美月に、良いから聖さんも見てくださいと言われて柊姫の稽古に付き合わされた。お茶のお稽古なので着物で、などと言われたので朝から稽古道場に顔を出そうと思っていたのをやめて実家で着物をしっかり着て柊の部屋に入った。既に準備をしている美月と柊、瀬能の姿も見えた。


「聖!?」

「おはようございます、瀬能様。美月さん、俺約束守りましたよ?」

「ありがとうございます」


 褒めて、とでも言いたげに聖は美月に笑顔を向けた。美月も微笑んで聖の着物の裾を握り、ふっと離れてお茶の準備に戻る。なんだか物足りなくて、聖は僅かに口元を歪めた。けれど言葉には出さずに柊姫の動向を窺う。聖と美月のふれあいを羨ましそうに眺めていたし、今だってちらちらと瀬能を気にしている。これは確かに、兄妹の情にしては目線が、熱い。


「聖さん、瀬能様。どうぞ」


 美月に声をかけられて、それまで部屋の端で佇んでいた聖と瀬能は指された座に並んで腰を下ろした。隣ではなぜか瀬能が緊張しているがその意味も分からず聖は柊がお茶を立てるのを見る。美月がニコニコしているから問題はないのだろうと安心しているが、やはり瀬能はそう思えないのだろうか。けれど、それともどこか違う気がして聖は首を傾げた後にそっと瀬能の耳元に唇を寄せた。


「瀬能様、なんか緊張してます?」

「……っ別に!」


 聖がひそっと声をかけると瀬能がビクッと体を竦ませた。別に、といいながら耳を塞いで赤くなっている。一体何事だ、と周りから突込みが来ないから聖には分からない。惣太でもいれば聖自身のせいだと突っ込んでくれただろうが、残念ながらそれは望めないし、この場に突っ込んでくれる人はいない。
 聖が首を傾げている間に柊がお茶をたて終わったのか、顔を上げて持ってきた。緊張している面持ちで瀬能と聖の前に器を置く。それを一礼して受け、聖は手に取った。慣れた仕草で器を回し、ぐっと飲み干す。少し苦いか、と思いながら器を置くと柊の不安そうな目があった。条件反射のように「結構なお手前で」と言葉が出て、今でも覚えてるんだなと少し驚いた。


「美味しかったですよ」

「ありがとうございます!」


 聖の言葉にパッと顔を綻ばせた柊は、次にその隣の兄に視線をやった。聖に向けたよりも熱い視線に、瀬能自身は気づいていない。
 ちらりと美月を見ると、彼女は何かを訴えるように聖を見ていた。それを逸らして逃げて、一つ息を吐く。美月が聖に向けるのとは違う視線なのは分かっている。聖が自分で否定しようとしているからまだ希望があるように見えるが、客観的に見ればどう見たって恋した少女と同じだ。聖が外でしばしば感じるものと変わらないから逆によく分かる。


「兄上、いかがでしたか!?」

「よくできたな、柊」

「ありがとうございます!」


 聖にしたものよりも数段いい笑みで、柊は笑っている。恋する女の子の笑顔だなぁ、と思いながら思ってはいけないことだと思う。瀬能は気づいているのだろうか。鈍感だから気づいていないかもしれない。気づいたらどうするつもりだろうか、と考えて聖は立ち上がった。どこへ行くのかと問う美月に笑って部屋の外に出た。なんとなく煙草が吸いたい、と思った。


「聖さん!」

「……美月さん、追いかけてきたんですか?」


 外に出て煙草をあさっていると、美月が出てきた。片付けは良いのか、とか二人にして良いのかとか突っ込みたいことはたくさんあるが、火を点けて吐き出した紫煙がそれをかき消した。二人きりにしても今更だろう。美月に視線をやると少し嫌そうに顔を歪め、おもむろに袖で顔を覆った。あぁ、煙草の煙がいやなのかと思いながら構わずに紫煙を吐き出す。


「聖さん、どう思われました?」

「どうって……まぁ、女の勘てすごいですね」


 俺、そんなの信じてなかったんですが。そう呟いて聖は天井を見上げた。窓からは薄い雲に覆われた空が見える。もうすぐ梅雨が近づいてきているのだろう。そういえば、そんな時期かとひどく他愛のないことを考えた。今まで女の勘なんて全く信じていなかった。今だって信じちゃいないが、よくあの美月に分かったものだと不思議だった。


「まあ後一月もしたら嫁ぐんです。それまではもちますよ」

「そうかしら……」

「大丈夫ですって。俺たちだって傍から見れば仲良しですし」


 ね、と笑って聖は言葉を切った。それ以上の言葉はない。本当に大丈夫だろうかと言う懸念は聖の中にもある。けれどおそらくはあれは女が男に向ける感情ではなく依存した家族愛だ。幼い故の初恋、幼子が母親と結婚したいというのと同じだ。ただ瀬能がそれを分かるだろうか。彼とてまだ女を知らない。恋を知らない。恋を知らない聖が言えるかは怪しいところだが、それを本物の恋だと錯覚する可能性がないわけじゃあない。
 まぁ、ないとは言いきれないと思いながら聖は楽観した。










 太陽が姿を見せたのか辺りが明るくなってきて、正悟は目を覚ました。昨夜、問題を起こした師範が説教を食らい終わって道場にやってきたのは丑の刻に入った頃だった。心配性な少年と副将から一人で救護室を出してもらえないので、彼はずっと此処で同じことを考えていたが、入ってきた疲弊しきっている師範の為に其の思考を中断した。救護室から顔を覗かせれば、道場の真ん中に寝転がっていた。


「……うん」


 竜田国に拾われて一月が経とうとしていた。完全に傷が治ったことを確認して小さく頷き、正悟はそっと懐に触れた。入っている長細い其れの冷たさに微かに眼を細め、道場の床で寝入っている師範の為に自分の使っていた掛布をかけてやる。整った顔を見下ろして、正悟は困ったように眉を寄せた。
 声をかけようかどうしようかと眉間に皺を寄せると、大きな声が一つ飛び込んできた。


「しはーん、帰ってますか?」


 彼と出逢ってから考え続けていることを再び巡らし始めたとき、惣太が飛び込んできた。太陽が出たと言っても梅雨に向かうこの時期、薄暗くとももう活動を開始していてもいい時間だろう何の不思議も無いが、なぜ彼は師範が此処にいると確信してやってきたのかは分からない。師範と正悟の姿を認めて、惣太は一瞬だけ顔を険しくした。しかし直ぐにいつもの明るい顔に戻る。


「正悟!寝てなきゃ駄目だろ。師範は起きてください」

「もう、大丈夫だ……」


 ほんの一瞬だ。惣太の表情から笑みが消えた一瞬だけ背後に焼け付くような恐怖を感じて正悟は言葉に詰まった。どうにか自分はもう大丈夫だと告げると惣太は微かに疑わしげな視線を正悟に向けるが、彼も分かっていたのか納得して師範の横にしゃがみ込んで顔を覗き込んだ。
 此処はいつだってそうだと、正悟は思う。温かなところだとは思う。自分に向けられる視線だってよそ者に向けるには親密すぎる。それは大将の人柄のせいなのだろうが、それが妙に心地よくて、違和感がある。そして偶に向けられる苦しくなるくらいの疑心の視線。当たり前だと思っていたが、不自然なのだ。


「師範、起きてください」

「……やーだ」


 眼を閉じたまま聖が苦笑して、すっと惣太の首に腕を回した。身体ごと引き寄せてついでに袷から腕を進入させようとする。流石の惣太は真っ青になって悲鳴を上げた。彼は女が大好きだが、男だって寄ってきたら拒まない。そして彼の最も悪いところは、来る者拒まず去る者追わず(男女問わず)だ。
 噂に聞く彼のその性を間近で初めて見た。


「ぎゃー!寝ぼけてないでください聖さん!!」


 色気もなにもない悲鳴に聖はようやかう煩そうに瞼を上げた。焦点の合わない目で惣太を見つめ、やがて不機嫌に惣太を離してごろんと背を向けるように寝返りを打つ。それがひどくばつが悪そうと言うかなんというか、正悟の目に可愛らしく映った。


「……紛らわしい……」

「それ以前に何考えてんですか!」


 キッと聖を睨みつけ、惣太は本気で貞操の危機を感じたのか目を乱暴に擦った。ほんの少し出ていた涙が姿を消す。気を取り直して、とでも言うように惣太は聖の前に回りこんで仁王立ちに立った。怒ったように唇を尖らせると、聖が寝転がったままダルそうに惣太を見上げ、クスリと笑みを零す。


「惣太、それ可愛い」

「黙ってください」

「で、お前何しに来たわけ?」

「吉野さんが、見回りにでも行って来いって言ってます」

「あそ」


 半眼でそういうと、聖はゆっくりと体を起こした。面倒くさそうに髪を掻き揚げ深く息を吐き出す。それから何故か周りを見回すと正悟の姿を認めてニカッと笑った。立ち上がって、ぽんと彼の肩を叩く。彼の瞳からはいつだって、こちらが疑いたくなるほどに温かな色しか見えない。およそ他の兵たちとは違い、聖だけが何の疑いもない笑みを向けてくれた。


「一緒に行くか」

「え……」

「たまにはいいよな」

「聖さん!俺も……」


 なんだか妙に必死な顔をしている惣太をちらりとみて、正悟は唇を噛む。懐には人肌に温まった刃がある、向けられているものは悪意にも似た警戒の色。そうして、聖から向けられるのは無上の慈愛。その合間に揺れながら、正悟は今聖の後をついて行くしかできない。
 そしてそれはまだ、確かめているような観察しているような、曖昧なものだった。










 外に出た聖の後について、正悟はずっと何も言わなかった。聖が振ってくる言葉の数々に生返事をむけ、ずっと懐の塊を気にしている。
 どこをどう歩いたのかも覚えていない。聖がどこで止めて誰と話し、何を見ていたかも覚えていない。ただ彼は人気があること、小競り合いならその存在だけで消し去れること、この国にとって角倉聖と言う人間はひどく大きな存在なのだということは分かった。


「なぁ、正悟」


 人気のない道を歩いているのは、そこで喧嘩をしていると通報があったからだ。聖が行って速攻収め、町に戻る途中に声をかけられた。意識がここになかった正悟がハッとして足を止めたのは彼よりも数歩歩いたときだった。顔を上げて聖を見ると、ひどく優しい笑みを浮かべている。優しいというよりは切ない、悲しい笑みかもしれない。


「お前、国に戻る気あるか?」

「……この間まで臼木の奴がいてさ、そいつが戦を機に実家に帰ったんだけどさ」


 聖はあえて柔らかい表現で笑って見せた。けれど正悟はそれが先の臼木と竜田の戦であることを知っているし、松井田に間者に入っていたとはいえ臼木の人間で内情も知っている。だから、その人間がどこの地位にいる人間かはわかるつもりだ。正悟自身、貧乏ではないが裕福でもない家庭で育ち、雑兵とでも言われるような地位を掴み取った。聖が何をいいたいのかも、分かるつもりだ。


「そいつ、生きてるかどうか分からねぇから……」

「任を果たせず逃げ帰ったのなら、臼木は生かしはしないでしょう」


 それがたとえ、良家の子息だとしても臼木は命を奪うのだろう。そういう国だ。正悟とてこのまま帰ったとしても殺されるだろう。ならばこちらに寝返れば命は助かるだろう。けれど国には、愛する人を残してきた。親が、兄弟が、恋人が。みんな帰りを待っている。松井田に行く際も、涙を浮かべて見送ってくれたのだから。己の進退について考えて、まず思い浮かぶのは恋人の顔だから。


「俺はお前が仲間になったら嬉しいけど、帰るってんならなんかいい方法見つけてやるから」

「……ありがとうございます」


 この人は本当に心配してくれているんだ、と思った。思ったけれどそれ以上に胸を締め付けるものがある。
 おそらく天才軍師、角倉聖の首を取って帰れば今度の件は処罰がなしどころか恩賞すらいただける可能性がある。けれど相手は天才で、愛されている。それはここ数日で分かってしまった。この国はひどくこの男を愛し、また聖も国を愛している。だからこそ、苦しい。


「よし、煙草買って帰るか」

「はい……」


 笑って頭をくしゃっとなでた聖に正悟は笑い返すことができなかった。ただ引きつった表情で彼を見上げ、無意識に懐中の鉄の塊に触れる。これは人肌の温度をしているけれど、ここから出せばすぐに冷たくなる冷酷な塊だった。





−続−

美月さんと聖さんも異常に仲良し