邪念と乙女心うずまく保健室







 たとえば一目惚れ。
 初めてその人に会ったのは入学式のときでもオリエンテーションのときでもない。悲しいかな怪我をして保健室に運びこまれたとき。
 心配そうにしていた白衣の美人に、一瞬で目を奪われてしまった。
 恋をして何もしなかった訳ではない。こうして保健委員になって保健室に入り浸って。今だって、彼は物憂げに視線を落として何かを書いている。

「ねぇ、先生」

 仕事なんてほとんどない。保健委員なんてただの暇委員会だから。
 保健室にいるのはあたしと先生と、先生。

「どうかしましたか?」
「ヒマ。遊ぼ」

 先生はきっと忙しい。けれど、とても優しい。
 それを分かっているけれど。知っているから。ほんの少しだけワガママを言ってみる。
 先生は思ったとおり少し困ったように眉を寄せて、眼鏡のレンズ越しにあたしを見た。
 分かってる。知ってる。先生は身体検査の準備で忙しい。あたしは自習時間でつまらない。
 
「聖さんとでも遊んでてください」
「うわ、佐倉なんだよその嫌そうな顔」
「別に。聖せんせー遊ぼ」

 人外の美貌を持つ化学教師は、授業が入っていない時間はよく保健室に来る。
 だから3年で授業サボりまくりのあたしとは必然的によく会う訳で。だからと言ってあたしが彼を好きになることはない。
 吉野先生がファイルを片手に仕事をしているのを見ながら、あたしは心にもないことを言ってみる。

「聖せんせーって指輪してないよね」
「指輪?してんじゃん」

 不思議そうな聖先生はあたしの前に左手をかざす。中指にはまったヴィヴィアンのゴツめの指輪。それはそれで素敵だし似合っているけれど、そうじゃなくて。

「結婚指輪」
「あぁ。しねぇな」
「なんで?」
「なんとなく」

 ふーんと気のない返事を一つ。
 それから冷たい机に頬をつけて上目遣いに吉野先生を見ると、こちらを気にもしないで仕事をしてる。その姿にまたときめいてみたり。

「聖先生って保健室好きだよね」

 吉野先生に彼女がいることは知っているから、聞かない。
 何度も傷つくのはゴメンだから、たった一度だけでいい。口に出さないから傷つかないとは思ってないけど、そう信じていたいのはあたしの勝手。

「何か落ち着かねぇ?」
「おちつくー」

 吉野先生がいるから、あたしは保健室に。
 聖先生も、もしかして吉野先生がいるからなんじゃないかといらぬ勘ぐりを一つ。

「聖センセって吉野先生のこと好き?」
「は?……嫌い?」
「僕だって嫌いですよ」

 一瞬ポカンとした聖先生が、白衣のポケットから煙草を出しながら答える。
 仕事中の吉野先生が横から口を挟んでくるのはいつものこと。ちゃんとあたしの話を聞いてくれる証拠だから、あたしはいつもそんな話をする。
 けれど聖先生と吉野先生が仲良しなことをはちゃんと知ってる。口ではそういうけれど、誰よりもお互いを信頼しているのがよくわかるから。
 だから、他の女に取られるくらいならいっそ、先生たちができてればいいのに。なんて。

「保健室って秘密って感じしません?」
「秘密?」
「なんか、シチュエーションにドキドキする感じ」

 涼やかに流れ込んでくる風とか、揺れるカーテンとか。たまに覗く、ベッドとか(ベッドは聖先生が仮眠をとっていることが多いけれど)。とても、そそる。
 例えば惚れた人が教師で、恋人がいて。だからあたしは、熱烈に憧れる。

「あー……」
「僕の保健室、立ち入り禁止にしますよ」

 聖先生の思い当たるような長い息に似た声に吉野先生の呆れを含んだ声。
 やっぱり相当場数を踏んでいる美貌は違う。きっと一瞬であたしの考えたことを理解したのだろう、煙草を吸いながらにやにやしている。
 吉野先生の保健室。学校内の区切られたスペース。誰もいない、絶対の空間。
 発情期の猫並みに、あたしはそれを欲している。

「保健室は後処理が大変だぞ」
「うわ、生々しい」

 例えばあたしが学生じゃなくて先生と同じ立場の教師だったら。
 例えばあたしが彼女よりも先に先生と出会っていたら。
 例えば。
 あたしはそんなしょうもない妄想を何度もした。けれど得たものは、何もない。

「俺が教えてやろうか?」
「ご免被りマース」
「んじゃ吉野に教えてもらえば」
「……先生、セクハラで訴えるよ?」

 ここで一瞬の後悔。
 軽い冗談みたいなノリで話を振れば。もしかしたら本当になったかもしれない。
 けれどそう簡単にいかないのが乙女心という奴で、やはり襲うよりも襲われたい。
 だから、あたしは何気ない振りをして笑うしかない。こんな欲望と純情をないまぜにしたカオスを隠して。

「ま、俺は切ないモン抱えて過ごしてるだけのお前は凄いと思うけどな」

 本心を言えば抱かれたい。ぐちゃぐちゃにされたいと思っているあたしはきっと真性のマゾだと思う。
 こう思いながらも、この状態が好きなのだ。苦しい、この状況が。

 涼やかな風とかほのぼのしたあたしたちだけの空間とかがとっても好きで。先生が好きで。戯れに言葉を一つ、唱えてみる。

「吉野先生。好きだよ」

 吉野先生は「ありがとうございます」と言って笑うだけ。伝わっているのだろうか、あたしの恋心。伝わっていなければいい、あたしの欲望。
 激情にも似た欲望をあたしは隠しきれているだろうか。
 この思いを抱いたままあたしは今夜も眠りにつくだろう。たったひとりで。
 でも、この思いを口に出す勇気はなかった。そんな乙女心が憎い。
 ただただ、好きなんだ。この人が。それだけ。





邪念と乙女心うずまく保健室
(けっこう本気、なんだけどな)