何が柊をそうさせたか知らないけれど、あれから一週間、柊は毎日道場で護身術の稽古を受けた。美月が毎日連れて来て、終わってからはまたほかの稽古に戻ってしまうので聖は道場にいる時間しか知らないけれど、美月に話を聞く限りでは真面目に稽古を受け夜には瀬能と残り少ない家族の時間を過ごしているのだという。諦めたのか、何か考えがあるのか。分からないけれど、あとたった二週間足らずでここを出て行く。芳賀までの旅程に一週間ほどかかるから国にいられる時間はたった二週間、だ。


「芳賀かぁ……」

「不参加は無理ですよ」

「わーってるよ」


 そろそろ芳賀への遠征について考えなければならず、聖は珍しく髪を括って地図を睨んでいた。芳賀へ行くためにはまず国を西へ向かい、西関から芳賀入り、そこから更に倍近い旅程で芳賀の首都まで行かねばならない。竜田軍のみの行軍ならば三日あれば往復できないこともない距離だが、柊姫はもちろん重鎮数名も同行するとなればそうは行かず、片道一週間できくかどうかと言うところだ。
 それを吉野とお茶を片手に議論し合い、ようやく一週間では危ういからもう少し余裕を持って出立しようということに決定した。その決定をすぐに瀬能に伝えにいくために軍服を着ている聖は、だるそうに口に銜えた煙草を吹かしてソファの背もたれに背を預けて伸びをした。小さく漏れた呟きを聡く拾った吉野に先に釘を指され、少し乱暴に返事を返す。けれど聖の胸の中には変わらずに燻っている思いがある。


「師範、芳賀に行きたくないんですか?」

「……別に」


 惣太と一緒に書類整理をしていた正悟が、不意に口を開いた。不思議そうなその言葉に聖はどう答えようか一息分思案して、紫煙を吐き出してから結局無難になんでもないと返した。形にしたらいけないような気がして、聖自身が口に出せない言葉がある。胸のうちではその原因が過去が絡んでいることを分かっている、期待だか恐怖だかに足を絡められていることも知っている。けれどそれは吐き出した瞬間に形になってしまいそうで、こわかった。


「正悟くんは知らないんでしたね。聖さん、芳賀の女性に振られたそうですよ」

「だから行きたくないんですか?」

「そういうことみたいです」

「吉野!」


 人のトラウマを軽くこじ開けやがって、とはじめこそ聖は声を荒げたけれど、逆にここまで軽くされると心が軽くなるような気がした。自分では陰陰滅滅としているあのときの記憶がたったこれだけの軽いことに置き換えられる。それのおかげでひどく心が軽くなったような錯覚に陥った。ただ、惣太はまだしも正悟の視線がものすごく冷たかった。
 だから聖は、煙草を灰皿で押し消して立ち上がった。これ以上こんなところにいたら心が折れてしまうかもしれないからとっとと脱出することに限る。きっと惣太も上手く説明してくれるだろう、と全てを丸投げしていく形で聖は部屋を出て、館へ向かった。










 聖が芳賀に遊学と称して足を踏み入れたのは、十六のときだった。角倉に引き取られても反発し家には滅多に帰らずに遊び歩いていた。海と言うものを見てみたくなり、ふらりと芳賀へ行った。関所を通過した記憶はないので野山を越えたのかもしれない。よく覚えていないが。後で光定が遊学扱いにしてくれたと知ったときには当時は余計なことをと思ったけれど、今となっては感謝している。だからこうして生きているのだから。
 芳賀で、聖は始めて恋をした。そして初めての失恋を経験した。その記憶がもう七年も前のことだと言うのに忘れられずに燻ってる。だから芳賀には正直行きたくなかった。けれどこれも仕事だからと腹を括ったつもりでいたが、どうにもやる気は出ない。けれど、という思いも僅かにある。もしもまた偶然でも必然でも会うことが出来たら。話をできたら。今度こそ、捕まえておくことが出来たら。そうしたら、どんなに嬉しいことか知れない。そんなことを、心のどこかで妄想しているから行かないともいえないのかもしれない。
 そんなことをぼんやりと考えながら館の階段を昇り、瀬能の部屋へ行く。この時間ならばもう政務も終わっているだろう、柊姫と遊んでいるかもしれない。そう思いながら、聖は軽くノックしながら瀬能の部屋を空けた。


「瀬能様、柊様の輿入れの件で……」

「っ!?」


 その場で見たものにどう反応するべきか一瞬にして考えて、聖は答え探すように天を仰いだ。
 瀬能は、壁に寄りかかって眠っているようだった。その前で、柊姫が瀬能の唇に己のそれを押し付けている瞬間。これがただの男女の間ならば聖は何食わぬ顔で帰ることができただろう。けれど相手は兄妹だ。これを悪いことと諭すべきなのかそもそもどういう反応を示せばいいのもか、全く分からない。聖が入ったことに気づいた柊がぱっと身を翻して傍を離れ、目があった。けれど言葉は、出てこない。


「……聖?」


 さて何を言おうか、と聖が部屋に入ったとき、それまで眠っていたらしい瀬能が目を覚ましてまず聖の名を呼んだ。目の前に聖がいたからかもしれないが、瀬能の視界の外で近くに立っていた柊には気づかなかったようでひどく悲壮な顔をしていた。
 とっさに聖は瀬能に笑いかけてずかずか上がり、瀬能の隣に腰を下ろした。柊を隠すように瀬能の肩を抱き寄せてる。


「ちょっ……聖!?」

「瀬能あったけ」

「何をしに来た!」

「芳賀行きの件で話があったのに、お前寝てんだもん」


 適当に会話を交えながら手を離し、その間に柊がやってきたふりをするつもりだった。ゆっくりと瀬能を解放して、柊に向かって「いつのまにいらっしゃったんですか」と声をかける。あくまでこの部屋に先にいたのは聖だという体裁を取り、動けないでいる柊を適当な椅子に座らせた。
 瀬能は唇が気になるのか何度か指先でなぞっているのを見たけれど、今はあえて追求しなかった。


「芳賀行きは十日後という形でよろしいですか」

「十日……」

「旅程的に余裕を持って、西関で調節しようと思って」

「分かった。柊も、いいな?」

「……はい」


 確認すると一瞬だけ瀬能は淋しそうな顔をした。けれど別に別れが早くなるわけじゃあないと告げれば笑顔に戻って、少し難しい顔をして柊姫に言い聞かせる。瀬能よりももっと難しい顔をした柊姫は、それでも瀬能の言葉にこくんと一つ頷いた。それがあまりにも淋しい顔をしていたからか、瀬能は柊の手をぎゅっと握って笑いかける。


「柊、遊びに行くか」

「はい!」


 瀬能の提案を柊が飲まないわけもなく、途端に嬉しそうに顔をきらめかせた柊の手を引いて瀬能は聖の顔を覗き込んだ。こんなところでねだられることは一つしかない。聖はまだやることが残っているし瀬能だって仕事が残っているんじゃないのだろうか。けれどキラキラした目を向けられて聖に断れるわけがない。後少しだし、と考えてしぶしぶ了承するしかなかった。少し待っているように言って近くの兵に吉野と光定への伝言を頼み、美月が近くにいれば一緒に行こうと誘おうと思ったけれどいなかったのでやめて、裏の山へ向かった。










 もうすぐ梅雨か、とふと聖は気づいた。足を踏み入れたその小山は葉の色を深い緑に変え始め、桜の面影はない。あの時桃色に染まっていただろうに、ずいぶんと変わってしまったものだ。それは聖も竜田軍も、同じか。自嘲気味にそう思い、口元が揶揄の笑みを作る。結局変わってしまえるのだ、自分は。
 眼の前ではしゃいだ声を出している柊を見送り、聖は天を仰ぐ。空はまだ、雨をもたらしそうにない。何気なく煙草を探しだして口に含み、けれど火をつける気にならずに唇で上下に揺らした。


「兄上!見てください、お花が咲いてます!」

「柊、転ぶんじゃないぞ!」

「はい!」


 はしゃいで走っている柊姫に声をかけて、瀬能は物言いたそうに聖を見上げる。それに気づければよかったけれど、それに気づくことは出来ずに聖はやっと煙草に火を点けて紫煙を吐き出した。夏に向かう前に湖の方に行ってみようか。最近は散歩もロクにできていないから気晴らしにいいかもしれない。そう、思った。


「聖……」

「ん?」

「……あの」

「兄上!」


 名を呼ばれて聖は視線を落とした。瀬能はなんだか必死な顔をしていて、これは何かあったとぼんやりしていた顔に力が篭った。十分に瀬能が迷った末に声を出したのだろう。聞き逃すまいと耳を澄ましていた聖は、けれどその言葉の先を聞くことが出来なかった。柊が瀬能の元に駆け寄ってくる。ぽすっと彼の着物に抱きついて、それからちらりと聖の顔を見る。その目が少女のものとは思えず、思わず声が漏れそうになったのをむせた振りして誤魔化した。
 この目は少女のものじゃあない。女の、目だ。獲物を狙い、邪魔な障害物を敵視しあまつさえどこかへと葬り去ろうとする目。確かに柊くらいならばそんな目をしてもおかしくないとは思う。何かに貪欲になる目だからこそ、おかしくはない。けれど状況が状況だけに、見たいものじゃあない。


「……美月さんも連れてくりゃよかった」


 心の底からそう思い、聖は紫煙を深く吸い込む。美月さえ連れて来ていれば一人でこんな思いをしなくてすんだし、他の話だって出来たのに。今は、柊に手を引かれて遠くなる瀬能の背中を見るしか出来ず、たった一人でつまらない。失敗したなとぼんやり思いながら、吸い込んだ紫煙を吐き出し彼らの後を追った。
 しばらく聖はぼんやりと瀬能と柊を見ていた。かくれんぼをしたり鬼ごっこをしたりと二人なのにとても楽しそうだ。けれどしばらくしたら柊は疲れてしまったのか、瀬能の膝の上で眠ってしまった。まぁ、確かに昼間稽古三昧ではそうなるかと納得できるがそのあどけない顔からは先ほどの目が想像できなかった。


「聖、あのな……」

「ん?」


 柊の頭を撫でながら目を細めていた瀬能が、不意に聖の名を呼んだ。見上げていた桜木から顔を戻して瀬能を見ると、ひどく真剣な顔をしていた。さっき言おうと思ったことを言ってくれるのかと「何」と問えば少し口ごもって、瀬能は自分の唇に触れる。その指先は、少し震えていた。


「……さっき、柊に口付けられた」

「なんだ、ばれてんのかよ」


 せっかくカモフラージュしたと言うのにばれたなんてつまらない。そう思って聖は少し笑った。その反応に瀬能の方が目を剥き、知っていたのかと声を荒げる。頬が少し赤く染まっている理由を図りかねて聖は瀬能の頭にぽんと手を置いた。だからどうだと言うことはないけれど、なんとなくだ。


「妹とキスしたなんて、気分よくねぇだろ?」

「そ、れは……」

「ついでにファーストキス?」


 わざといやらしく口の端を歪めて言ってやれば、瀬能の顔がカッと赤くなった。おいおい、どんだけ純情なんだよと多少呆れながらも聖は更に瀬能を追い詰めるために彼の背を預けている桜木に腕を預け、顔を近づける。ゆっくりと、唇を狙っているような仕草に瀬能は大きく動揺して手を突っぱねた。聖の胸を押すけれど、そんな些細な抵抗は無意味に等しい。


「だったら俺に奪われたと思ってた方が良いって、思わねぇ?」

「ひ、聖……」

「知ってるだろ?俺はお前が好きで、誰とでも寝る男だって」

「ちょ、待て!」

「しねぇけどさ。奪うだけは趣味じゃない」


 唇を近づけただけで赤くなった瀬能から笑って離れ、なんとなく持て余して煙草に手を伸ばした。こういうとき、便利だと思う。瀬能は少し嫌な顔をしたけれど、気にせずに火を点けて紫煙を吐き出す。これだけ初心では分からない。瀬能が何を言おうか嫌な予感だけがして、耳を塞ぎたくなった。けれどそれも出来ずに、次の瀬能の言葉が流れ込んでくる。
 純情だから、こわい。男も女も知らない人間が向けられた行為に対して思う感情が、こわかった。


「私は柊のことを、好いているのだと思った」

「妹だってんじゃあ、なくてか?」

「……あぁ」

「それはさ、瀬能。こういうこと?」


 予想通り、瀬能は柊に対する感情を捉え違えた。だから、聖は瀬能の手を無理矢理引っ張ってその場に押し倒す。膝の上の柊が目を覚まさないように体勢を入れ替え、瀬能の上に覆いかぶさった。目を白黒させている瀬能の両手を頭上で拘束し、着物の胸元を肌蹴させる。そして、全く興奮していない自分に気づく。好きな人を押し倒しているはずなのに、どうして高揚もせずに冷静でいるのか、分かりたくないから知らん振りをした。


「好きでたまらなくて抱きたいって思ってるってことで、間違いないよな?」

「ひ、聖……っ」

「じゃなかったら、恋じゃねぇよ?」


 グッと顔を寄せて、瀬能のおびえた顔を見てから体を起こした。手を離してやって、指先に挟んでいた煙草を口に運ぶ。
 妙に冷静だった自分には気づいている。けれどこれを恋じゃあないなんて言わせない。あのときだって、抱きたいなんて思わなかった。自分のものにしたいとは思ったけれど、手を繋ぎたいと思っても抱きたいなんて思わなかった。否、思ったことはあったけれど強く思ったわけじゃあない。だからこの気持ちも、否定しない。
 ゆっくりと体を起こした瀬能は、俯いてそっと柊の頭をなでた。何も言わずに沈黙が流れ、ひどく心地悪いそれに本当に誰か、美月じゃなくても誰かを連れて来ればよかったと後悔した。
 沈黙の中日が落ちる前に目を覚ました柊とともに館に戻った。ずっと無言を貫いていたためになくなった煙草の箱を握りつぶして、聖はもやもやする胸のうちを吐き出すために道場へと足を向けた。





−続−

聖さんかっこいいねー(棒読み)