痣色の花
口内に充満しているマイルドセブンの風味。それは充満しているはずの血の味を消すには十分ではなかった。煙草の匂いと鉄錆の味が混ざり合って酷く不快だ。
空は、鉛色。曇天。今にも雨が落ちてきそうな空から視線を逸らすために下を見ると、はるか下に口の端にできているであろう痣と同じ色をした花が集まって咲いていた。あれは移り気の花か。
「……俺だって泣きたいっつーの」
もう本当に、踏んだり蹴ったりだ。喧嘩しても燃えきらず、ケリがつく前に警察が来る始末。憂さ晴らしとばかりに適当に引っ掛けた女と寝れば、何が悪かったのか顔を殴られて。
悪い日には悪いことが続くものだ。だから、だからこそこんな日が嫌いだ。こんな、雨が降りそうな日はあの日を思い出す。
「澄那みっけ」
「夏夜」
今授業中だと文句を言おうと思ったけれどどうせ相手からも同じ文句が飛んでくるので何も言わず、一つ年下の友人が近寄ってくるのを何とはなしに振り返ってみていた。寒い屋上は下から見る以上に風が強く、紫煙はあっという間に吹き飛ばされる。だから夏夜のスカートもバタバタと煽られて。
「スカート捲れるぞ」
「すけべ」
「そー。俺、えっちだから」
少し自嘲に似たことを言うと、自然に顔もそんな風に笑ってしまうようだった。夏夜の瞳に映った俺は、酷く自虐的に笑っていた。
あぁ、どうして寄りにもよってこの子が今となりに来るんだ。どうして、あいつじゃない。
「あ、煙草忘れた」
「ん」
忘れたとポケットをパタパタ叩く夏夜は十六歳になったばかり。いつもなら絶対に渡さないけれど今日はどうでもよくて手元の箱を差し出した。意外そうな顔をしたけれど、背に腹は代えられないほど飢えているのか夏夜は手に取った。
「また喧嘩?」
「女に殴られた。顔は」
「ボディ喰らったの?」
「内緒」
夏夜には、内緒。腹にでかくある痣も背中にある傷も、全部内緒。俺の心の中は誰にも内緒。あいつ以外には、誰にも言わない。もしかしたら、あいつにも。
「また女か」と夏夜はいうけど、別にまたって訳じゃない。俺は女も簡単に殴るし傷つけるけど、でもたった一つだけ苦手なものがある。それは先天的じゃないけれど後天的でもない。強いて言うなら、深層心理。
「この辺の奴等はみんな弱いしなぁ」
「澄那が強いんだよ」
「何、褒めてくれたの?」
「事実を言っただけ」
そんなことを言ったって、実は強いとか弱いとかには興味がない。ただ、殴られることは嫌いじゃない。殴られている間はその人間は自分を見ているということだから。残った紫色の鬱血は、その時間が確かに存在していたという証拠だから。
あぁ、歪んでいる。
あいつに言わせればそんな俺の想いは無意味で、相手をして欲しかったら笑えばいい。でもね、俺は笑えないんだよ。お前みたいに上手く笑えない。
「雨降りそうだよ」
「天気予報、雨だって」
「何でこんなトコにいんのさ」
「屋上が好きだから」
雨の日は一番最初の記憶。殴られて体中を傷だらけにして。けれどそれは決して悲しい記憶なんかじゃない。けれど決して、楽しい記憶でもない。ただ、悦しい記憶ではあった。
「澄那って殴られるのが好きなわけ?」
「はい?」
「だっていつも傷だらけ。女にだって殴ってもらってんでしょ」
当たらずしも遠からずな回答。視線を上げれば重い曇天、下げれば痣の花。
思わず笑ってしまったけれど、言葉なんて出てこない。殴って欲しいと直接な欲望はありはしない。けれど回り道をして長ったらしく理由をつけても結論としては殴られたい。結局俺はマゾヒスト。
とても歪んだマゾヒストの集大成。
「夏夜には少し難しいか。俺ってマゾだからシルシが欲しいんだよ」
「……やっぱマゾなんじゃん」
「痛いのが好きって訳でもないんだけどね」
体に残る直接的な刻印。支配欲でもなくただの欲望。それは数日痛みを伴って残って、最後には跡形もなく消えていく。そんな一時的な繋がり。一時的でいい。ほんの一瞬でもシルシが残ればそれでいい。残らないものも、この世界にはあるんだから。
移ろうほど簡単に、消えていく。花が咲いて枯れるのと同様に何の跡形もなくなかったことになる。それはたった一刹那に満たない支配。証。シルシ。絶対。
「俺、花って結構好きなんだよね」
「何で?」
「マゾヒストだから」
そんなに意味わかんないって顔しないの。俺じゃない奴には分からない理屈なんだよ。
一刹那、たったそれだけのために払う犠牲を意に介さない自分はきっと狂っている。それは自分でも分かってる。でもやめられない。花が花であることをやめられないように、俺も自虐の徒であることをやめられない。
それはきっと先天的でも後天的でもなく深層心理。
「かーえろ」
指で挟んだ短い煙草。ただ何となく、本当に自然な仕草でそのまま指から離した。吹いた風に一瞬にして先端を赤く光らせて空に舞い上がり、フェンスを越えて落っこちていった。最後の残りを絞るように赤い光だけを点々と残して、落ちて行く。痣色の移り気の中に、堕ちてイク。
まるで、俺みたいだ。
「待って澄那!置いてくなよ!」
「夏夜が勝手に来たんでしょーに」
見えなくなった煙草は、俺の未来。それから目を逸らすようにして踵を返すと、タイミングを計ったかのようにポツリと大粒の雨粒が頬に落ちた。
少し足早に校舎内に続く扉に向かうと、夏夜が煙草を吐き捨てて足で揉み消し駆け寄ってきた。駆け寄ってきたくせに俺を追い越して、先に一人で屋根の下へ。思わず、足を止めた。
いつになったら楽になれるのか。きっと花が散るまで、一秒の間を生き続ける。それがたとえ、移り気だとしても。
痣色の花