散々な夜だった。一睡もせずに西関を出て芳賀へと踏み入れた聖は、そう思って欠伸を噛み殺した。
 昨夜、美月が柊と寝ると言ったので聖は瀬能を部屋に入れた。そして、彼自身の過ちに気付いてもらおうと無体なまねをしてこわがらせた。瀬能は眠ってくれたから良かったけれど、聖はどうしても眠ることができなかった。海の、汐の音が耳から離れない。それは耳鳴りにようになり続け、聖を苛んだ。瀬能と柊の雰囲気が怪しいまま、西関を出た。ここから輿は別だから、一安心だ。


「聖、大丈夫か?」

「何がだよ。平気、平気」


 ぼんやりと芳賀の首都へと続く道を歩いていく。聖は馬上で、今までのようにだらだらしているわけにもいかないので、耳鳴りを無視して歩き続ける。途中でなぜか皇里が寄ってきて、心配そうに問いかけてきた。その意味が分からない風を装って聖は笑い飛ばしたけれど、正直平気なんかじゃない。芳賀に近づくほど、耳鳴りが大きくなって頭痛に変わる。
 芳賀の首都は海辺の町だ。城から海が見下ろせるとかで柊も瀬能の楽しみにしていたところもある。近づくほどに、胸が疼く。近づくたびに、耳鳴りがざわつく。結局、何一つ克服なんてしていなかった。芳賀の首都までここから三日、滞在期間は二日間。聖が逃げ帰るわけにも行かないから、西関までだって三日かかる。それまで自分は大丈夫だろうか、自信はあまりない。


「そーうた」

「はい」

「悪ぃけど、頼むな」

「何がですか?」

「べっつに」


 並んで馬を歩かせる惣太にぶつけようとした言葉は、けれどやはりやめた。不思議そうな顔をしている惣太にもう一度「なんでもねぇ」と言って少し馬の速度を速めた。
 何を惣太に頼みたかったんだろう、考えても一瞬で消えた言葉は浮上してくれない。狂ったら捨て置いてくれと言いたかったのか、自分の変わりにどうにかしてくれと言いたかったのか。もしかして、頼らせてくれと言いたかったのかもしれない。何が言いたかったのもう分からないけれど、何でも構わないか。どうせ、自分のうちに溜まるのだから。
 そういえば、ここには光定も皇里もいる。絶対に自分が死なない布陣が整っているのだと思うと、それが煩わしくも思えた。










 三日間、眠れることはなかった。夜になれば更に大きく波の音が聞える気がして、聖から睡眠を奪っていく。食欲も失せ、マミとアミに与えてしまった。三日の間、瀬能と柊は決して同じ部屋になることはなかったから特に問題は起こらず、美月もずいぶん安心していたようだった。
 そうして四日目、芳賀の首都に入った。案内されて城まで来ると、確かに眼の前に海がある。これじゃあ津波が来たら一溜まりもないと隣で皇里が呟いたけれど、聖はただ広がる海をじっと見ていた。


「聖さん、海です!……聖さん?」

「…………。ん?何」


 海、だ。ザザッと寄せては返すそれを見たのは何年ぶりだろう。見たくないのに目が逸らせないで、結局海を凝視する羽目になる。視線を離せたのは、惣太が呼んでくれたからかもしれない。べりっと音でもしそうな視線の離し方だと自分で思う。惣太を見ると、不安そうな顔で聖を見上げている。なんだよ、と声をかけると我に返ったように海だと騒ぎ、なんだか無理にはしゃいで見える態度に聖はやっと口元に笑みを浮かべた。心配、させてしまったのかもしれない。


「竜田の皆様、お待ちしておりました!」


 城から出てきたのは、芳賀兵衛その人だった。やはりどう見ても四十前後のハゲで、こんなおっさんが幼女趣味だと思うと吐き気がする。腰から降りた瀬能やお偉いさんたちが挨拶するのを後ろから見、芳賀の人間に従って城の中に通された。聖は惣太を伴って瀬能たちに着いて行くけれど、兵たちの半分には帰るように指示し残りは芳賀の兵に従うように言っておいた。
 まず竜田側、芳賀側で軽い打ち合わせを行い、婚姻の儀は正式には今夜取り交わすことになった。それを少しはなれて見ていた聖は、兵衛の目がなんだか気になったけれど必要以上に深入りもできずに黙って時が経つのを待った。いつまで経っても、海の音が煩い。婚姻の儀は軽く済ませる、夜までは自由な時間に、そんな話は耳の中を筒抜ける。ただ波の音だけが耳の中にこびりついて、聖の精神を破壊していく。


「聖?」

「……あ、はい?」


 不意に顔を覗き込まれて、聖は我に返った。眼の前に不思議そうな顔をした瀬能がいて、辺りを見回すと話が終わったようでもう芳賀の人間はいなかった。この部屋で休めといわれたのだから出て行くのは当たり前か、と思いつつ聖は意識して笑みを浮かべた。自分の顔が強張っていることくらい、自覚している。


「ずっとボーっとしてるが大丈夫か?」

「大丈夫ですよ。ちょっと、外で頭冷やしてきます」


 口元が引きつることに気付いて、聖は逃げるように背を向けると部屋を出た。元々ここでは沼賀祇官の目も合って落ち着けない。軍には別室を与えてもらったのでそこで寝ようと思いつつ、どうせ眠れないんだろうなと考えた。面白いくらいに、笑えない。
 身一つで軽快に城から出て、自然に足が海に向かった。オレンジ色の夕陽が水平線の向こうに隠れようとしている、いい時間だ。まだ季節的には少し肌寒いけれど気にならない。寒さも感じなくなった自分に苦笑が浮かんだ。
 頭が痛い。海の音で頭が割れそうだ。まだこんなに自分が引きずっているのかと思ったら、いっそ狂ってしまいたくなる。七年近くも前のことだと言うのに、どうしてこうも思い出にならないのだろう。いつまでも胸の中で甘く疼く。いつまでも鮮明に、聖を責める。

『貴方に会えて、幸せよ』

 耳鳴りの中に、ほんの小さな声で蘇った言葉は、今はもう本当にあったものかどうか分からない。けれど、聖は信じている。これは確かに存在した、想いの形だ。誰よりも愛した。何よりも愛して、愛された。たった一月の短い恋だったけれど覚えている。確かに愛し合った時期は、あったのだ。どうしても荷物から出そうと思って出せなかったものがある。笛を、聖はおいてくることができなかった。彼女が好きだと言ってくれた曲を忘れることができず、また会えるんじゃあないかと期待して手放せない。まだ彼女がここにいる保障なんて、毛ほどもないのに。
 聖はそっと笛を唇に当てた。ゆっくりと、あの頃と同じ曲を吹いてみる。幼い頃母に教わり、ずっと好きだった曲だ。それを彼女は、好きだと言った。褒めてもらえてうれしかった記憶が蘇り、音が止まりそうになるがどうにか堪えて息を吸った。隣に走ってきた惣太が座ったことに気付いたけれど、無視した。惣太ならば隣にいても、いいかもしれない。


「……聖さん?」


 ふと、聖は演奏をやめた。不思議そうな惣太の声を無視して代わりに煙草を取り出し火を点ける。深く吸い込んで紫煙を吐き出して、煙草の味を感じたのは久しぶりだなと思った。生きることを放棄して、三大欲求だって失くしてしまった癖に味だけは感じる自分が少しおかしい。
 惣太を見るのではなく水平線に消えていく太陽を見ながら、独り言のように呟いた。


「お前に会う前だよな、俺がここに来たのって」

「え……」

「ここでさ、すげぇ綺麗な人に会った。俺の初恋」


 初恋、と言って胸は痛んだ。軋むように、締め付けるように痛んだ胸。けれど聖は言葉を続ける。惣太は、何も言わなかった。
 十六になった頃、家にいるのが苦痛で仕様が無かった。街に出て暴れまわって、それでも苦しくて行くあてもなくふらりと芳賀までやってきたのだ。ここに来た理由はない。ただ何となく、海と言うものを見てみたかった。誰も信じられなくて、自分さえも嫌悪の対象だった時、此処によく似たこの国の海で彼女に出会った。月明かりの下で夢中踊っていた彼女はまるで月の精の様で、無意識に笛を奏でていた。曲が終わって、彼女はニッコリと笑って近づいてきて綺麗だと言ってくれた。
 壊れそうなほど綺麗な笑顔を浮かべてそう言った彼女は、涼香と名乗った。興行団の踊り子だと笑った彼女に、聖は絶対に自分の身元を明かさなかった。名前だけを名乗って一月、彼女と生活をともにした。昼間は興行を手伝ったり家事を賄ったり。このときほど幼い頃の子供のような母との生活に感謝した事はなかった。
 彼女の護りたいと思った。離したくないと、何時までもそばで護っていたいと思った。その感情を、愛と呼んだ。それはあまりにも幼く、純粋な感情。

『愛しているわ、聖』

 彼女は確かにそう言って、愛してくれた。愛した分だけ、返してくれた。
 このときが永遠に続くと思っていた。それでも誰よりも愛してた。何よりも愛していた。いけないことを願ってまで隣りにいたいくらい、愛していた。何度言葉にしても足りないなんてことを思ったのは初めてだった。指先が触れるだけで心臓が暴れるなんて初めてだった。女を抱くという行為が怖いと思ったのは、初めてだった。汚してしまうような気がして、どうしても踏み切れなかった。子供のような愛し方でも、彼女は何も言わなかった。
 突然彼女が現れたように、又突然に別れは訪れた。彼女と出逢って一月、同じ海の同じ夜、唐突に告げられた別れ。何度も伝えた言葉が届かなかった訳ではない。そんな事は分かっている。でも理性が追いつかなくて、その場で子供のように泣き縋った。気丈に、壊れそうな硝子のように笑った彼女も泣いているように見えた。
 狂ったように泣き叫んで、気が付けば家にいた。総てが夢だというように変わらない竜田の実家の、天井を見ていた。


「……こんなに人を好きになることなんてあるんだって思った」

「聖さんは、まだその人のことが好きなんですね」


 話している間に、煙草はなくなっていた。砂浜で踏み消して、新しいものに火を点ける。その拍子に手の甲に一粒の涙が零れたけれど、それは見なかったことにした。隣に目をやると惣太は海を見ている。太陽はすっかり沈み、空にはオレンジの面影すら残っていない。ずいぶん長く話していたんだ、と気付いた。


「ここで会えるといいですね」


 そうだな、と言えずに聖は黙って空を見上げた。今日もあの日と同じ、星が綺麗な夜だった。










 惣太に話したらすっきりしたな、と気付いた。何かが吹っ切れたような、そんな感じだ。
 夜、婚姻の儀を済ませてそのまま宴会になった。軍大将と言う役柄参加を強要されたがやはり食欲が湧かないので食べたふりをして酒だけもらった。体は辛いんだろうなと思ってもそんなものは無視して、酔いたい。そう思った。


「聖、大丈夫か?」

「何がですか?」


 ぼんやり過ごしていると、光定がやってきて隣に腰を下ろした。酒を注いでくれるのでありがたく受け、酌を仕返す。聖の返答が気に入らなかったのか、不満そうに眉間に皺を寄せて「まだ引きずっているんだろう」と言ってきた。まだ食事も睡眠も取れないことはばれていないようで少し安心した。


「お前のことだ、この地には来たくなかっただろう」

「そりゃ、まぁ……。でも仕事ですから」

「あまり変な気を起こすんじゃあないぞ」

「起こしませんて。起こす前に止めてくる奴が一緒に来てますから」


 皇里が一緒に来ているから、と言うと光定は納得したのか言葉をやめた。そんなに信頼されてないのかなと思うけれど、彼は聖がここで死に掛けているときに助けてくれた張本人だからないのも当たり前だろう。だからそこに対して文句を言うのはやめた。
 自然に口元に浮かんだ自嘲にも似た笑みはそのままに、聖は上座の本日の主役たちをみた。柊姫は幼いながらに着飾って、少女から女性へと風貌を変えている。それをみた瀬能の心情は、図れない。


「聖さん、光兄様、お注ぎしましょうか?」

「美月か」

「私も仲間に入れてくださいな」


 にこっと笑って隣に腰を降ろした美月を見て、聖は目を細めた。これで彼女の役目も終わりだ。そういえば、美月は嫁に行かないのだろうか。角倉が大切に育てた姫とはいえ、そろそろいい年だろうに。そんなことを思いながらじっと見ていたからか、美月が器に酒を注いでくれながら不思議そうに首を傾げた。


「聖さん?」

「美月さんがお嫁に行ったら、俺淋しいな」

「まぁ、私はまだお嫁に行きませんよ。でも瀬能様は、淋しいでしょうね」


 きっと美月は聖が家に帰るために嫁には行かないだろう。なんとなくそんな風に思った。たしか領家との婚姻は三家のうちからは出さない決まりだ。権力の傾きを恐れてだったかどうかは良く覚えていないけれど、どこかでそんな話を聞いた。だったら、美月はずっと嫁に行かないのかもしれない。
 淋しいでしょうね、と言って美月が瀬能に視線をやるので聖もそれに倣うと、瀬能は柊姫の傍で兵衛の酌を受けていた。瀬能も酒が呑めたのか、と思いながらぼんやりとそれらを見る。煙草がほしい、そう思った。


「瀬能殿、これで私たちも晴れて親戚ですな!」

「そう、ですね……。妹をよろしくお願いいたします」


 酔っているのか、兵衛の目はトロンと瀬能を見ていた。対する瀬能は切ない表情を浮かべている。あんなことがあった後だから当然だろう、と思いはするけれどなんだかやるせない。帰ったらどこかへ連れて行ってやろうか。それにしてもあの兵衛の表情はどこかで見たことがあるな、と聖は思ったけれど酒で痺れた頭ではあやふやな記憶は正解を導いてくれない。だから結局、聖はロリコンなのだろうと結論付けた。
 その日の宴会は婚姻の儀の後と言うことで主役二人が退場してからも続いた。けれど竜田側はあまり宴会が好きな人間が揃っていないようで早々に部屋に戻り、結果的にお開きになった。明日は帰るから、と理由をつけての開きだから構わないだろうが、明け方近くまで芳賀側が騒いでいるのが聞えていた。相変わらず眠る気が起きず、聖は何となく海を見ていた。朝焼けの海はキラキラと輝き、それがあまりにも偽物染みていたから聖は目を逸らした。





−続−

そろそろ聖さんが死にそう