かつて子どもだった子どもは、もうない







 始まりは一本の煙草。

「ちょっと」
「んあ?」

 もう何年も前になるだろう。見上げた空の色は変わらないけれどその近さだとか覗き込んだ顔はずいぶんと久しぶりに見た気がした。否、そんな気がしただけで本当は毎日見ていたのかもしれない。
 なんせ、これは俺の夢なのだから。

「煙草。未成年でしょうが」
「お前にゃ、関係ねぇだろ」
「あるわよ。私、学級委員なんだから」

 昔懐かしいその台詞に、昔も今も吹き出した。今はもちろん、俺が学生の自分だって学級委員だから偉いとか真面目だとか、そんなわけがなかった。実際生徒会長殿はサボり友達だったわけだし。
 けれど珍しく校則を守って濡れたような長い黒髪をきちんと三編にしていたその女は、汚い屋上にそのまま寝転がった俺の顔を覗き込んで口元からゆるゆるとたゆたいながら天に昇る煙に思い切り顔をしかめる。
 そうなるのは分かっているから、やらなきゃいいのに。俺はいつからか、毎度そう思うようになった。

「それこそほっとけよ。俺なんかに関わってたらお前まで何か言われんぞ」
「私は悪いことしてないもん」

 それは、こいつの口癖。一緒にいるところを教師に見つかってもいつだって「私はやっていません、綾肴だけが悪いんです」とか言って一人で逃げて行った。
 でも毎回俺に対する説教が終わるまで職員室の前で膝を抱えて待っていたりして。
 否、これは付き合いだしてからの話かもしれない。あまりにも一緒にいた時間が長すぎて、記憶は点になって混ざってしまう。

「なぁ、キスしようぜ」

 だからこの台詞も、唐突に。俺の口から不意打ちのように漏れたのは、同じく屋上で煙草を吸っていたとき。
 別に付き合っているわけじゃあなくて仲のいい友達みたいな気でいた。ただ周りは俺たちのことを付き合っていると思っていたようだし、正直まんざらじゃあなかった。
 人が嫌いな俺は、こいつがそばにいても嫌じゃあなかったから。

「え……」
「減るもんじゃあ、ねぇし」

 口に挟んでいた煙草を右手で浚って、口付けを。
 そうしていつしか、これが癖みたいになって。こいつと別れた後もなんとなく癖がついて離れなかった。
 この女と別れた理由なんて、もう覚えてないけれど。


+++


 どうしてこんなことを思い出したかというと、急にそんな夢を見たからだけじゃあなくて。
 薄ぼんやりした視界が小奇麗な女の顔を映したから、つい癖で。口付けてから、それが男でしかも幼馴染の息子だと気づいた。

「ひぃ坊、パフェとか食っとけよ」
「かーさんにないしょ?」

 七つも下の幼馴染がたった十五で生んだ子供に、父親はない。生んだ本人がそれでも産むんだと頑として譲らなかったために俺の部屋に転がり込んできて、今の生活が始まった。
 別にこいつが邪魔というわけじゃあないし、今となってはいい父親になってやろうかとすら思う。けれど、自由に遊べないのはつらいところで。
 だから、あの行為もそのおかげの欲求不満なのかもしれない。そう思いながら、証拠隠滅にパフェで餌付け。

「綾肴?」

 かけられた声に、振り返る。店内に客が少なければ同じ名前の人間がいるとは考えづらい。それが自分の知っている声だったら、なおさら。
 振り返ってやると、セーラー服のデジャヴが見える。もちろん視界の奥は青空なんかじゃあない。落ち着いたベージュの壁が鎮座している。けれど目の前に現れた女は、確かに彼女で。

「やっぱり綾肴だ。私こと、覚えてるわよね」
「そりゃ……覚えてるけどよ」

 覚えていないわけがない。もしかしたら初めてした恋の記憶。もしかしたら、忘れたい唯一の苦い記憶。
 あの頃の俺はきっと餓鬼で、人の感情になんて全く気が回らずに自分が世界の中心だった。餓鬼ってのはみんなそうかもしれないけれど、俺の世界は俺が中心。

「ここ、いい?」
「あぁ。ひぃ坊、クリームついてんぞ」
「どこぉ?」

 後ろめたさから思わず逸らした視界に映ったのは、口元に生クリームをべったりとつけた小奇麗な顔をした幼子。口元を指で示しても上手く拭えないようで。見ていて三秒、手が出た。
 口元をペーパーナプキンで拭ってやっていると、向かいから昔と変わらない押し殺した笑い声。思わず半眼で睨みつけた。

「何だよ」
「いや、いいお父さんだなと思って。綾肴の子?」
「冗談。全然似てねぇだろ」
「そうね、綾肴のタイプじゃあないもの」

 それから会話が続かなくて、沈黙。
 きっと、それはこいつの顔がかそれとも子供がいることかと訊けばよかったのかもしれない。けれど、どうもそれ以上の会話を脳が拒否した。
 時間を稼ぐために、あの頃から変わらない煙草に火を点けて一服。パフェ食ってる餓鬼が顔をしかめたけれど、まるで無視。

「変わって、ないね」
「まぁな」

 気の利かない返事だとは分かっていた。けれど、ぽつりと昔を懐古するような声で呟かれた言葉に俺は返す言葉を知らない。
 それから、また沈黙。
 あの頃の俺は愛だとか恋だとか、そんな目に見えないものなんて全く信じていなくて。それは今もかも知れないけれど、けれど単に目の前にあったから手を伸ばすくらいの分別しかもっていなかったのは確かだった。

「今、なにしてるの?」
「帝国ホテルでコックしてる。夜は、こいつらがいるから」

 あからさまに安堵した顔は、泣きそうだった。
 変わってないね。と、その女はもう一度、さっきよりももっと小さい声で呟いた。
 それまでだって浮気したりすれ違ったり、それなりに何度か破局は迎えた。けれど結局俺にはこいつが一番心地よくて、いつの間にか元の鞘に収まっていて。唯一抜き身になってしまったのは、高校三年の冬。
 あの頃の俺は、料理家になりたくてそっちに一生懸命だった。こいつだって、元が優秀なだけに有名大学の受験に一生懸命で。だから受験が終わったら元に戻ると、漠然とした確信すらあった。けれど、別れは突然で。

――綾肴が、遠いよ

 この台詞を言われたのは、もうすぐ春になる寒い日だった。梅の花だって咲いていた。そのむせ返るような匂いの中で、俺はやっぱり煙草を吸っていて。隣には合格通知を握り締めたこいつがいた。
 この頃の俺は料理に夢中、というよりもバーテンという仕事に夢中になっていた。本当は料理家なんかじゃあなくて、専門のバーテンになりたかった。何よりもカクテルを造るのが楽しくて、それに夢中で。唐突に、告げられた言葉。
 ここにいるじゃねぇか、と返した。戻ってきたのは、言葉ではなく否定の動き。緩慢に首が動き、その頃には短くなっていた髪が頬を打った。

「バーテンは?」
「来年から。ホテルやめてそっちに専念する。お前は?」

 子供がいるとどうしても昼間に仕事をしたほうが好ましい。これの母親が夜の仕事だからなおさら。けれど来年からはどうにかなりそうな目処もついた。
 彼女はあの頃よりも大人の顔で、ただただ切なくなるほど儚い微笑を浮かべた。

「私は、広告代理店。つまんない仕事だよ」
「そっか」
「もう、行かなくちゃ」

 時計を見て、席を立つ女の髪は最後に別れたときよりも長い。初めて会ったときよりも短い。その漆黒のそれが短く見えてしまって、思わず。
 手ではなく、伸びたのは足。立ち上がって自然に右手が煙草を浚って。

「涼子」

 名前を呼んで、口付けを。あの頃とは違う、戯れのキスを。
 呆然とした彼女も、きっと分かっている。足早に髪の残り香すら残さずに俺の前から立ち去った。
 俺たちは、お互いにもう戻れないことを知っていた。いつのころからか修復は不可能になった。それを拒絶するほど、子供じゃあない。子供になれない。

「ひぃ坊」

 再び椅子に落ち着いて、黙ってスプーンを口に運んでいた幼子の頭に煙草を挟んだままの手を置くと、不思議そうな子供の目が見つめ返してくる。この目を、いつからできなくなるのだろう。
 きっとあの頃の俺たちは子供でもなく大人でもないところにいて、微妙な差異で大人になれた。そうして、大人になってしまった。

「俺に似るなよ」

 まだ子供でいられるうちは素直に、手を伸ばしてくれればいい。そんなことを、俺は自分の息子でもない幼子に願う。
 みつめかえしてきたのは、まだ何も分からない無垢な瞳。きっと俺の言っている意味すら分かっていないのに、大きく頷いて笑みを浮かべた。





かつて子どもだった子どもは、もうない
(ネバーランドから退場した大人は子供にチケットを、ってか)