あなたにあえたわたしはたしかにしあわせでした







 ここに人が寄りつかなくなって、幾許の月日が過ぎ去り幾つの季節が廻ったのだろう。
 いつからか、この様相は変わらなくなってしまった。


 枯れることをしらない長く伸びた雑草。
 豊かに瑞々しい葉を茂らせる木。
 時折吹いてきた風が、音のない湖の湖面を揺らす。
 かつては気高い深紅色をしていた軍旗は、眩暈がするほど長い月日に晒されてすっかりくすんでしまった。

「王よ」

 かつての、我が主よ。
 あれから幾許の太陽が空に昇ったでしょう。我々の時代は、あまりにも短かった。
 時代は変革し、変わってしまった。もう我らの知る世ではないのです。
 この深紅の旗が鮮やかに大空の下をはためいていた日々は、虚空へと消えてしまいました。
 その月日は私が受けた背の傷を塞いでくれましたが、そこから抜け出した魂は未だに還ってきてはくれません。
 貴方と共に、消えてしまいました。


 この世は、平和である。
 けれど、六十年も遡れば戦乱の時代であった。
 この地も荒野と化し泉は枯れていた。その頃は、我らの深紅の旗は堂々と荒野を染めていたものだ。
 その栄光も長くは続かなかったけれど。
 たった二年の、短い栄華だった。けれどそれは最高の二年だった。
 戦の傷跡が癒えてきた頃に、再び内部に戦火が燻る。それは内側から静かに王を焼き尽くした。
 すなわち、反逆だった。

「王陽が斃れました」

 かつて貴方を貶めた男は、同じように貶められて死にました。
 けれどその事実を誰も知らない。
 事故死だと発表された。けれど私は知っている。あの男も殺されたのだ。

「あの人同じ、国は乱れません」

 この泉のように。
 もう乱れていたあの時代を知っている人間は私以外にいるまい。
 あれから色褪せるほどの時が過ぎ、この泉のように私は取り残されている。

「貴方のおかげです。我が王」

 私は貴方と出逢って運命が狂わされました。
 ただの農民の私が、覇者の隣で世界が変わる様を見ることができたのです。
 私にとって、貴方が運命そのものでした。

「あまりにも世界は変わってしまった。あまりにも」

 ここは変わらない。
 荒野に草が茂り、木々に実が実る。
 いつからか小鳥が鳴きだし、ここを参る仲間たちの姿も絶えた。
 あれから六十年もの月日が過ぎたのだ。
 ある者は処刑されたと聞いた。
 ある者は裏切りを良しとせずに自ら命を絶ったそうだ。
 私は一人、逝き遅れた。
 たった一人、この場所で墓守を命じられたのかもしれない。
 時間が停滞したこの場所で、歳を取ったのは私だけだ。

「もう誰も、何も知らないのです」

 戦禍を消すために、命を消された仲間たち。
 残ったのは、あの男に加担した人間ばかりだった。
 この国の成分は、すべて同じものになってしまった。

「あの忌々しい戦禍も、貴方のことすらも……」

 戦がいかに愚かなものか。
 それを知っている人間ももういまい。
 知っているということは、伝えるということだ。
 彼らは己の愚かしい行為を隠蔽し、初めから王者であったように振舞っていた。
 悲惨な光景は、もう誰も瞼の裏にも蘇っては来ないだろう。

「貴方の、ことすらも」

 貴方は、災厄の王だったのでしょうか。
 それとも運命そのものだったのでしょうか。
 はたまた、軍神だったのでしょうか。
 私は何も知らない。
 貴方は私に世界の仕組みをつきつけ、現実を見せてくれた。
 あの高台から見た景色を、私は生涯忘れることがないだろう。
 大地を染め上げた深紅の旗。真っ青な大空に浮かぶ白い雲も。
 あの日の、貴方の顔すらも。

「何一つ、世界は覚えていないのです」

 私は、この景色が忘れられない。
 そうして、私の覇者に支配されたまま私は生きながらえた。
 貴方後を追おうとした私を、貴方ががんじがらめに縛ったのです。

「もう、解放して頂きたい」

 たった一言。生きろ、と。
 貴方はそう命令した。
 生きて、世界を見届けろと。

 私の解放は、いつだ。

 世界は変わりました。
 貴方が幼くして夢見た時代とも、
 貴方が君臨していた時代とも、
 貴方が斃れた後の時代とも違います。
 世界は変わったのです。

「私もじきに朽ちるでしょう」

 墓守としての役割は終わる。
 結局貴方は、覇者だった。
 貴方を貶めた男ですら、貴方を犯すことはできなかった。
 墓守の私に対して、何も言わなかったのがその証拠だ。
 貴方を消すつもりならばこの地をも消し私を排除するべきだった。
 けれど、それは行われなかった。

「結局私は、貴方を見ているだけだったようです」

 この地に留まり、深紅の旗に想いを馳せて。
 放っておいてくれるのならばと、ここで墓守を選んだ。
 貴方の愛した場所を守りながら、私は貴方の世界に住み続けた。

「我が王」
 
 この深紅の旗は、私が朽ちた後もここに墓標のように立ち続けるでしょう。
 私は、あの日の光景を忘れない。
br>



あなたにあえたわたしはたしかにしあわせでした
(深紅に刻まれたライオンは、眠っている)