やってきた美月に背を向けて、聖は窓から外を眺めやった。ここから、芳賀の領地が見える。海が見えないのが救いだろうけれど、やはりどうしても胸が苦しくなった。
 冴冴と部屋を照らす月明かりから目をそらすように振り替えると、寝台に腰掛けた美月が不安そうな顔でこちらを見ている。彼女はずっと、こんな顔をしっぱなしだ。笑ってくれと言っても笑うのは酷だろうな、と思いながら隣に腰を下ろすと、切羽詰った声で「聖さん」と呼ばれた。


「聖さん、あの」

「柊様が何か?」


 聖の問いかけに美月は泣きそうに顔を歪めて首を振った。なんだ、外したのかと思ったけれど、そうではないらしく小さな声で「まだ何もないですけど」と言い聖の手をぎゅっと握った。彼女を安心させるために微笑んでやると、美月の表情もどこか安心したように和らぐ。西関に滞在するのは五日、現在は最後の家族団らんと一緒の部屋にいさせているけれど、ここを出ればもう一緒にいさせることはないだろう。お偉方の優しさが、美月にとっては不安を増徴させるものでしかなかった。


「私、不安で……」

「大丈夫ですよ、美月さん。何か起こるとしても明後日かその次、その日は俺も見張りに立ちますから」

「でも……」

「俺が家に帰る以外で嘘吐いたこと、あります?」


 美月の手をぎゅっと握って、聖は笑った。首を緩く横に振った美月に「でしょ」と言うけれど、聖は実はいろいろと嘘をついている。けれど、ばれなければ嘘じゃあない。美月は安心したように微笑むと立ち上がった。もう帰るんですか、と聞こうと思ったけれど、やぱりやめた。美月にとっては、一刻も早く柊の傍に戻りたいのだろう。やはり不安は消えないのか、と溜息を吐いて見送る。
 彼女が戻ったのを確認して、聖は煙草に手を伸ばした。火を点けて肺一杯に息を吸い込んで、一息つく。確かに柊姫のことは不安の種ではあるけれど、そこまで心配はしていない。あんな餓鬼に、何ができるというのか。


「聖、入るぞ」


 コンコン、と短くノックの音がしたと思ったら返事の前にドアが開いた。見ると、お盆に握り飯を載せた皇里が立っている。面倒だから黙っていると、テキパキと机においてお茶を淹れ食事の支度をしていた。なんでここで飯を食うんだ、と思ったら今度は惣太が入ってきた。


「聖さん、そろそろ煙草切れるんじゃないですか?」

「なんだよ、珍しく気が利くじゃねぇか」

「飯を食ったらやる」


 惣太が煙草を自分から買ってくるなんて珍しい、と思って手を伸ばすけれどそれを皇里が遮った。一体何だと思ったらずいっと握り飯が差し出される。移動時間を含めてずっと食事をとっていないことを思い出したけれど、食欲は湧かない。その原因に薄々気付きながら、聖は首を緩く振った。けれど、皇里は許してくれそうにない。


「いらねぇ。煙草寄越せ」

「食え。お前、もう何日食ってないと思ってんだ?」

「食いたくねぇ。死にゃしねぇから構うなよ」

「食わなきゃ死ぬんだよ馬鹿!いいから食え」


 いらないと言っているのに、煙草を取り上げられて口に握り飯を突っ込まれた。あぁ、だからこいつがついてきたのか。そうしみじみ思いながらようやっと口の中に入ってきた固形物を咀嚼する。長らく食べていなかったからか、飲み込むのがひどく辛い。聖が皇里に勝てないのは分かっているから吉野は皇里を着けたのだろう。なんだかしてやられた気がする。
 ゆっくりと、やっと握り飯一つ食べ終わると、惣太が煙草を渡してくれた。食べ終わったらすぐに二つ目を差し出され、惰性でそれを受け取る。


「お前な……本当に自己管理くらいできるようになってくれよ、頼むから」

「死なない程度にやってる」

「やれてねぇよ、馬鹿」


 もぐもぐと口を動かして、やっと二つ目を飲み下した。なんとなく満腹になった気がして、自然に皇里が淹れた茶に手を伸ばした。皇里はまだしも惣太にまで心配されるなんてダセェな、と自分で苦笑しながら煙草を開ける。火を点けて、灰皿が一杯なことに気付いたけれど無視して紫煙を吐き出す。


「まだ芳賀は辛いか?」

「そういうわけじゃあ、ねぇよ」

「辛けりゃ辛いでいいんだよ。頼ってくれりゃあいい」


 皇里は言うけれど、聖は返事をしなかった。何に対しても納得なんてできない。確かに芳賀に行くのは辛い。回避できるなら回避したいし、実際食欲もなくなっている。けれど、これも仕事だ。そう割り切ってここまで来た。だから誰にも心配させたくなかったし、こんな風になるなんて思っていなかった。眠れないことを誤魔化して昼間眠っているふりをして、もう何日たっただろう。
 聖がなにも言わずに黙っていると、皇里は溜息を吐き出して出て行ってしまった。それを見送って、少し申し訳ない気も持ちながら息を吐き出して誤魔化す。だって、どうすればいいか分からない。










 西関で、四日が過ぎた。明日には芳賀に立つ。その間も聖は夜に眠ることができず、昼間西関の道場の隅だったり部屋のソファでだったりで寝たふりをした。食欲も相変わらず湧かなかったけれど、毎回皇里が握り飯だけではなくいろんなものを持ってくるから惰性的に口に含んだ。
 そして、最終日前夜。決行されるなら今日だろうと、聖は思って部屋で息を潜めていた。隣は瀬能の部屋だ。それまで気にしてはいたものの、緊張感を持って息を潜めたことはなかった。瀬能の部屋とは逆隣の部屋に美月の部屋があるけれど、今日は聖の部屋にいる。何もなければ一緒に寝ればいい、そのくらいに考えていたのに。


「兄上、やっぱり柊はお嫁になんて行きたくありません!!」

「柊……」


 始まったか、と聖は舌を打ち鳴らす。美月が不安そうな顔で見上げてくるから、やはり彼女は自分の部屋で寝かせばよかったと後悔しながら聞き耳を立てる。まだ、瀬能が自分で解決できるかもしれないから。もう少し、もう少し。
 壁に背を預けて向こう側を窺いながら、隣で同じように壁の向こうを窺う美月を見やる。あまり深く考えたことはなかったけれど、女は本当にいいのだろうか。好きでもない男のもとに嫁ぐなんて、頭では理解していても本当は嫌でたまらないのかもしれない。聖は、彼女ではなければ駄目だった。今は自由気侭に過ごしているけれど、結婚する気はないし恋愛だってする気はない。彼女以外は、駄目だから。


「美月さん、は」


 壁の向こうからは、瀬能の説得する声が聞こえる。それが彼女の役目なのだと、申し訳ないと謝りながら諭す声が聞こえてくる。その音にも、痛いくらい切ない感情が窺えた。
 聖の声に美月が顔を向けて首を傾げれくれる。彼女は、この状況に疑問を感じていないのだろうか。もしも美月だったら、どうするだろう。聖自身、望まぬ婚姻を結ばれた。けれどどうでもいいと投げやりだったし、彼女意外なら誰でもいいと思っていた。彼女と結ばれることがないのならば、誰でも良かった。それも今はなくなって、一生一人で過ごすのかと漠然と考えている。そもそもその一生も、長く生きるなんて考えたことはないけれど。


「美月さんは、納得できますか?例えば美月さんが柊様で、他国のおっさんに嫁ぐとか……」

「それが国のためになるのでしたら、納得しますよ。それが私の役目ですもの」

「好きな人がいたとしても、ですか?」

「その人を守れるのなら、大丈夫です」


 はっきりと美月は言って、再び壁の向こうに集中し始めた。向こうでは、柊が泣いている。
 女ってのは強いなぁ、と聖はぼやいた。自分ならば絶対に受け入れられないことを、彼女は受け入れる。それは美月がもう大人だからかもしれないけれど、同じ大人だって聖は受け入れられないだろう。好きな人が健やかであれば言いと思う。けれど、そのために自分のみを差し出すことはできそうにない。未練たらしいのかもしれない。
 あぁ、だから。だから彼女は、あんなことを言ったのか。一瞬にしてフラッシュバックした光景を呼んだのは、柊の啜り泣きだったのかもしれない。

『聖なんて、嫌いよ』

 そう言ったのは、未練を残さないようにしてくれたのかもしれない。子供だった自分には分からないけれど、最後に彼女はそう言ったのを知っている。涙で震えるのを隠すために強張った声音で、そう言った。その裏に隠れていたのは愛してるだとか幸せだとか、きっとその類だった。


「柊、聞き分けてくれ!」

「嫌です!柊は兄上が好きです!」


 どさっと、向こう側で音がした。それていた意識が一瞬にして戻ってきて、聖は体を硬直させる。向こう側で何が起きている。何が、行われている。ここからでは見ることができないけれど、美月が部屋を出て行こうと体を浮かせたのは反射的に手を伸ばして抱き込むことで止めた。


「柊はもう子供ではありません!」

「だったら」

「一人の女性として、兄上を愛しております!」


 予想はしていたけれど、最悪の事態だ。瀬能は言葉を失っているのか沈黙が降りる。このままでは瀬能が押し倒されて襲われてもしょうがない。一体誰があの小娘に何を教えたんだ、と舌を打ち鳴らし美月を離すと彼女は先に部屋を飛び出した。聖もその後を追う。ただの小娘ならば良かったものの、どうせお偉方がろくでもないことを教えたに違いない。嫁ぐならば当然の知識かもしれないが、今ばかりは恨まざるを得ない。ついでに、この状況を作り上げたお偉方にも虫唾が走る。


「お待ちください!」


 普段の美月からは想像ができないほど乱暴に戸を開けて、美月が中に飛び込んだ。一歩遅れて聖が中に入ると、畳の上で瀬能が柊に押し倒されてるところだった。想像はしていたその光景に、どうしたものかと迷う。けれど美月は迷いなくつかつかと柊に近寄ると、容赦なく彼女の頬を打った。
 パン、と乾いた音が部屋に木霊し、一瞬の静寂。流石の聖も驚いた。


「いい加減にしなさい!」

「みつき、さま……」


 バランスを崩して倒れた柊は自分で上体を起こし、聖は少し遅れて瀬能を抱き起こした。無抵抗の彼を抱上げて部屋の隅に移動する。そのまま腰を下ろし事態を見守っていると、美月は柊の前に腰を下ろして静かに目を細めた。騒ぎになっても軍人以外を近づけないように以前から命じてあるから、余計な外野が入る心配はない。


「瀬能様が好きだと申されるなら、なぜ困らせることを申されるのですか!?立場をご自覚なさい!」

「で、でも……」

「子供でないと先ほどご自分で仰ったでしょう、駄々子のようなことを申されるものではありません」


 何度も何度も申し上げたはずです、と美月が声を落として言うと、柊は俯いて嗚咽を漏らした。膝の上に置かれた握りこぶしにぽたぽたと涙が滴る。瀬能の体が腕の中でピクッと動いたのに気付き、聖は立ち上がった。瀬能を姫抱きにかかえ上げると、美月が振り向いて「今夜はここで寝ます」と言うので一つ頷いて、聖は部屋を出た。
 戸を張っていた見張りが驚いているのを視線だけで黙らせて、聖はそのまま彼を連れて自室に戻る。そして、その体を寝台に放り投げた。多少の衝撃に息を詰めた瀬能の上に、そのまま圧し掛かる。


「聖……?」

「動揺してんのか?妹にあんなこと言われて」


 ギシッと寝台が軋んだ音を立てる。もとより軍服は着ていない聖はシャツのボタンを外しながら、瀬能の手足を軽く拘束した。足での拘束だから、解こうと思えば簡単に解ける。けれど術を知らない瀬能は、小動物のような目でこちらを睨んできた。


「離せ!」

「ヤだね」


 聖、と呼ばれようとも離す気はなかった。動揺して混乱している瀬能を放っておくことなんてできないけれど、正直聖だってどうすれば言いか分からない。あんなもの子供の戯言だというには真に迫りすぎているし、瀬能自身が子供だ。このまま抱いて寝かせてしまうこともできるけれど、流石にそれはできない。彼を抱きたいとは、思えなかった。ならば聖自身これは恋じゃあないと思う。けれどあの時だって、彼女を抱きたいと狂おしく思うことはなかった。だからまだ、恋だと誤魔化せた。


「なぁ、瀬能。お前は柊様のことを女に見えちゃいねぇだろ?頼むから、お前まで馬鹿みたいなこと言うなよ」

「でも、柊は!」

「柊様が、じゃなくて、お前が。瀬能がどう思ってるか、なんだよ」


 頼むから、ともう一度言って聖はシャツを脱いだ。適当に脱ぎ捨てて、さてこれからどうしようと思案する。だれか助けに来てくれねぇかな、と思いながらもいっそどうにでもなれとも思い、瀬能の着物の帯を手早く外す。抱こうと思っているわけじゃあない。けれど瀬能がどこかで気付いてくれなければしょうがない。やっぱり一回くらい女の経験をさせてやっても良かったな、と思いながら聖は涙目になっている瀬能の額に唇を寄せる。


「俺が何も考えられないようにしてやろうか」

「聖!」

「柊様とこういうことをしたいかってことだって、前に言ったろ?」

「やめっ……」

「結論、出たのか?柊様を守りたいってのは、兄貴としてか男としてか」


 囁きながら瀬能の耳に唇を寄せると、今にも泣きそうな声で瀬能が拒絶する。女にするように舌を顎先まで這わせて擽ると、聖、と呼ばれた。その声で完全に泣いていることはわかった。少しやりすぎたか、と思いながら顔を上げると真っ赤な顔をした瀬能が鼻を啜って柊が、と上擦った声で呟いた。


「柊が幸せになることを願ってるし、私が幸せにしてやりたいと思う……」

「……で?」

「でも、それは家族として……兄として、だと思う」

「もういい。俺もやりすぎた」


 それだけ分かっていれば十分だ、と瀬能の拘束を解いた。そしてそのまま寝台に横になり、瀬能を抱きしめる。自分の胸に彼の顔を当てるように抱きしめて、髪をなでた。子供を寝かしつけるような仕草で、聖の唇が小さな声で子守唄を紡ぎだす。おそらく今夜は、一人じゃあ眠れない。安心して眠ってくれればいい。そう他意なく思いながら、聖も目を閉じる。


「聖」

「ん?」

「煙草臭い」


 ごめんと言うのもおかしいし、気をつける気がないので嘘をつくのも忍びなく、結局口からは途切れたメロディーを紡いだ。しばらく歌っていると、眠りに落ちたようで静かな寝息が伝わってくる。こうしていると、まだ彼が子供なんだなと実感する。あのときは、好きな人が隣に寝ているだけで緊張して眠れなくて触れたいと狂おしかったのに。
 それでも恋をしていると言い張る自分は滑稽だなと自嘲しながら、聖は瀬能を離して寝台から降りるとシャツを羽織った。窓から見えた月は、大きい。





−続−

美月さんかっこいい(笑)