Dive into the concrete-road







 女が死んだ。別に俺の母親でも恋人でも妹でもない。年下の幼馴染の友達の、女だ。
 子供を残して、疲れたと言い残して、気に入りの立体交差点の上から文字通りコンクリートの海に飛び込んだ。俺ではない男と一緒に。

「都会の海とは、よく言ったもんだ」

 その女は、妻子がある男に惚れた。その男もその気になって子供まで作ったが、本妻を捨てることはできなかった。何年も何年もそれを娘と待ち続けた女は三年目の今日、男と一緒に身を投げた。三つになったばかりの彼女の娘は事態の深刻さを理解もできず、葬儀の最中ずっと不思議そうな顔をしていた。そのとなりで、理解したガキが泣きそうな顔をしていたのがひどく印象的だった。
 身内だけの葬儀だから時間はかからなかったが、俺が外に出られるほどに時間ができたのは夜になってからだった。ガキどもを寝かしつけて深夜ようやく家から出てこれたから、例の交差点に花束を持って出向く。

「ここもそんなに綺麗じゃねぇか」

 生前、彼女は海が好きだといっていた。けれど東京のど真ん中にあるわけもなく、東京湾はどす黒く汚れてしまっている。けれどこの街よりも汚い海も、そうないだろう。
 別に彼女が好きだったわけじゃない。幼馴染が子供を産んで、一緒に育てている。そこに加わった女だ。彼女の子供もまた育てるようになった、それだけだ。ただ彼女が死ぬ時は自分に声をかけてくれるだろうと思っていたし、ましてや子供を置いていくとは思っていなかった。

「あーちゃん?」

 舌っ足らずな、声がした。さっき寝かしつけたはずの、幼馴染の息子の声が。
 後ろを振り向けば、しっかりとコートを着て彼女の娘の手を握って少年が何故か泣きそうな顔で立っている。あぁ、そうか。玄関に鍵を掛けてこなかった。夜は幼馴染は仕事でいなくなるから、こいつらは二人きり。目を覚まして追ってきたのか、目を覚ましてここに来たのか。

「ひぃ坊。どうした?」
「起きたらあーちゃんがいないから」

 俺を探しに来たのか。俺を探して簡単に探し当てられるなんて勘が鋭いのか俺が分かりやすいのか。普段からこいつの勘の鋭さを褒める所だが、今日ばかりは自分の失態に溜め息を零す。俺が分かりやすかったに決まってる。花まで持って、丸分かりじゃねぇか。

「こんな遅くにガキが出歩くんじゃねぇよ」
「まだ十二時前だけど」
「ガキにゃ遅ぇの。ほら、コトなんて寝かけてるだろ」

 手を繋ぎながら船を漕いでいる少女は今にも倒れてしまいそうだ。母親が死んでも分からない少女の体を抱きかかえて、こんな所にいてもしょうがないことを知りながら手摺に体を預けて煙草を取り出す。俺について聖も手摺に背を預けるが、見上げてくる瞳が迷子の子供のようだった。

「あーちゃん。ここ、なの?」
「あぁ」

 ほぼ丸一日前、彼女は車の通りのなくなったここから身を投げた。まだほぼ真下のコンクリートにはどす黒い染みが浮かんでいる。闇に呑まれてここからでは見ることができないが、確かに浮かんでいる。子供に見せるものじゃないからありがたいけれど、俺はそれを見たかった。見て、彼女が死んだのだと自身に知らしめたかった。

「人って、かんたんに死ぬんだね」
「そうだな。簡単に……それこそ簡単に死ぬ」

 このガキはどれほど分かっているのだろうか。人は本当に儚い。泣くのもアホらしくなるくらい簡単に死ぬ。だからこそ人は美しいのかもしれないし愚かなのかもしれない。
 舌っ足らずのこの少年は母親に良く似た女みたいな顔で悲しそうに眉を寄せ、俺の腕をぎゅっと握った。ガキもガキなりに理解して、悲しんで、考える。だったら今何も知らずに腕の中で眠っている少女もいつか理解するのだろうか。人の命の儚さを。愚かしさを。

「あーちゃんは?」
「俺?」
「あーちゃんも、死にたいっておもう?」

 鬱陶しいくらい子供は敏感だ。どうしてこうも読まれたくない心の内側まで読んでしまう。俺が油断していたのもあるけれど、それにしたって鋭すぎる。
 別に死にたくないし死のうとしたことはない。死のうと思ったことはあったとしても、死のうとしたことは、一度もない。死にかけたことはあるが。人の命は儚くそして脆いものだと知っているから、それに逆らうように図太く意味もなくただ生きている。ただ、生きていた。

「ひぃ坊」
「ん?」
「死のうとか思うなよ。生きてれば、いつ死ぬか分からねぇ」

 死にたいと思っていたのに死ねない自雑未遂者がごまんといる。死にたくないと嘆きながら死んでいった人間がごまんといる。死ねないのは意志の弱さで、死んでしまうのは運の弱さ。同じ生きるならば意志のせいではなく運のせいで、少なくとも己の意思で先に進めるようになればいい。
 そう思いながら、生きてきた。きっとこれからも、生きていく。

「おれも死ぬの?」
「死ぬさ。生きてるんだから」

 四つのガキに説くには重過ぎるテーマかもしれないが、こいつはたぶん理解できるだろう。理解できなくてもいい。これは俺の自己満足に他ならないのだから。
 生きているから死ぬ。けれど死ぬから生きているわけじゃない。相反せない一方通行の関係ではあるけれど、それは絶対の法則。生と死は誰にも予測もコントロールもできない。できるとしたら、全能ではない神の気まぐれだ。

「でも死んだまま生きてたって意味はねぇ。しっかり生きろ」
「死んだまま生きてる?」
「まだわかんねぇか。死ぬ時に楽しかったって思えるように生きろよ」

 つまらないまま生きてもしょうがない。だったら見事に散って来いと俺は背中を押すだろう。
 きょとんとした顔を見なくてすむように頭をかき回して、煙草を吐き捨てた。踵で火を消す。草がもみくちゃに千切れたそれを蹴っ飛ばしてから、もう一度だけ歩道橋の下を見下ろした。下はただ、黒い。

「帰るか」
「うん」
「帰ったらさっさと寝ろよ」
「ココア飲んでから」

 その黒いものに無造作に、花束を放り捨てた。ゆっくりとしている訳ではない花は、女と同じ道を辿って闇の中に消えていった。花の命も、儚く短く。
 コンクリートの海に飛び込んだ。





Dive into the concrete-road
(命短し、散れ恋の花)