あなたに比べ、世界のなんとせまいことか!







 僕にとって、それはなくてはならないものだと分かりきっているはずだった。  夜、眠れなくて事務所に何となく顔を出した。誰もいない空間が妙に淋しくて鳩尾辺りが締め付けられるようで、事務所のソファに座ってから漸く自分の行動に意味なんてなかったことに気づいて可笑しかった。

「……氷川」

 小さい声で名前を呼んで見たけれど、声は虚空に吸い込まれていった。帰ってこない返事は当たり前だ。氷川は今仕事で出ている。
 いつもなら気にならない水槽のモーター音が妙に耳について、ふと水槽に鰹節でも入れてみようかと思う。特に意味はないけれど、氷川がいたら呆れたように怒ってくれるだろう。氷川の顔を簡単に思い浮かべると、怒った声も聞こえてくるようだった。

「壱路さん、壱路さん。どうしたんですか?」

 けれど実際に聞こえたのは机の上に鎮座していたフランス人形だった。幽霊は眠らなくても平気なはずだけれど、中身の理穂ちゃんは眠そうに瞼を擦って(実際瞼なんてないけれど)僕をじっと見る。

「まだ二時ですよ?」
「うん、眠れなくてね。氷川がいないとどうも……ダメみたい」

 氷川がいないとダメなんだ、昔っから。氷川がいないと僕の世界はこの事務所だけになっちゃう。氷川がいれば、氷川と僕の世界。氷川がいないとこの狭い世界だけ。

「あの……、わ、私って邪魔ですか!?」
「どうしたの、いきなり」
「壱路さんはもともと……氷川さんを大事にしてるから、私は邪魔なんじゃないかって……思って」

 次第に小さくなる声は不思議と変るはずのない表情に赤みを刺しているように見せた。
 僕ってそんなに氷川氷川って言ってたのかな。普段は全く意識なんてしていなくて、空気のような存在だと思うのに。あぁ、だから。だからいなくなったら苦しくて堪らないんだ。

「そんなことないよ、理穂ちゃんには電話番もしてもらってるし」
「……本当、ですか?」
「うん。僕と氷川の世界に理穂ちゃんなら仲間に入れてあげようかな」

 例えば、僕と氷川が土星だとするとその周りに漂うわっかのようなものだと思う。僕と氷川の世界は誰にも壊せない。狭い世界だと言われても構わない。だって、僕にとって氷川に比べて世界はなんと。





 俺にとって、それはなくてはなららないものだと分かりきっているはずだった。
 夜、仕事の一環でとあるビルの向かいのアパートでたった一人で偵察をしていた。ごく狭いワンルームのアパートで、毛布一枚あれば十分温かいはずなのに中々温まらなくて、持参したコンロでコーヒーを沸かそうとした。
 そういえば、アイツはちゃんと飯を食っただろうか。

「電話……やめた」

 餓鬼じゃあるまいしそんな心配してやることもない。一食や二食抜いた所で人間は死にはしないし、大の男が心配されても迷惑だろう。
 自分でコーヒーを沸かして飲んでみると思いの外熱くて、舌を火傷した。「あっち」と慌てて唇を離すと、並々注がれたコーヒーが今度は手にかかって顔をしかめる。
 こんなとき、アイツだったら笑いながら火傷した俺の手を躊躇いなく舐めようとして。結局俺が怒鳴って叱るんだ。

「……あっちぃ」

 そう言えば俺は、いつからアイツの名前を呼ばなくなったのだろう。何かアイツに関して違う気持ちを抱いたときに無意識のうちに封印した名前。餓鬼のころは壱、壱と恥ずかしげもなく名前を呼んでいた。あの事件が、起こるまでは。
 あの事件のあと俺はアイツの名前を呼ぶことをやめて、アイツの友達から相棒になった。
 それまでは俺の世界はたくさんのもので構成されていたと思う。確かにアイツが一番で、それ以外は二の次だったけれど。それでも他のものも持っていた。けれど気づいたらアイツ以外のものは全て排除されていた。残された俺の世界はアイツだけになった。

「ここって、こんなに暗かったか?」

 妙にこの空間が暗く広く感じて、毛布の中で丸まった。
 いつも部屋は別でも同じ空間にあいつがいるのが当たり前だった。なのに急に消えた明かりのように暗くなった世界。あぁ、俺にとってアイツはこれだけ明るい存在だったのか。
 そういえば昔からそうだ。人のことを好きなだけ振り回してそれでいて後片付けは全部やらせて。でもそれを当たり前だと引き受けたのは俺だ。そしてそれがいつの間にか空気のような光景になった。
 だから、なくなったら苦しくて堪らないんだ。

「………。壱」

 不意に、アイツの名前を呟いてみた。
 俺の世界はアイツだけが構成していて、それ以外は邪魔だと排除してきた。たとえそれが米粒一粒、小石の一粒でも我慢できなかった。けれど本当は俺とアイツの世界は誰にも壊せない。狭い世界だと笑われたって構わない。だって、俺にとってアイツに比べて世界はなんと。





あなたに比べ、世界のなんと狭いことか!
(電話、してみるか)