私に会ったら私を殺して
ドッペルゲンガー。自分とそっくりの人間。もしもそれに出会ったら、自分は死んでしまうらしい。
一体いつ聞いたか分からない迷信を、僕はまだ心のどこかで信じている。
サンタクロースを信じていなくても、お化けの存在を信じていなくても、クラスの友達がだれもドッペルゲンガーを信じていなくても、僕は信じている。
夕日の綺麗な日だった。
僕は公園のジャングルジムの上からその夕日を見ていた。ブランコで遊んでいた友達が、お母さんが呼びにきたからって家に帰った。
一人、一人。段々人が少なくなる。五人いた友達は日が半分沈む前にみんないなくなってしまった。僕は日が半分沈むまでオレンジ色の太陽を見ていた。
「ねぇ、遊ぼうよ」
ジャングルジムを降りて、テクテクと一人で家に帰っていた。公園から歩いて五分くらいの、角を三つ曲がったところにあるマンションが僕の家。お母さんはいないけど、別に寂しくない。
公園を出て、二つ目の角を曲がったときに後ろから声をかけられた。振り返ったら、僕がいた。
「ねぇ、遊ぼう」
「キミは、だれ」
僕と同じデニムの半ズボンに、黄色いトレーナー。靴は、この間買ってもらった青い紐の運動靴。友達はまだマジックテープのやつだったりスポッと履ける靴だけど、僕はもう靴紐も結べる。
髪型も服装もそっくりの僕は、にこっと笑って手を差し出した。僕のと同じ、爪の短い手。友達よりも小さいのも同じだけど、僕とは同じ大きさ。
「僕は、――だよ」
目の前の僕は、僕と同じ名前を名乗った。夕焼けを背負った僕の影が、僕を暗くする。地面に描かれた影法師は、僕の方が長い。
遊ぼうよ、と僕はもう一度言った。けれど僕は、首を横に振る。僕は洗濯物を取り込んで、たたんで、雨戸を閉めてお風呂掃除をしないといけない。そういう風にお父さんと約束した。
「一緒に遊ぼう」
「遊べないよ」
「遊ぼうよ」
首を振っても、僕は遊ぼうとしつこく言った。もう一人の僕はドッペルゲンガー。ドッペルゲンガーはどこから来たんだろう。僕のことを知ってるのかな、お父さんとは違う家族がいるのかな。もしかしたら、僕の知らないお母さんと暮らしているのかもしれない。
それでも僕は首を頑なに横を振る。
「お父さんは、きっと今日も帰ってこないよ」
ドッペルゲンガーは、そう言って笑った。遊ぼうと、差し出された手。思わず僕はその手を握り返した。
手を繋いで僕らは公園に戻った。角を二つ曲がる間に誰にも会わなかった。公園に着くころには、太陽は沈んでいた。
お父さんは、最近帰ってこない。その理由を僕は知っている。女の人と会ってるんだ。朝帰ってくると、粉っぽい香水のにおいを振りまきながら気まずそうな顔をして僕におはようを言う。昨日、僕の予定を訊いてきたから近いうちに会わせてもらえるような気がする。
「お父さんのこと嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「一人嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
お父さんは嫌いじゃあない。参観日に来てくれなくても、日曜日に遊んでくれなくても。夏休みにどこにも行かなくても僕はお父さんが好きだ。僕が小さい頃、お父さんとお母さんは離婚した。僕はよく覚えていないけど、お母さんは僕を引き取りたかったけどお父さんの方がケイザイリョクもあったから引き取ったんだって言っていた。
だから僕はお父さんに感謝してるし、大好きだ。
「キミはどこから来たの」
「キミの知らないところ」
「キミは僕の何を知ってるの」
「キミが僕を知ってる分だけ」
僕はキミの事を何も知らないから、キミも僕の事を何も知らないのかな。ちらっと隣でブランコを漕ぐドッペルゲンガーを見たら、ちょうど目があってにこっと笑われた。きっと僕の考えていることなんてお見通しだ。
僕たちの漕ぐブランコは、同じペースで前へ後ろへと行く。足を伸ばすタイミングも折るタイミングも、同じ。
「僕は死んじゃうのかな」
「どちらかは死んじゃうだろうね」
ブランコに飽きたのも一緒で、ジャングルジムに乗った。一番上まで登って、夜になってしまった空を見上げる。太陽が沈んでまだ少しだけオレンジ色をしている空の端っこに、金色に光る星があった。一番星、見つけた。
僕らはいつまでも星を見ていたけれど、空からオレンジ色の部分がなくなったのでジャングルジムから降りた。
「帰ろうか」
その声は、僕のものか。それとも、ドッペルゲンガーの声だったのか。
来た時と同じに手を繋いで、公園の入り口まで歩いた。もう外灯がついて、虫の羽音がぶんぶんとしていた。きっと僕たちは同じことを考えていたに違いない。
公園の入り口で立ち止まって、僕らは手を離した。バイバイ、またね。手を振るドッペルゲンガーの手には、外灯の妙に白い光を受けてハサミが光っている。
「バイバイ」
やっぱり僕とドッペルゲンガーの考えていることは同じだった。
きっとお父さんが再婚すると僕は邪魔になっちゃうんだ。よくドラマでやってる。お父さんと新しいお母さんが毎日僕のことで喧嘩をするなんて、考えたくもなかった。
「バイバイ」
僕の口は、声を発音できなかった。かわりにヒューっと喉から息の音が漏れる。痛くはなかった。少し息苦しいくらい。
僕はドッペルゲンガーに心臓を刺されたみたいだ。
身体から力が抜ける。ぐらりと傾いた身体に力は入らない。できれば上を向いて倒れたい。そうしたら僕はずっと空を見てられる。
「またね」
僕が僕を覗き込む。僕はとても悲しそうな顔で笑っていた。またねと言って、僕を置いて走っていく音が聞こえた。けれどうつ伏せになって動けない僕は僕のドッペルゲンガーがどこに行ったのか知らない。
私に会ったら私を殺して