なんのために生まれてきたの







 空は青。太陽は心地よい照り加減で湿度もそれほど高くない。
 こんな最高の日は、屋上で満喫するしかない。
 当然そう考えて屋上へ行ったら、女の子がフェンスを乗り越えようとしていた。風に翻る濃紺のスカートがひどく幻想的だった。

「死んじゃうの?」

 人が来たことに気づいていなかったのか、煙草一本分の時間見つめていた少女に声をかけたらフェンスの向こうでビクッと小さな身体が震えた。
 向けられたのは、怯えたような目だった。涙に濡れていたわけではないのに、その目は確実に甘い庇護を求めている。
 短い黒髪が風に浚われて時々彼女の目を隠し、声を霧散させていく。

「その前にこっち来ない?自殺未遂ちゃん」

 きっとこの少女は、助けて欲しかった。だからずっと下を向いて待っていた。だったら俺が来て丁度良かったのかもしれない。
 正常のような自殺の引止めができる人間じゃあないけれど、彼女に興味がいた。あの目に、もしかしたら惚れたのかもしれない、なんて。
 自殺未遂ちゃんは俺の提案どおりにのろのろとフェンスを跨いで、こちら側に来た。俺が適当に腰を下ろしたところに、少しの距離を開けて座る。上履きの色が、俺の一つ下の学年を示していた。

「別に死ぬ気なら止めないけどね。君、本当は死ぬ気ないでしょ」
「…………」
「あれ、だんまりですか」

 たった十四年ぽっちで人生に失望したらしい少女は、ぺたんと座った膝の上で手を組み合わせて何も言わなかった。
 こちらの茶化しも通用しないから、とりあえず差し出してみたら一本引き抜かれた。あれ、吸うんだ。
 火を差し出したときに見えてしまったのは、彼女の手首に這い回った皮膚を引っ張り合わせたような痕。あぁ、この子は本当に死にたいのかもしれない。

「ねぇ、手首見せて」
「……変な人」
「そう?ただ本能のままに行動してるだけだよ。俺、手首切る気持ち分からないから」

 彼女が点けなかったので自分の煙草に火を点けて、紫煙を吐き出す。煙草が旨いときが、この世の至福だ。
 これを緩慢な自殺と言う輩がいるけれど、それがどうした。だったらこれは運試しだと俺は言うことにしている。旨みか死ぬか。最高のゲームだ。
 少女は俺に手首をおずおずと差し出してくれた。幾筋も通るそれは、古いものも新しいものもある。

「死にたいの?」
「……死にたく、ない」
「何で手ぇ切るの?」
「痛いから」

 なぜだか俺を不思議なものでも見るような目で見て、少女は問に対してポツリポツリとちゃんと答えを紡いでくれた。
 痛いの好きなの。嫌い。
 俺は好きだよ。変な人。
 生きてるって感じがするからね。私は、違う。
 やっぱり彼女は、俺とは違う。

「体の中にたまったもの、全部出て行くような気がして」
「ニンゲン嫌い?」

 俺の問に、彼女は首を横に振る。
 人間は嫌いじゃあないけど、破裂したくなるときがある。そういうときに身体に穴を開けると風船のように萎んでいく気がして。
 俺にはわからないことを、少女は呟いた。

「でもそこ切ると、死んじゃうよ?」
「死にたくて、でも死にたくないの」
「今も死ねなかったしね」

 死にたいと言ったり死にたくないといったり、彼女は忙しい。
 少しからかって言うと、ほんの一瞬俺を睨んだ彼女はすぐに俯いて死んでも構わないと言った。
 表情が隠れた瞬間の少女がいつかの俺とひどく似ていて、本当は心底驚いた。でも彼女は俺と違うことを考えている。
 家にいることが辛くて、けれどどこにいるのも居心地が悪くて、居場所がなくなって死んでしまおうとここまで来たと、少女は震える声で言った。
 ほらやっぱり、俺とは違う。

「それで死んじゃったらつまらなくない?」
「でもっ」
「大丈夫、まだ生きてるんだし」

 俺が同じことを思ったのは、どのくらい前だっただろうか。一年だか二年だか、そんなもんだったような気がするから彼女と同じ歳に思ったことになる。
 もしかしたら彼女と俺は似ているのかもしれないと今更受け入れて、吐き気がした。
 俺の場合も家族仲が上手くいかなくて(上手くいかないというよりも齟齬が生じた結果歪が生まれたようなものだけれど)、逃げて逃げて逃げまくった。立ち向かっている分、この子は偉い。

「死のうとして死ねなかったっていうのは、本能が勝ってるってことだから」
「何の話……」
「だからね、理性だとか常識に囚われずに生きていけるよ」
「……貴方みたいに?」
「そーそ、俺みたいに」

 飲み込みが早くて助かるな、と一笑しながら紫煙が零れる。
 俺は逃げて逃げて、二週間ばかり家出した。出際に父親のクレジットをパクって、思いつくところに行ってみた。学校だとか世間体だとかを気にせず、何も持たずに行った感想は、本場の飯は美味いくらいのもの。
 そうして気づいてしまった。世間の、常識の枠は狭い。

「そんなに構えて生きなくても、どうにかなるって。世界に適応できないなら世界を適応させればいいんだよ」
「なに、その屁理屈」
「そうすりゃずっと楽しく生きれる」
「貴方みたいに?」
「そう。火、いらない?」
「……もらう」

 ほんの少し微笑を浮かべて、少女はやっと煙草を口に含んだ。難しい顔をして差し出してやったライターに先端を近づけて。息を吸うんだと教えてやったら、途端にむせ返って少し笑った。
 俺は俺で短くなった煙草を床に押し付けて、もう一本。天気がいい日は煙草が旨い。

「笑いすぎ!」
「だって……ククッ」
「ほんと、変な人」
「変な人じゃなくて、崎沼澄那。よろしく」

 初めて煙草に火を点けて、少女は少しまずそうな顔をした。
 俺が差し出した手を数秒見つめて顔を逸らして、空を仰ぐ。どうやら、死ぬ気はなくなったらしい。

「あたしは――」

 俺と似た少女は、名乗った。





なんのために生まれてきたの
(分かるまで生きてみれば、いいんじゃないの)