置かれていて、なんとなく流れに沿って座に着いた。
「光定殿、来てたんですね」
「お前よりも遥かに早くな」
「いや、俺も今ちょっと忙しくて」
なんとなく光定の姿を見たら気が軽くなって、聖は笑った。そうだ、煙草を置いてきたとどうでもいいことを思いながら手酌で酒を注ぐ。すでに兄と光定は呑みはじめていたようで器が濡れていた。クッと一口煽って杯を置くと、淡く微笑んだ兄が真っ直ぐに聖を見ていた。
「何で呼んだか、分かっているかな?」
「柊様の婚姻の話じゃないんですか?」
「いただきます」
このタイミング、メンバーなら柊姫の話以外にないと聖が答えながら箸を手にする。美月が小さく呟いたのに一緒になって手を合わせ、ごく普通に茶碗を手に取った。一体いつから自分は兄の前でもこんなに普通にしていられるようになったのかとても不思議だ。米を口いっぱいに頬張って、高い米旨いなー、ととてもどうでもいいことを考えた。
「本来なら祇部が取り仕切る婚姻だけど、今回は我々角倉が取り仕切ることになった。分かるね?」
「はい」
ご飯を飲み込みながら頷き、その理由を思考するがその前に美月が隣で、美月が柊の教育係であるからですか、と確認のように呟いた。柊の教育役が美月であること、そして瀬能を擁立したのが角倉家と真坂家であったことから今回の人選になったのだろう。国内の婚姻ならば祇部に委ねられようも、大国に対してはやはりそれ相応の名家が出なければならない。
けれどあまり自分に関係ないことではないだろう、と魚を突く。煮魚好きだな、と口元を緩めながらちらりと美月を窺うと、詰まらそうな表情でもくもくと食べていた。
「聖にも動いてもらうから、よろしく頼むよ」
「分かりました」
「ところで聖、瀬能様はどうしておられる?」
兄の話が切れたところで光定が口を挟んできた。閣議のときから無口にずっと俯いていた瀬能を誰が気にかけていただろうか。閣議後に声をかけることもはばかられて聖は何も言えずに久しぶりに城下廻りに出たからどうだったかは分からない。けれど絶対に落ち込んでいるのは分かる。閣議の後も前も、ほかに手はないのかとずっと言っていたのだから。
「ほかに方法ってないんですかね」
「ないな。今回の経済問題も、不可解なことばかりだ」
「どういうことですか?」
芳賀への嫁入り以外の選択肢は本当になかったのだろうか。聖とてまだ幼いと感じる姫に嫁入りをさせなくても、ほかにいくらでも選択肢があったのではないかと思う。それを探るように問うけれど、光定も澄春も顔も見合わせもせずに希望を否定した。やはりか、と聖は簡単に納得するけれど美月は分からなかったのか恐る恐ると言うふうに声を挟んだ。
不愉快そうな顔をする大人二人に、聖は味噌汁をすすってから微笑みかけた。
「戦が終わってからこんなに物価が戻らないなんて、何かあったと思うでしょう?芳賀が絡んでいるんじゃないかって考えてるんですよ」
「あ、そうなんですか」
「そういうことです。まあ良縁だとは思いますけどね」
腑に落ちない美月の顔に笑いかけるだけでそれ以上何も言わず、聖は酒を煽る。良縁だとは思う、思うけれどなにかの違和感は付きまとっている。それ以降なぜか雑談を始めてしまった兄と光定を見て、今日の目的があまりにも不鮮明すぎて聖はただただ首を傾げた。
雑談に多少混ざっているとなぜか自分の婚姻の話に流れ始めてしまい、聖は逃げるように座を立った。酒と器だけを持って怒られるのも承知で部屋に戻り、一人で夜空を見上げながら呑もうかと思う。自室の窓から見える空は、好きだ。
「……聖さん」
「美月さん?どうぞ」
畳に寝転がったところで美月の声が聞こえた。なんだろうと体を起こしながら声をかけて入室を促すと、おずおずと入ってくる。着物を緩めながら体を起こし、文机の上の煙草を引き寄せて口に銜える。美月が嫌そうな目をしたから窓を開けてそちらに息を吐き出すようにして、「どうしたんですか」と問いかけた。
「美月さん?」
「あの、聖さん……」
「どうしたんですか?」
入ってきて小さくなっている美月に首を捻り、聖は酒を注いだ。それを煽って彼女の言葉を待つと、言いにくそうにちらちらと聖を見ながら結局視線を落として、「瀬能様のことなんですけど」と紡ぎだした。柊姫のことか、芳賀のことかと予想していた聖は予想外のその単語に僅かにたじろぐ。紫煙を吐き出して続きを待っていると、泣きそうな目で聖を見た。
「瀬能様は、柊様のことをどうお思いなんでしょうか」
「どうって、可愛い妹じゃないんですか?」
「……そう、ですよね」
「美月さん?」
「柊様は……瀬能をお慕いしているんじゃないかって、思うんです」
聖が姿勢を直して美月の名を呼ぶと、真っ直ぐに聖を見て彼女は声を震わせた。そりゃあ慕っているだろう、と聖はあえて茶化したくなった。たった二人の兄妹なんだから、とか自分だって美月のことを慕っているとか、からかう方法は幾許もあるというのにその言葉は出てこなかった。それとは違うものを彼女から感じた。瀬能が感じているのはおそらくそのままの家族愛だ。たった一人の妹、肉親。だからあんな風になっている、それは分かる。けれど。
「お慕いって……」
「私だって、もちろん聖さんのことも兄様のこともお慕いしております!でもそうじゃあなくて……」
「異性としてってことですか?」
「はい……」
聖だって、美月のことが好きだ。けれどそれは親愛の情であって思慕の情じゃあない。女性としてではなく姉として慕っている。あの日以来、聖は女性に対して必要以上の愛情を持つことができないから本当に分かる気持ちじゃあないと思う。柊のそれもただ兄を思う気持ちが強いだけなんじゃあないかと思ったけれど、美月は首を振って「女の勘です」と言い切った。そいつはすごい。
「それは言われてもなぁ〜……」
「もう私、どうすればいいか分からなくて」
「はいはい、ちょっと気を使ってみます」
もう良いだろう、と聖は少しぞんざいに返事をして紫煙を深く吸い込んだ。愛だとか恋だとか、そんなものを真剣に語られても困る。自分で分からないことに対して意見を求められても困るし、答えたくもない。
聖の返事に不満だったのか、美月は「お願いします」と念を押して聖の部屋を出て行った。その背を見送って、紫煙を吐き出す。とろとろと酒を注ぎ、ぐっと煽る。窓から見上げた夜空は、吸い込まれるくらいに暗い。まるで幸先のようで、煙草の先に点った光を見て聖は目を眇めた。
本部でぼんやり書類に目を通しながら、聖は昨日のことが頭をぐるぐる廻ってたまらなかった。既に灰皿はいっぱいになっている。瀬能が柊を好きになるなんてありえない。そんなことは分かっている。分かっているけれど、落ち着かなかった。
「聖さん、苛々しているなら道場にでも行ってスッキリしてきたらどうですか?」
「ん?あぁ……」
「聞いてます?」
「んー」
完全なる生返事を返しいっぱいの灰皿に火が点いたものを押し付けて消す。これは本当にそうしようか、見ているだけで読んでいない書類を机の上に置いた。道場に行くか城下に行くか、それとも美月との約束どおり瀬能にでも会いに行くか。選択肢を自分で立て並べて、少しへこむ。そうして、道場へと足を向けた。連日顔を出しているけれど、今日は軍服で顔を出す。竹刀を握る気は、あまりない。
ポケットに手を突っ込んで歩きながら、そう言えばこの間拾った子犬の所属を決めないといけないなと思った。今見ていた書類がそれ関係だった気がしなくもないが、よく覚えてない。完全にぼんやりしていたな、と自分に笑みが漏れた。
「惣太ぁ?」
おそらく今日は惣太がいるだろうと思って声をかけるけれど、帰ってきたのは野太い「お疲れ様です」だった。惣太はいないようで、見回すと近くのやつが救護室にいると教えてくれた。ならばと稽古を続けさせて救護室に行くと、まだ臥せっている子犬こと正悟と話していたようだった。
「あ、師範。どうしたんですか?」
「別に。体調どうだ、正悟?」
「おかげさまで、ぼちぼちです」
ふぅん、と聖は鼻を鳴らして一つ頷いた。正悟の回復は早く、もう起きられるし動き回ることもできる。それなら少し外を歩き回ったほうが良いかもしれない、と誰のためにかわからないことを思いついて胴着姿の惣太を着替えに行かせた。正悟にも着替えを持ってこさせ、その場で着替えさせた。
「何するんですか?」
「ちょっと出かけようかと思ってな」
「見回りですか」
「散歩」
不安そうな目で惣太に見られ、聖は薄く笑んで彼の頭をかき回した。うわ、と声を上げて嫌がる惣太が楽しくてグシャグシャと掻きまわして笑っていると、牙を剥いた惣太に振り払われた。やっと振り払うようになったか、となんだか弟分の成長が嬉しくなる。
いくぞ、と促して特に目的もなく城下に出た。まだ眼帯をつけたままの聖はちらちらと目を向けられる。それが珍しいものに対して向けられるものか心配の視線かは分からない。けれど声をかけてくる女たちはみんな魅力が上がったとはしゃいでいた。惣太が団子が食べたいと言い出したからじゃあ食うかと軽い気持ちで茶屋に入った。
「聖さん!久しぶり……怪我してるの!?」
「ご無沙汰。ん、大した怪我じゃねぇよ」
「……相変わらず」
お茶屋の看板娘は聖が入ってきたとたんに接客をやめて寄ってくるし、注文してもそれを伝えるだけでどこかに行きそうにないどころか聖の隣に腰を下ろしてしまった。相変わらずよくモテる、と惣太が呟くと隣で正悟が不思議そうな顔をした。いつものことだよ、返して店内から怒鳴っている店主のところに自分の皿を取りに行った。
「聖さんが来てくれないから淋しかった!」
「忙しかったしな。ごめんな?」
「んもう!いっつもそう言うんだから!」
三人分の皿を持って戻った惣太が見たものは、いつもの掛け合いだった。言葉だけはいつもと同じだけれど、決定的に違うものがある。聖がひどく投げやりに言葉を発していた。いつもはもっとからかいを含めた声音で笑っているのに、どうして今日はこんなにも悲しい顔をしているのだろう。何に落ち込んでいるのか分からないけれど、その顔があの頃にひどく似ていて惣太は思わず唇を噛んだ。
「なぁ、角倉大将はいつもああなのか?」
「……まあ、たいていは」
苦い顔のまま正悟に団子の皿を渡し、惣太は聖の隣に腰を下ろした。大抵はこうだけれど、こうじゃあない。もっと何か、どこかが違う。それが上手く言い表せないのがもどかしい。
聖は看板娘に仕事を促し、彼女が離れてからちらりと少年二人を見た。複雑な顔をしている惣太の頭に手を置いて、正悟に視線をやった。惣太が差し出す団子の皿を受け取り脇に置くと、何も言わずに視線を戻して空を見上げ薄い雲に目を眇める。その聖に行動に惣太が声をかけようと思ったが、聖の手が団子の串に伸びたのを見て口を噤んだ。
「なぁ、正悟」
「はい」
「怪我が治ったらでいい、帰りたくなったら国に帰れ」
「分かりました」
帰れと言った聖の顔は常と変わらないように見えた。けれど惣太には分かる。彼を拾ったのは聖だし、気にかけていたのも聖だ。このまま帰られたらきっと淋しそうな顔をする。けれど惣太にしてみれば信頼する前に逃げてくれた方が安心ではある。聖にこれ以上辛い思いをさせたくないからこそ、彼が何かに希望を見出すことが怖い。
「聖さん!」
「なんだよ?」
「……なんでもないです」
「は?お前から呼んだんだろ……」
あきれた声を出して、聖は何か思いついたのかにやっと口元を歪めた。そうして、今夜貪婪に顔を出すかと提案する。その案に惣太は内心賛成ではあるが一緒と言うのがなんだか腰を引かせた。聖は戦以来花街に足を踏み入れていないから、行ったら大混乱になるだろう。惣太が顔を出して軽く説明はしてあるけれど、それでもまだ彼と一緒に遊びに行くことに抵抗を覚えはした。
−続−
聖さんがすこぶる自由に見えるんだけど