カミサマ、もうすこしだけ







 日が差している。
 いつの間にか暖かくなり、庭の木々は綺麗な新緑を太陽の下で輝かせるようになった。
 それは、生きているものの色だった。

「いい天気だな」

 今は何刻くらいだろうか。微睡んでは眠りに落ち、目を覚ましては微睡みにはまる日々で時間の感覚などとうに狂っている。今はもう、太陽を見上げて辺りをつけることくらいしかできない。
 重い身体を持ち上げて、煎餅布団から無理矢理起き上がる。今はもう、刀を握る気力すら起きなかった。
 ここに運ばれてきた頃には、まだ日々刀を振り回そうと思うくらいの元気はあったし、実際に手にして怒られもした。
 けれどもう、そんなものはとっくに萎えてしまった。

「……みんな、どうしただろう」

 縁側の柱に火照る身体を任せて、やっと一つ息を吐き出す。立って数歩のここまで来るのがしんどくなったのは、どれくらい前のことだっただろうか。
 月も変わり、季節は夏に向かっている。けれど僕にこの夏を越えられるのだろうか。

「総司さん」

 かけられた声は、期待していたものではなかった。僕がいつも期待するのは、紫苑姉ぇの声。けれど彼女はもう一月近く顔を見せてはくれていない。
 一体どこにいるのだろう。今何をしているのだろう。無事、なのだろうか。彼女は。彼は。新撰組の、みんなは。
 入ってきた実姉は、僕にいつも食欲があるかと訊く。けれどその答えに首を振れたことはまだ一度たりともない。食欲はない。もう僕には、何もない。

「食欲は?」
「いらないです。紫苑姉ぇは?」

 姉は、僕が食欲がないと言うと少し悲しそうな顔をする。けれど決して無理矢理食べさせようともしない。優しいのだ。
 これが紫苑姉ぇなら、無理矢理にでも食べろと口をこじ開けられるだろう。実際、ここに身を置くようになった当初、ずっと一緒にいてくれた彼女に半ば強制的に食事をさせられていた。
 僕が紫苑姉ぇの事を訊くと、姉は決まって哀しそうに微笑む。彼女の身に何かあったのかとも初めは勘ぐったけれど、その直後に紫苑姉ぇが元気な姿を見せてくれることもあったからそうではない。僕が、彼女の話題ばかりを出しているのが哀しいのだと気づいた。

「新撰組のみんなは、どうしたんでしょうか」
「噂では会津にいるそうよ。総司さん、あまりそこにいると体に障りますよ」

 太陽の下はぽかぽかと暖かい。そこで僕は、少し微睡んだ。もう姉の声は、聞こえない。
 宇都宮で戦っていたことは紫苑姉ぇから訊いた。また北上して会津にいるのか。その話を聞いた晩、僕は夢を見た。
 浅葱の羽織を羽織って誇らしく、一番組の隊士を引き連れて僕は歩いていた。血刀を提げて、着物のところどころを血に染めて。みんなで武勇伝を語り合いながら凱旋していた。そこがどこだかは分からない。ただ、京ではなかったように思う。夢の中の僕は、まだ戦っていた。

「姉上……」
「何です」
「僕は……、僕たちは強かったんです……」

 いつしか話をするのにも息を切らすようになった。それでも僕は、語るのをやめられない。僕らがいかに戦い、生き、そして仲間たちが逝ったのか。
 京の都で風を切り、不貞浪士を斬り、血煙の中を歩んできた。僕にあったのは大層な理想でも攘夷の思想でもなかったけれど、それでも輝かしい日々を生きたことに後悔はない。
 あの頃の僕は、誰かに必要とされたかった。褒めて欲しい子どもと同じで、誰かの役に立ちたかった。好きな人に有り難うと言って欲しくて、紫苑姉ぇの背中ばかりを追いかけていた。けれど、いつの間にか僕だけが立ち止まった。

「僕は置いていかれたのかな」

 時代から。仲間たちから。役に立たなかったから。
 僕はもう、無用の長物となってしまった。そうしてここで、ひっそりと死を待っている。

「それは違うわ、総司さん」
「…………」
「貴方は頑張りすぎたの。だから少しの間お休みするのよ」

 僕には否定するほどの力はない。休みなんて要らないし、頑張りすぎてなんていない。まだまだ頑張れた。まだ役に立ちたかった。まだ。
 まだ僕にはすることがある。そう考えると、頭が狂ってしまいそうだった。その力は、胃が物を受けつけずに細くなりすぎた腕に何か熱い塊を注ぎ込むようだった。

「姉上。紫苑姉ぇは、いつ来るかな」
「いつかしらね。総司さんは気にしないでゆっくり休んでいればいいのよ。あの人、騒がしいんだから」
「早く帰ってこないかな」

 かさりと、わざとらしい音が庭の方から聞こえる。それはまるで、死神の足音によく似ていた。
 姉のあらいやだ、という声。彼女のすべては、紫苑姉ぇと違う。
 黒猫が、来る。まるで役に立たなくなった僕をあざ笑うかのように僕の手元擦れ擦れをいつも傲慢に歩いて行く。幾度も幾度も僕の手からすり抜けた死神は、今日こそ手が届く場所にいた。

「にゃーん」
「また来たんだね」

 力が入らないはずの身体は、不思議と軽かった。そこまでの力を必要とせずに立ち上がり、枕元においてある刀に手を伸ばす。いつからか重すぎて持ち上がらなかった愛刀は、なぜだか手のひらに馴染んで昔と変わらないずっしりとした重さをまとっていた。

「総司さん?」

 鞘をするりと抜き去り、黒の死神に向かって銀色に輝く刀身を向ける。胆の底から湧き出してくる力は一体どこに眠っていたというのだろう。
 この死神を僕は自力で退治しなければならない、そう思った。そしてこれを斬れると確信していた。
 刀を振るう瞬間の快感は忘れてはいない。間合いを計る感覚もお互いの呼吸を窺う緊張感も、すべて僕のものだ。
 太陽の光に、眩暈がした。けれどそれも一刹那。風切音が耳を掠める。

「にゃぁん」

 皮一枚を裂いて、僕はそれを殺せなかった。ざまあみろとでも言っているつもりか、黒猫は一度鳴いて僕の視界から消えた。
 血糊もついていない刀を鞘に収めて、再び縁側に斃れるようにして腰を下ろした。相変わらず太陽は心地いい。少し昼寝をしても、いいかもしれない。

「紫苑姉ぇ、早く来ないかなぁ……」

 刀を抱えるようにして、重くなった瞼を落とす。その裏に浮かぶのは、浅葱色。
 結局僕は死神を自分で払うことはできなかった。来るなら来るがいい。僕の魂までは持っていかせない。僕の魂はこの刀であり新撰組においてきた。
 ただ、願わくば。あと少しだけ。せめてもう一度だけ、あの日々の夢を見せて。





カミサマもうすこしだけ
(せめて、彼女が笑うまで)