手のひらの包帯を変えると、白いはずのそれは赤黒い染みがついていた。けれど手の傷は塞がったようで新しいものに滲んだ様子はない。吉野が治療してから、朝方に近い時間に帰ってきた皇里にたたき起こされて治療された。変な時間に起こすものだから聖は二度寝を決め込み、次に目を覚ましたら昼を回ったところだった。自分で包帯を替えて着替えを済ませ、飯でも食べに行こうかと思っていたら兵が瀬能様が呼んでいると言われたので一瞬考え瀬能の部屋に向かった。


「瀬能様、俺です」


 まだあくびを噛み殺しながら聖は領主の政務室の扉を開けた。けれど中にはだれもおらず、呼んだんじゃねぇのかよ、と思わず呟くとそれを聞いていたかのようなタイミングで奥から美月の声に呼ばれた。奥の私室の方に顔をのぞかせると五対の視線が一斉に向けられ、思わず聖は帰りたくなった。戻って道場で稽古でもしようか、隻眼だし。現実逃避のようにそう思う。
 原因は分かっている。いるとは思わなかった人物が部屋にいたからだ。瀬能と美月、柊姫がいるのは分かっていた。光定だっていておかしくない。けれど、父親がいるとは思わなかった。否、役柄いておかしくないのだが聖の予想の範囲外にいたのだ。


「聖さん……」

「……俺、出直しましょうか?」


 できれば出直させてください。正直に聖はそう思ったし、体は踵を返したがっている。
 重い重い空気が流れている。状況から見るに、柊姫に婚姻の話を伝えたのだろう。そして彼女は嫌だという。自分の察しの良さを後悔することは多々あれど、こんなに後悔したのは久しぶりだ。本当に、帰りたい。けれど帰してくれるわけがないことも知っているので聖は一度深呼吸をすると部屋の中に足を踏み込んだ。おそらく自分が腰を下ろせるのは、美月の隣だろう。
 そこに腰を下ろしてあたりを見回すと、瀬能と柊の泣きそうな視線が向けられる。二人に訴えられても困るんだけど、と言いたくなったけれど大人の目があったのでやめた。


「聖……」

「………。えと、俺になんて言ってほしいんですか?」


 結局口から出てきたのは、無慈悲な言葉だった。なんて言ってほしいかなんて知ってる。婚姻の話はければいい、俺がどうにかしてやる。そう言ってほしかったに違いない。けれどそれは聖の役目でなく義務でなく、優しさでもない。それは優しさではないと思っているし、そんな甘さを持ち合わせてもいない。
 瀬能だって子供じゃあない。聖が言いたいことを察して唇を噛んで俯き、柊だけが何かを言いたそうにまだ聖を見つめ、訴えてくる。幼い姫には分からないのだろう。聖は彼女くらいの自分に分かっていただろうか。自分が、道具でしかないことが。人は道具なんかじゃないなんて綺麗ごとは、言える。誰にだって言えるけれど、言ってはいけない。貴族には自由がある。けれど同じだけ不自由もある。聖は角倉になってそれを初めて知った。


「柊様は、お嫁に行きたくないんですね」

「………」

「でも納得できる答えなんてありませんよ」


 子供が納得できる理由など、ありはしないのだ。だから聖ははっきりとそう答える。子供だからって嘘を伝える気はない。慰める必要もなければ淡々と諭すこともできない。だから理不尽であっても受け入れなければならないのだ。柊はお姫様だから、なんて言ってもわかりはしない。
 これ、来た意味あるのか。ちょっと聖が思ってしまった瞬間馬鹿らしくなった。これだけ大人がいるのにどうしてこんなことも言ってやれないのだろうか。もう本当に、意味が分からない。この重苦しい空気も面倒になって聖が腰を浮かせようとした瞬間、光定に止められた。


「柊様の輿入れまで一月足らずだ。その間に聖、お前に柊様のお世話を頼む」

「……はい?」

「護身術程度は身に着けておいてもらわなければ困る」

「はぁ……」


 何の意図があってか分からないけれど、そう言われたら断ることもできずに聖は曖昧にうなずいた。もしかしてこれが言いたかっただけなのかな、とか思って今度こそ腰を浮かせると今度は何も言われず、聖は部屋を出た。一体何しに来たんだ、と思いながらポケットに手を突っ込んで煙草を漁る。乱暴に口の端で引き出して外に出るまで咥えていた。外に出た瞬間に火を点け、やっと紫煙を一つ吐き出す。さてこれからどうしようか。フィルターを噛んでそう思ったところで、後ろから服を引かれた。


「ひ、聖!」

「へ?……どした?」

「……話がある」

「はぁ……」


 光定と角倉のいないところで、と言われて聖は煙草一本分待ってくれるように頼んだ。何を言われても困るし何を言われても上手く交わせる自信もない。煙草一本分じっくりと考え込んだけれどどこにも答えは落ちているわけもなく浮かんでくるはずもなく、結局なんの対応策もとらずに聖は煙草をブーツで踏み潰して道場の救護室まで瀬能を促した。
 ここなら誰もいないだろうと予想したし確かに誰もいない。聖にとっては適度に兵たちの声も聞こえてきて、耳慣れたそれはただの心地よい雑音だが瀬能はそうではないらしく、そわそわしていた。


「で、何?」

「あの……あのな?」

「うん、何」

「………」


 ここまで来て何、と問うても瀬能は言いにくそうに口ごもって俯いてしまい、聖は短く息を吐き出すと足を組んで天井を見上げた。この態度が瀬能を萎縮させるのは分っているけれど、領主がこんなことでうろたえてはいけないとそれ以上に思う。好きだとか守りたいとか、それ以上にそのあるべき姿の方が大切だと思う自分は間違っているだろうか。その答えを聖は、もっていない。
 どれほどそうしていたか、しばらく黙っていると瀬能がようやく俯いたままポツリと呟いた。


「この話が国にとってどれほど益のあることか分っているし、柊が嫁に行かなければならない理由も分かっている」

「……あぁ」

「柊が……柊が、私と離れたくないと言って」

「だから、それはまだ子どもなだけだろ」

「でも!」


 泣きそうな目で、聖を見つめてでも柊が、と言う瀬能がどうにも痛ましく見えた。無意識のうちに腕が伸びて瀬能の背を掻っ攫う。自分よりも遥かに小さな背中を腕の中に閉じ込めて、聖は小さく歌うように「しょうがないだろ」と言った。どれだけ瀬能が柊のことで思い悩んでも、しょうがない。たった一人の肉親に対する情は分かる。けれど領主としての瀬能が今必要とされている。だから聖は、落ち着かせるように瀬能の背をなでた。


「柊様も直に分かる。美月さんだって説得するし、瀬能が弱音を吐いてどうなる?」

「………」

「今は辛いだろうけどさ、瀬能は領主なんだから」

「……分かってる」


 なら良かった、と聖は笑って瀬能を解放した。少し赤いのは胸に押し付けられていたからだろうか。緊張で赤くなってくれればいいと、少し思う。腑に落ちないような顔をしてふてくされていたけれど、聖が顔を覗き込むとパッと顔を上げて瀬能は立ち上がった。


「聖。ありがとう」

「どいたしまして」


 部屋から出際、立ち止まった瀬能がこちらも見ずに小さく告げる。耳まで赤くなっているのを後ろから見ながら、僅かに笑みを浮かべた声音で答える。一瞬足を止めた瀬能は、なぜか走るように部屋を出て行った。それを見送って、見えなくなった瞬間に聖の口元が緩む。誰も見ていないけれど慌てて手で口元を押さえて、天を仰ぐ。顔が赤くなっていなければ、いいけれど。










 とぼとぼと自室に引き上げた柊は不貞腐れたように寝台に体を投げ出した。それを見ていた美月がもの言いたげに胸の前で手を合わせ、しばらくは黙っている。けれど柊が何も言わないと知ると、彼女の寝台にそっと腰を下ろしてすっと頭をなでた。美月が十一のときに家にやってきた弟。その弟の頭をこうして撫でたことは何度かあった。けれど彼は美月に何も本当のことを告げてはくれなかった。それが聖の優しさだと今なら理解できる。けれどあのころは、何も分かっていなかった。


「柊様は瀬能様大好きですものね」

「………」

「今はその瀬能様が困ってらっしゃるんですよ?柊様しか助けて差し上げることも出来ないんです」


 ゆっくりと、美月は返事がないのを分かっていながら柊に語った。彼女の立場、姫と言う人間の存在意義、そして現在のこの国の情勢。おそらく聞いて理解してはいるのだ。けれど柊は己の感情と上手く折り合いがつかない。子供だから駄々を捏ねて許してもらおうとしているだけだ。子供が玩具をほしがることと何も変わらない。それは、美月がただ聖を愛したことと、変わらない。
 全てを語り終えて黙っていると、柊がぽつりと呟いた。


「柊は……兄上が好きです。兄上と一緒にいたい、兄上のお嫁様になりたいです」

「兄妹ではご結婚は出来ないんですよ」

「でも!柊は兄上が一番好きなのに……」


 兄上以外ほしくない、何もいらない。そう言ってなく子供は、美月の手に余った。美月にはその感情は分からない。聖に対して抱いたものとは全く違い、おそらく生涯抱くこともないだろう。誰かをこんなにも愛しく思えるものだろうか。家族の、親愛の情以外の者に対して持つことを諦めている愛情を、美月は知らない。それとも聖ならば上手く説得できるのだろうか。


「兄上だけいれば、それでいいのに」

「柊様……」


 美月の口から痛ましい声が漏れる。自分では無理だと、悟る。美月ではこの幼い姫の説得は出来ない。あとどれほどの時間があるだろう。あとどれだけ、猶予があるだろう。柊が兄の瀬能に対して必要以上の愛を消し去ることはできるだろうか。それが間違いだと気づくことが出来るだろうか。それがただの家族の愛だと、思い出せるだろうか。
 それ以上何も言えなくて、美月は部屋を出た。とぼとぼと館を出て、家に帰ろうかと思案する。けれどそれを実行する前に、道場から出てきた聖の姿があった。


「聖さん!」

「……美月さん?」


 思わず声をかけて足早に近寄ると、聖が不思議そうな顔をして待っていてくれる。どうしたんですか、ということをしなかった聖は、辺りを見回して近くの茶屋に誘ってくれた。美月さんとデートなんて道中笑っていたけれど、おそらく美月が笑ってなかったことなんて百も承知だろう。すぐ近くの茶屋で聖がおいしいという団子を頼んで、お茶で一息ついたところでテーブルに頬杖をついた聖が美月の顔を覗き込んだ。


「柊様ですか?」

「……はい。私、どうしたら良いのか分からなくて」

「美月さんの説得がだめだとなると、もう手もないんですけどね」


 へらっと笑って聖は団子を口に含んだ。串を銜えてゆっくりと上下にからかうように揺らす。むっと美月も団子を口に含むと、柔らかい甘さが広がって少し驚いた。確かに美味しい団子だ。そんな美月の姿に笑って、聖は大丈夫です、とはっきりと言った。


「何が大丈夫なんですか?」

「なるようになりますし、最悪あと一月もないんです」

「でも……」

「瀬能様の方もちょっと気になる様子がありますしね。まぁ、なんとかなりますよ」


 瀬能様の様子が、と美月が首を傾げると、聖は苦笑して柊姫のことを気にしていると言った。ただ瀬能の場合はすぎた執着の家族愛だと聖は笑う。けれど美月は、彼の笑みがそれだけではないことを知っていた。だってそれだけならば、聖はこんな顔で笑わない。きっと何か別の理由があるのだろうと思いながらも美月はしぶしぶ頷くしかなかった。





−続−

柊編、異様に難しい……