だいじなものは火にくべて、あなただけを聞いて眠るのです。







 それは寒い冬の夜。外には雪がしんしんと、まるで音も吸い取るように降りつもる。むき出しだった地面も死の充満した花壇もすべて覆い隠すようにただただ、真っ白になって。もう何も見えない。あなたの足跡もなにも。

「Hush thee, my babby」

 何年も住みつづけた、少し塗装のはげた小さな家。玄関にある傷は、引っ越してきた時につけたもの。あなたと一緒になって食器棚を運び込み、そのときにぶつけてつけたもの。あの時はこの家もまだピカピカの新築だった。
 部屋にある一番大きなテーブルは、傷だらけ。ナイフを落としてついた傷、些細なことで喧嘩して、物を投げつけたこともあった。けれどいつだってこのテーブルを挟んで向かい合って、食事もしたし話もした。あぁ、この傷はいつついたものだろう。そう、この焦げあとはあなたが灰皿があると勘違いしてつけた焦げ目。
 部屋の柱に背比べの跡。私が大きい僕が大きい、そんな会話はもう遥か昔。成長するわけもないのにつけた傷は二本。一本はあなたの分。その数センチ下に。

「Lie still with thy daddy」

 二階なんてないけれど、部屋の端には大きなベッド。あなたと一緒に眠れるように。このベッドで何度同じ夢を見たでしょう。ベッドについた古びた染みは、こぼした水。熱を出したときはあなたはずっとベッドの隣に座っていたから、落ち着いて眠れなかった。次の日にはあなたにも風邪が移って、結局一緒に並んで眠った茶色のベッド。
 いつから、このベッドの右半分は冷たいままになってしまったのか。もう思い出すこともできない。

「Oh, my dear babby, lie still」

 しんしんしん。雪の音。
 ことことこと。鍋の音。
 パチパチパチ。暖炉の音。

「……あぁ、もうこんな時間なの」

 壁に掛かった時計は天井を指し示す。外は真っ暗。いつの間にか今日が終わり、また今日がやってくる。
 あなたが帰ってこなくなって何日経った。何年経った。何日待っている。何年待っている。あと何日待てる。あと何年待てる。

「The clock is tiching and tiching」

 時計の隣に飾ってあるのは、いつかあなたが大好きだといっていた絵。あなたが描いたものだから値段が高いなんてことはない。あなたが好きに描いたものだもの。でも大好きなものを大好きなように描いた絵。この絵に描かれたあの頃のこの人は、もういない。この絵が描かれてから何日経った。何年経った。
 この絵が描かれた頃は倖せだったのに。あなたは夕方になるとまっすぐに帰ってきて、一緒にあたたかいご飯を食べて一緒の布団で眠った。いつからかあなたはキャンバスだけをもって、帰ってこなくなった。あなたが帰ってこなくなってから何日経った。何年経った。何日待っている。何年待っている。あと何日待てる。あと何年待てる。

「This is your lover」

 これはあなたが好きな服。気に入りだといってよく着ていたあなたの服。少しセンスは古いけれど、それがあなたに良く似合っていた。
 これはあなたが好きな本。ばらばらとページが散らばってしまいそうなほど古い本。大事な本をあなたはいつも嬉しそうに見せてくれた。
 これはあなたが好きな指輪。大切な人の形見だといった指輪。何よりも大切に肌身離さず持っていた。それがあなたの母親のものだと知ったのはいつだった。

 しんしんしん。雪の音。
 ことことこと。鍋の音。
 パチパチパチ。暖炉の音。

 あなたの好きな料理を作ってみた。温かいシチューに少し硬い黒パン。パンにはとろとろのチーズを乗せて。ミルクは忘れずに毎朝絞る。卵焼きなんかがついていると、とても嬉しそうだった。
 あなたの好きな歌を歌ってみた。あなたのように上手くは歌えない。すこしぎこちない歌声は自分のもの。でもまるであなたがいるような気分になった。もうきっと、あなたよりも上手く歌える。
 あなたの好きな椅子に座ってみた。そこから見えるのは遠くの町。ここからあなたは何を見ていたのだろう。同じものを見ていても、あなたの気持ちが分からない。

 しんしんしん。雪の音。
 ことことこと。鍋の音。
 パチパチパチ。暖炉の音。

 あなたのことが好きでした。あなたのことを愛していました。あなたもおなじ気持ちだと。あなたも愛してくれていると、確信していました。
 いつからでしょう。あなたが遠くを見て、気持ちがすれ違いだしたのは。もともとあなたとは違う人間だったのかもしれません。芸術家の考えていることなんて何のとりえのない一般人には分かりません。ですが、愛していると。愛されていると。信じていました。

「Good bye,my dear」

 あなたは出て行ったきり帰って来ません。いつもとおなじ、キャンバスと絵の具だけを持って、ふらりと。夕方には帰ってくるような気軽さで。
 あれから何日経った。何年経った。何日待っている。何年待っている。あと何日待てる。あと何年待てる。

 しんしんしん。雪の音。
 ことことこと。鍋の音。
 パチパチパチ。暖炉の音。

 あなたから貰ったラブレター。いったい何通あるでしょう。黄ばんだそれはインクが薄れて宛名も見えません。本当に、あなたから貰ったものなのか、あなたが愛しい人に渡したものなのか分かりません。
 あなたが昔に描いた絵。モデルは同じ人物で、幸せそうに笑っている。それは本当にあなたの目が正確に捉えたものなのか、自分の眼が妄想で補っているのか分かりませんが、もうその人物はここにはいません。
 あなたが置いていった絵の具と筆。たくさん残っているのは青色で、少ししか残っていないのは白色で。これはあなたの嫌いな色で好きな色だと、今言ってもあっているのでしょうか。

 しんしんしん。雪の音。
 ことことこと。鍋は吹き零れた。
 パチパチパチ。暖炉の音。

 あなたとの大切な思い出はすべてこの家の中。あなたが好きだったものも嫌いだったものも思い出も約束も。
 すべて、一つになってあなたに収束するのです。

 パチパチパチ。暖炉の音。
 しんしんしん。雪の音。
 パチパチパチ。暖炉の音。

 暖かい暖炉。あなたと一緒にずっと近くに座っていると、心も安らいだ。あなたの歌声が心地よくて、木の爆ぜる音はBGM。いつのまにか眠ってしまった翌朝は、服のままベッドに眠っていることになった。お互いに大好きな暖炉。もうあなたの歌声は聞こえないし、眠ってしまっても朝には凍えて起きることになるでしょう。
 けれど構いません。きっともう目覚めることもないでしょう。

 パチパチパチ。暖炉の音。
 パチパチパチ。暖炉の音。
 パチパチパチ。暖炉の音。

 ラブレターも絵も絵の具も筆も。時計も鍋も椅子もベッドも窓もテーブルも、柱も。玄関だってぜんぶぜんぶ火にくべて。あなたとの思い出が詰まったこの家を大切な暖炉の火にくべて。それはこの体も例外ではなく。

 パチパチパチ。暖炉の音。
 パチパチパチ。暖炉の音。
 パチパチパチ。暖炉の音。

 ただただ、あなたの歌声だけを聞いて眠るのです。もう聞こえないあなたの歌を聴いて、眠るのです。





だいじなものは火にくべて、あなただけを聞いて眠るのです。
(おやすみなさい、忘れたら焼き殺してやるんだから)