芳賀行きを決定してから、聖は出歩く時間が増えた。見回りと称してぼんやりと外を遊び歩いているし、戻ってきてもたいていは道場にいる。夜番も一日やっただけで全部吉野に押し付けて、あとは花街に足を向けていた。
 明日出発という日の夕刻、惣太を連れて聖は朱門をくぐった。最近の聖の様子がおかしいことは惣太も気づいていた。だから吉野が全部仕事をしていたし、そのために文句の一つも言ってないことを知っていた。それだけ、今の彼はいっぱいいっぱいなのだろう。惣太だって、そう思う。否、惣太の方がそう思うこそ、聖に何も言うことができなかった。


「いらっしゃいまし」

「姫菜と、みどりさんいる?」


 貪婪の店先で、聖が一度ちらりと惣太を見た。そして姫菜の名を出し、いつものようにみどりを指名する。番頭だか旦那だか惣太は分からないけれどいつもそこにいる男は禿げ上がった頭をなでて「おります」と言って奥に姫菜とみどりの名を告げる。
 ちらりと視線を寄越す聖の口元が歪んでいるのが見て取れて、惣太は不満げに顔を歪めた。何を想像してるんだか、考えたくもないけど手に取るように分かる。仲間が出来たと思っているのだ。これで吉野に文句を言われるのが一人じゃないとか思っているのだろう。惣太は健全なお付き合いがしたいのに。


「いらっしゃい。今日は早いのね?」

「ちょっとみどりさんに話しあって」


 奥から出てきたみどりはまだ準備が済んでいないのか、簡素な格好だった。元から彼女も理解していたのだろう、惣太ににこりと笑いかけ、姫菜の支度に時間がかかることと部屋が用意されていることを教えてくれた。番頭だか旦那だかが惣太を部屋に案内しようと声をかけたけれど、惣太はそれを断った。準備が出来てないなら、一人で待っていても緊張でどうにかなってしまいそうだから、まだ気が紛れるこっちの方がいい。


「場所を移しましょうか?」

「いや、いい。明日から芳賀に行くことになってさ」

「そう、なの……」


 聖はあっけらかんとして言うけれど、みどりの方がひどく辛そうな声を出した。惣太は芳賀で聖に何があったのかを知らない。けれどみどりは知っているのか本人よりも痛ましい顔で聖を見ている。その顔がひどく不安そうで、それを見てから聖を見たら彼もなんだか困ったような煮え切らない表情をしていた。
 彼はいつか惣太に辛かった話をしてくれるだろうか。概要しか知らない惣太にとって、彼の口から聞くことが重要なので聞こうとは思わないけれど、そう思ってこぶしを握った。


「でさ、今夜はりーこちゃん呼んでくんねぇ?朝まで寝かす気ねぇけどそれでよければ」

「……よくなかったら?」

「みどりさんと呑む」


 にこっと、作り物の笑顔で聖が笑ったのを見てみどりが淋しそうに頷いた。それをみて惣太の胸が何となく痛くなったけれど、そんなものは無視した。聖の方がもっと痛いに、決まっているのだから。
 みどりが奥に戻ってしまい、聖と惣太は部屋で少しばかり待った。やってきたりーこと姫菜を見て聖は意外そうな顔をして、けれどすぐに笑顔で彼女たちを迎え入れる。すぐに部屋を追い出されるように別室に移動させられたのでそれから何があったのか惣太は知らない。けれど朝日が昇る前に惣太は本部に帰ったけれど、聖が帰ってきたのは出発の一時間前だった。










 芳賀に向かう輿入れの行列は、民にも楽しみにされていたらしい。道にたくさんの人が集まって行列を見ている。初めは聖もきりっと馬に乗っていたけれど、城下を出てのどかな風景が広がり始めたらだらけ始め見物人のほとんどいない今ではこれ以上ないほどにだらけている。まぁ、この速度なら当然だと言えなくもないけれど。竜田軍でいうところのいつもの五分の一程度の速度しか出ていないのだから、ゆっくりすぎるペースだ。あのペースに慣れているぜ兵全員が、あまりにも暇でしりとりを始めた奴もいればどうでもいい話をしている奴もいる。こんなにだらけていていいのかと言うほどだ。
 芳賀を往復して一月の旅程で組んである。列の真ん中に柊姫と瀬能、美月の乗る輿を一つと一人用の小さな輿を三つ引いていた。中身は真坂、外交長官、祇官の沼賀で、総督である角倉氏が瀬能不在の間行政の指揮を取ることになっている。軍部も吉野と正悟が居残りで惣太が聖についている。筆頭軍医の皇里までもがついて来たのには聖が文句を言ったけれど、吉野が頑として譲らなかった。これは聖が何かしでかさないようにという保険だと、惣太は知っている。聖のことを殴れる人間が必要だから、彼が来た。惣太では駄目だ。それが惣太を少しだけ傷つけた。


「マミー」


 いい天気で、空が真っ青だった。いい出立日和だと出かけに聖と吉野が言っていたことを思い出して惣太は空を見上げて欠伸を噛み殺した。昨夜は姫菜と楽しくすごして、よく眠れなかった。隣に眠っていると思うと緊張してずっと見ていたくなって、眠るのが惜しいと思いもした。
 聖のひどく気だるい声に馬の声が呼応して嘶いた。聖は今日はマミに乗っている。明日はアミの予定で、現在アミはすぐ後ろで輿を引いていた。


「俺ちょっと寝るからさ、落とさねぇで歩いてな?」

「うわあ、アミ!?」


 聖がそう言って体を傾げた瞬間に、後ろでアミが甲高い声で嘶いた。惣太が驚いて振り返ると怒っているのか首を擡げている。どんだけもてるんだ、と聖を見ても彼は相当眠かったのかマミに寄りかかって目を閉じている。マミの動きがいいのか聖が器用なのか、落ちる様子は全くなかった。
 暴れそうになるアミに手を伸ばして、惣太は自分も馬から落ちないようにバランスをとりながらアミの首をなでた。


「聖さん、絶対に明日も寝るから大丈夫だよ!」


 昨日もちゃんと寝てないみたいだし、どうせ今日も寝ないだろうから。そう小さな声で呟いたけれど、それはアミの嘶きによって自分の耳にすら届かなかった。不満気に鳴くアミを宥めながら惣太はちらりと後ろを振り返る。今の揺れで中は大丈夫だろうか、顔を出さないから大丈夫だとは思うけれど。こんなに愛されてなんのフォローもないのか、と聖を見ても彼は寝ていて起きる気配がなかった。
 それだけ疲れているのかな、と落ちないことに感心しながら惣太がアミを宥め終わって前を向いた瞬間、気配が五つ生まれた、反射的に手綱を引いて馬を止め、腰の刀に手をかける。


「ストップ!聖さん!」


 行軍を止めて、惣太が前に一歩進み出た。飛び出してきた人影は気配通り五人分、ガタイのいい男たちだった。一瞬で見て堅気じゃあない。裏かと言われるとそれも違うから、半端なチンピラ者だろう。惣太よりは年かさだと思われるけれど、聖よりかは年下に見える。
 彼らは行軍の前に飛び出してきたかと思うと、並んで急に、膝を折って土下座の形をとった。てっきり襲われると思っていた惣太は、どうすればいいかわからずに聖の名を呼ぶ。


「ひ、聖さん!」

「竜田軍大将、角倉聖殿とお見受けします!」


 土下座の中心から、リーダーだと思われる一際大きな男が野太い声を発した。精鋭軍には、精鋭と言いながらあまりガタイのいい男はいない。聖にしても筋肉質のくせに細身で、曰く余計な肉は動きを鈍らせるとのこと。だから惣太は普段周りにいない筋肉達磨ともいえる男に少しびびった。ただ、精鋭以外の軍には大男が何人もいるし、以前見た佐保の大将も大男だったから恐怖はしなかった。
 その男は頭を下げたまま、大声を発する。それには後ろの方から興味本位で何人かの兵が見に来るほどだった。


「我々をぜひ軍にお加えください!」


 本人たちは必死なんだろうけれど、この光景を見てしまった兵たちには吹き出す衝撃だった。反射的に腹筋に力を込めてどうにか堪えたけれど、ほとんどが後ろに走って行って爆笑していた。その中で惣太だけが少し安心した表情で彼らを見下ろしている。聖は依然眠っているからまったく反応がない。
 実は惣太はこういったことには慣れている。昔から聖の後について回って、彼に惚れたと大男たちがその傘下に加わることを望んだ。だから、久しぶりといえどもこのくらいのとでは吹き出さない。こういうとき昔はどうしたっけな、そうそう殴り合いさせたんだっけ。昔を思い出して対応しようと思ったけれど、現在の立場にはそぐわない気がして惣太は馬を聖に寄せた。

「聖さん、志願者でましたよ!」

「……吉野に回せよ」

「あ、はい」


 どうするんですか、と大声で指示を仰ぐととても鬱陶しそうに薄目を開き、不機嫌な声でそれだけ言ってまた目を閉じてしまった。その間にも大男たちは聖がいかにすごいかをとうとうと語っている。うるさいなぁ、と思いながら惣太は聖から馬を離す。それにしてもこの人はどれだけ本気で寝ているんだろう。


「中央に行ってください。そこで対応しますんで」


 邪魔だからとっととどいてください、と惣太がいうと彼らはすごすごと引き下がった。道の把持に並んでいるので、行軍を見送るつもりらしい。それなら、と惣太は馬を進め行軍を再開した。
 聖はすぐにまたマミに突っ伏して眠ってしまい、それを見ながら惣太は荷物から一枚の紙を取り出すと少し汚い字で中央の吉野へ志願者が来た旨を認めた。それを適当な兵に渡して、使いを頼む。今渡せば夕方には帰ってくるかな、なんて思いながら空を見上げると、曇っていて薄暗かった。そう言えば、まだ今日は聖の煙草のにおいを嗅いでいない。


「さ、佐々部くん……?」

「はい?」

「今のは一体……」


 遅すぎるペースで歩くものだからぼんやりしてしまって、声をかけられた惣太はハッとして振り返った。輿から顔を出した瀬能が困惑の色を表情に乗せている。輿が止まったから不思議に思ったのだろう、そういえばフォローしていない。聖に惚れた男たちがやってくるのはいつものことだから、惣太は気にも留めていなかった。でもこれが吉野だったらそのへんも完璧なんだろうな、と自分の未熟さを思い知る。


「師範の熱狂的信者です。ご心配なく」

「熱狂的信者……」

「聖さん、昔っから男にも女にももてるんです」

「……そうか」


 どうぞ中で、と惣太は言って前を向いた。だから瀬能がもらした小さな声も聞き逃す。
 それから特に何の問題もなく、夕方に宿をとって休んだ。けれど聖は何かあるといけないからと、夜通し起きていたことを惣太は知っている。惣太だって聖と同室で眠りながら、夢うつつで聖がずっと空を見ていたことを知っている。芳賀に近づくに連れて聖が、透明に近くなったような気がした。
 大将が昼間馬の上で眠るような日々を送ってはいたけれど、それでも道程を変えようとはしなかった。そうして西関にたどり着いたのは予定通りの日付だった。










 西関につくと、そこの統括を任されている古賀良人が両手を広げて待っていた。その補佐役は忙しく大量にやってきた兵たちに指示を出したりしているのに、師団長は悠々している。頭はどこもこんなもんなのか、と惣太はちらりと聖を見るけれど、彼は眠そうに欠伸を噛み殺しただけだった。


「ようこそ、西関へ。予定通りっすね」

「まぁな。悪いけど後任せた」

「俺の仕事ですから」


 にこやかに出迎えてくれた良人に対して聖はひどくだるそうに片腕を上げると、結っていない髪を掻き揚げて煙草に火を点ける。久しぶりに吸った煙草に旨そうに目を細め、長く紫煙を吐き出す。煙草一本吸い終わる間に作業は終わったのか、兵たちは馬を厩にいれて整列していた。


「お前らは運動不足だろうから適当に体動かしとけよ」

「聖、お前は少し休め。ろくに寝てないだろ」


 聖が兵たちに適当極まりない指示を出して、後は惣太に任せたからと丸投げした。本来ならば怒るところだろうけれど、惣太は少し誇らしい。聖が自分に任せてくれるなんて、いつ振りだろう。軍に入る前は当然だったのに、吉野を副官に据えてからその役目は吉野のものになってしまった。
 寄ってきた皇里が聖の頭を軽く小突いたら、いつもならば文句の一つも垂れるのに珍しく聖は一つ頷いて欠伸を噛み殺した。


「夜になったら起こして」

「了解っす。女呼びます?」

「いらね」


 いらないと首を横に振った聖は、欠伸を噛み殺しながら建物に足を踏み入れる。自分のテリトリーでもないくせにずかずか進んでいく聖の後を追って、惣太も中に入る。聖の部屋は領主の隣室になっている。だから女を遠慮したわけではないだろうけれど、聖がひどくだるそうだったから思わず追ってしまった。指示なんて、もう出し終わってしまったから。着いて行くと、「お前も参加」などと言われるかと思ったけれど何も言われなかった。
 簡易な家具しかない部屋に入るなり小さなベッドに体を投げ出した聖は、惣太が声をかける前に眠ってしまったのかそれから動きもしない。惣太は毛布をかけて、やっと一息吐き出す。聖の寝顔には、疲れが滲んでいた。これから西関に五日滞在する。ここからすぐ、芳賀に入る。聖が眠れない理由も彼の気持ちも分からない惣太は、ただ聖に毛布をかけることしかできなかった。
 夜に起こせといわれたので夕食の前に聖を起こすと、ひどく不機嫌な顔をしながらも目を覚ました。食欲がないといい何も食べず、ただただ煙草に手を伸ばしていた。夕食後、やってきた美月を部屋に通し、惣太は部屋から追い出される。聖が何を考えているのか、分からなかった。





−続−

聖さんのやる気のなさったらない