聖が寝ないことは分かっていたから、惣太は同じ部屋でずっと寝たふりをしていた。気配だけで聖がぼんやりと煙草に火を吐けた音や衣擦れの音をきいていた。海での、あの話を思い出しながら。聖が笛を吹くこと自体珍しいのは惣太も知っている。強請ってもなかなか吹いてくれないし、吹いたとしても周りに人がいないときだ。その音を聞かせることが嫌なのか、惣太が知っているだけでも聖の笛の音を聞いたことがあるのは皇里くらいではないだろうか。おそらく、吉野も聞いたことはないだろう。
 その聖が、何度も笛を吹こうとして躊躇をして、と繰り返して結局吹かずに夜が明けてしまった。これで何日寝ていないのか、数えようとも思わなくなってきた。しばらく起きようかどうしようか悩んでいたけれど、惣太はあたかも今起きたのを装って体を起こした。


「おはようございます……」

「おう」


 目を擦りながら聖を見ると、いつもと同じ薄く微笑を唇に浮かべて煙草を吸っていた。皇里が無理矢理食事をさせているものの、芳賀へ足を踏み入れてからは再び食べなくなった。それだけ聖が苦しんでいることを昨日本人の口から聞けたから惣太は何も言えないけれど、それでも疲労が濃く浮き出ている聖の顔を見ているのは辛かった。
 聖は、例の女性を探さないのだろうか。芳賀の女性ならば、探せばいいのではないか。まだ想っているならば、忘れられないのならば探せばいいのに。そう思う惣太は、まだ子供なのかもしれない。そう思いながら聖を凝視していたのか、彼は少し笑った。


「なんだよ?」

「えっ?」

「ずっと俺の顔見てる。何か言いたいことあるならはっきり言え」

「な、ないです。顔、洗ってきます」


 聖の顔を見て、惣太はぞっとした。そして、逃げるように部屋を飛び出す。
 始めて惣太が聖とであったとき、野獣のようだと思った。綺麗でしなやかで、瞳だけが意思を持っていた。ギラギラと輝き何かを求めるその色に、ひどく惹かれたことを覚えている。惹かれながらも恐怖して、ひたすら憧れた。その頃に瞳に、聖の目は近い。けれど決定的に違うのは何も求めていない目だった。意思のない、輝きを失った瞳。それは、惣太の胸を締め付けた。
 勢いだけで出てきたしまったが、そのまま顔を洗いに行った。まだ時間が早いが、すでに兵でごった返している。芳賀方の計らいで部屋にも小さな洗面台が付いていたけれどなんとなく使いにくくて、惣太は一般の兵たちと同様に広い風呂場の洗面台を使っている。竜田では兵たちは井戸に集まるので新しい光景だ。頭を引き締めるために冷たい水で顔を洗って、惣太は気合を入れるために一度自分の顔を両手で叩いた。


「よし!」

「早いな、惣太」

「高見さん、おはようございます!」

「聖の様子、どうだ?」


 先に起きて身支度を済ませていたらしい皇里に声をかけられ、惣太は振り返った。皇里がいつもと変わらない風体で立っている。彼の目に心配の色が滲み出ていて惣太はなぜか安心した。どうだと言われたから相変わらず寝ていないし食べていないと言えば、珍しく苦々しい顔ではなく心配だけを顔に出した。


「やっぱりまだ引きずってんだな……」

「あの、高見さんは……聖さんのこと、知ってるんですよね?」

「ん?まぁ、一応な」


 そう言って、皇里は言葉を濁した。惣太よりも聖と付き合いが長かったわけではないが、皇里は聖のことを惣太よりも知っている。同じくらいの付き合いのはずなのに、やはり皇里にはそうさせる何かがあるのだろうか。それが顔に出ていたのか、彼の目に不満そうな顔をする惣太が映った。しまったと思ったときにはもう遅く、皇里が気付いて小さく笑う。


「大まかにしかしらねぇよ。聖が芳賀の女に惚れて振られて、ってのだけ。本人は絶対に口にしねぇから」

「あ……そうですか」

「だからそんな泣きそうな顔すんな」

「べ、別に泣きそうじゃないです!」

「お前、ほんっと聖のこと好きだよな。そろそろ帰る準備、聖にさせて来いよ」

「はいっ」


 これ以上はからかわれそうなので、惣太は早々にこの場を後にすることにして踵を返した。まだ朝早いがお昼の前にはここを立たなければならないので、早くから支度しなければ間に合わない。聖のいる部屋に戻りながら、惣太は聖がせめて食事を取ってくれることを祈った。










 芳賀の国を出立したのは、予定時刻丁度の昼前だった。柊姫は捨てられた子犬のような目をしてずっと瀬能を見送っていた。それから帰路、西関までまた三日かけて歩く。一人の兵が国に残って仕事をしている吉野にこれから帰ると文を持って行き、合流したのは三日目だった。
 行き同様、帰りも兵たちは長閑に喋ったり遊んでいたりした。その間聖は一言も言葉を発さず、一日目二日目も寝ずに食わずにいて疲労を溜め込んでいる。その姿は見ていて痛々しいほどだった。皇里は聖自身のことだから放っておくしかないと言っていたけれど、惣太はどうしても彼の自業自得だと割り切れなかった。
 西関を通り抜けると兵の半分は先に帰る。帰りはやや強行軍に近く、自国入ったらスムーズに分離できて、そのまま中央に向かって歩き出したときに惣太は聖に声をかけた。


「聖さん?」

「んー」

「もうすぐお誕生日ですよね!なにか欲しいものありますか!?」


 なんとなく空気が苦しくて、惣太はそう言った。場を和ませようと思っての言葉だったが、聖からの答えはなかった。どうしたんだろう、と思って逸らしていた目を聖に向けたのは、ドサッと質量のあるものが落下した音とほぼ同時だった。馬の上に聖の姿はない。主の不在に、マミが大きく嘶いた。


「聖さん!?」

「おい、どうした!」


 下を見れば聖が気を失っている。慌てて惣太は全軍を静止させ、その間に傍に控えていた皇里が飛んできた。ピクリとも動かない聖を抱き起こして、小さく熱があると呟く。今までの疲労が溜まり、国に戻ってきた途端に気が抜けたのだろう。西関に戻るのがここからならば一番早いだろうが、なんとなくそれでは聖が休めない気がして惣太はそれをしたくなかった。


「高見さん……」

「大将不在の帰還てのも、みっともないな」

「どうかしたのか」


 皇里が苦々しい顔で呟いたとき、真坂が顔を出した。聖の姿を見て、彼の顔が苦笑に歪む。何を思っているのか惣太は知らないけれど、なんとなくその表情に腹が立った。何も知らないくせに、聖の苦しみを理解しようともしないくせに、彼も自業自得と笑うのだろうか。そう思ってから、惣太も自分が聖のことを理解しようと思ったかどうか疑問に思う。ただ耳障りのいい言葉だけを投げたのではないか。それはかける言葉が見つからなかったのとは違う。惣太もきっと、聖のことを分かっていない一人だ。


「大方熱でも出したのだろう、変わらない馬鹿だな」

「真坂殿、なにもその言い方は……」

「角倉の本家に運んでやれ。軍部よりはいいはずだ」


 真坂が籠の中からそう言い、さっさと姿を隠した。皇里はまだ何かを言いたそうな顔をしていたが何も言わず、惣太を見る。惣太も惣太で皇里を見て、いつ聖を運ぼうかと考える。幸いそろそろ宿を取らなければならないと考えていた。夜のうちに聖を中央まで運んでいけば翌朝には戻ってこられるだろう。竜田軍の足の速さは、自慢だ。伊達に厳しい修練を行っていない。
 そういうことで話をまとめ、再び列は動き出した。










 家にいるのが嫌だった。角倉に引き取られて六年、強制と侮蔑の中に晒され続け耐えられるわけがなかった。耐えられないからと抜け出せばそれが原因で更に揶揄される。それを繰り返し、聖はいつしか角倉という貴族のくくりの中ではどうしようもないドラ息子、町では畏怖を持って頭を下げられる存在になっていた。目が合えば殴りつける、すれ違えば殴りつける。それが、普通になっていた。
 一週間や十日家に帰らないなんてことはざらで、一人で気が向くままにあっちへ行ったりこっちへ行ったりと放浪まがいのことをした。おそらく国中は回ったし、こっそり岩浅や臼木などの近隣の国にも入ったことがある。だから、芳賀に行ったのなんてただの偶然だった。なんとなく海が見たくなって芳賀に行き、海を見ていたら出会ってしまった、女性。それは誕生日の前だった。海でなんとなく笛を吹いていたら声をかけられた。綺麗な女性だった。彼女は、葉月涼香と名乗った。葉月は所属する劇団の名乗りだという。行く当てもなかった聖は彼女に引き入れられ、劇団の手伝いをしながら過ごした。もう国に帰る気はなかった。
 初めから惹かれていたのかもしれないし、いつの間にか惚れてしまったのかもしれない。聖は涼香を愛し、涼香も聖を愛してくれた。指が触れるたびに痺れが走り、視線が絡まるたびに心臓が疼いた。そんな、恋だった。穏やかで、相手の些細な仕草に乱される恋を一月した。聖の初恋は、泡のように消え去った。


「ねぇ、笛を吹いて?」


 夜、海辺で聖が笛を吹き涼香が舞を踊るのが日課だった。涼香は劇団の舞妓だったし、それが二人の時間だった。その日もそのおねだりかと思って聖は繋いでいた手を離し、笛を取り出す。けれど、涼香が聖の傍を離れて踊る気配はなかった。聖が腰掛けたその隣に腰を下ろした。隣から香ってくる涼香の香りに心臓をどぎまぎさせながら、聖は笛を吹いた。何度も何度も吹いた、愛の唄。
 一曲終わると、涼香は立ち上がって海の方へと足を進めた。月明かりが明るく足元を照らし、影の色は濃い。笛を仕舞って後を追った聖は、涼香の後姿ばかり見る。表情は、見えない。


「国へ帰りなさい、聖」

「え……?」

「あなたの遊びに付きあうのには、あきたわ」


 唐突に、そう告げられた。涼香さん、と呼ぼうとした声は形にならず、聖の喉をヒュッと空気が通る音がした。夏も終わるわ、と冷静な声で告げられて、混乱した頭でも反射的に体が動いた。涼香の手を引いて向きあわせる。波の音がひどく耳障りだった。


「なん……だよ、それ!?納得なんてできるわけねぇだろ!」

「納得なんてしなくていいわ」

「理由を説明してくれよ!涼香さん!」


 繋がった手が振り払われて、聖は顔を上げた。涼香はきつく唇を噛んで、睨むように聖を見ている。それは確かに何かを決意した目だった。けれど彼女の立った一言で取り乱した聖にはそこまで気付かない。彼女のたった一言に混乱して、責めるように言葉が溢れた。なぜ、どうして、好きなのに。自分勝手な感情だけが頭の中を支配していたと、今だけは分かる。


「なんでなんだよっ!」

「聖なんて、嫌いよ……」


 その一言は、心臓が止まるかと思った。あんなにも繰り返し愛していると伝え、同じ分だけ愛しているといってくれたのに。
 涼香さん、となおも追いすがろうとした聖の手を振り払って、涼香は聖の唇に一度だけ口付けた。餞別だというように、触れるだけの塩辛い口付け。その衝撃に思考が停止している間に涼香は聖の前から姿を消した。どれくらい呆けていただろう、おそらく五分にも満たない時間だっただろう。泣きながら後を追い、拠点にしていた宿に戻った。そこにはすでに涼香のものだけではなく劇団の荷物が何もなかったので出て行ったのだろう。聖を置いて。


「なんで……っ」


 なんでだよ、と絞り出した声は声にならなかった。まるで子供のようにぼろぼろと涙が出てくる。体面もなにも気にせずに、聖は泣いた。そこから記憶は、ない。










 目を覚ましたら、見覚えのない天井だった。否、ないわけじゃあない。慣れるほど見ていない自室の天井だ。
 夢を見ていた。あの、夢を。ひどく鮮明に見た理由は、芳賀に行っていたからかもしれない。目元が熱い気がしてだるい手を持ち上げて触れてみれば、泣いていたのだろう手が濡れた。そういえば米神や首筋も冷たい。どれだけ泣けば気がすむというのだろうか。でも、あの夢ならばしょうがない。
 そう言えば今もあの時と同じ、途中から記憶をなくして気が付いたら自室で寝ていた。全く成長していない自分に、吐き気がした。
 そしてそのまま目を閉じれば、体が泥に沈むように簡単に眠りに落ちた。





−続−

輿入れ終わった!ついでに涼香編も適度に完結!やっとこスタートラインです!