BLUES





 その日、世界の全部が薄汚くて卑小なものに見えていた。

 空は青。太陽は心地よい照り加減で湿度もそれほど高くない。
 洗いざらしたジーンズみたいにくすんだ色。天気予報で絶賛されていた気温はまるで無菌室のように肌に何も刺激を与えない。
 けれど本当は、空は嫌いじゃあない。
 どこまでも高い空を見ていたら何もかも放り出してどこかにいける気がして。
 だから、紫煙はずるい。吐き出したそばから勝手気ままにどこかへ行ってしまう。
 屋上で一人、落下防止のフェンスに腰掛けて、このまま落ちたら空を飛べるだろうかなどと、詮のないことをまた考える。

「死んじゃうの」

 授業中の屋上。誰もいない、誰も来ない。
 絶対にそうだと信じていたのに、覆された事実。
 急に声をかけられて、反射的に振り返ろうとしてバランスを崩した。はじめは体が傾いで、反射的に何かを掴もうと手を伸ばして、指から離れた煙草見るはめになる。
 どうにかフェンスに指を引っかけられて、囲いの外側に出てしまったけれど助かった。
 さっきまで落ちてしまおうかと考えていた自分のその行動に驚きはしたものの、勝手に口から安堵の息が漏れた。

「こっちおいでよ」

 その声の主は、男子生徒だった。にこにこ笑っているけれど、こっちおいでも何もこいつが来たことが原因だ。来なければいつもどおりに飛び降りようか考えて結局やめているに決まっている。

「そこ、危ないよ」
「だれのせい」
「君がそこにいるのがいけないんだよ」

 屋上は風が強い。バタバタと煽られて短いスカートをはためかせている。こんなのもいつものことだ。普段は気にしないけれど、さすがに裾を押さえてフェンスを登った。飛び降りて、火が点いたままの煙草が転がっていくのを見送った。

「ラッキーパンツ。青」
「うっさい」
「自殺未遂ちゃんは二年?」

 たった二歩だけ歩いて、どっこいしょ、と胡坐をかいた彼の視線は上履きに向けられていた。学年カラーは彼の言い表したとおりの赤。そういう彼は上履きの代わりにわらじを履いているので見当がつかなかった。
 その視線に気づいたのかただ単に世間話なのか、「俺は三年」。

「授業中に自殺?」
「違います」
「俺はサボリね」
「聞いてません」

 まったく変な人だった。
 人の話なんて完璧に無視して、パックにささったストローなんかくわえて。イチゴ牛乳は外見に全く似合っていなかった。
 根元の黒い、色素の抜けた白みたいな金髪には細く剃りこみまで入っていて、耳に無数に開いたピアス。ブレザーの下に着ているのは指定のシャツではなくて黄色いパーカーだし、だらしなく腰まで下ろしたパンツからはピンクの下着が見えている。
 彼が喋るたび、唇の端に開いたピアスに目がいった。

「お名前は?」
「……長岡冴枝」

そっか、さえちゃんか。そう言った彼は、にこりと笑ってこう言った。

「君、死にたいの?」
「…………」
「あれ、だんまり? 別に死にたきゃ止めないけどね。君、死ぬ気ないでしょ」

 初めて聞く言葉の羅列に、返しなんて当然出てこなかった。
 今まで、みんながみんな死んだらいけないだとかトオトイ命だとか、甘ったるい言葉を偉そうな口調で語っていた。それが馬鹿らしくて、この人もそんな大衆と同じだと思っていたのに。
 感じたのは、未知。
 たった一歩分、足が下がった。

「さっきも怖かったよねぇ」
「別に怖くなんか」
「じゃああんなに必死に生還しないと思うけど」

 得体の知れない男だと、思う。
 喉でごろつくような笑い方をして、名も知らない上級生だという男がポケットを漁る。何が出てくるのかと思ったらミルキィを手のひらに乗せていた。
 差し出されたけれど受け取らず、ポケットの中の煙草を引っ張り出す。白い箱にエメラルドグリーンのラインが入ったパッケージは、なんとなく安心を呼び覚ます。その理由は分からないけれど、手早く火を点けた。
 空に昇っていく白煙は、すぐに霧散して消える。

「変な薬とかはやってないよね?」
「は?」
「だってサエちゃん、死にたがりじゃん」

 視線は昇っていく紫煙だけを見て。ごろつく不安定な声を聞く。決して会話をする気なんてなかったのに、予想外のことばかり言うものだから。

「意味が分からないんだ、ですけど」
「ちょっと座って、座って」

 座ってと繰り返しながら勝手に腕を引っ張られて、彼の正面にペタンと正座を崩した形で座らされてしまった。途端に、左手首を掴まれる。反射的に振りほどこうとしたけれど、彼の力は強かった。

「手首、見せて」

 変な、人だ。
 歪んだ口元の、唇を貫通して鈍く光るピアスに目がいった。
 抵抗がないと分かったからか、痛いくらいの力で掴んでいた無骨な手が一本一本指をはがしたその下に這っている幾筋もの皮膚を引っ張り合わせたような痕。
 普段無造作にさらしているくせに、改まって見られると裸を見られるほどに恥ずかしい。

「俺、手首切る気持ちってわからないんだよね」
「……変な人」
「痛いの好きなの?」

 そんなことを聞いてくる人間は初めてだった。大抵のヒトがこれを見ると「こんなことはいけない」「馬鹿なことはやめろ」「どうしてリストカットなんて」と問い詰める。それが嫌で苦しくて、増えていくとはだれも知らない。
 首を横に振ると、彼は例のごろつくような笑い方で口の端を持ち上げた。

「俺も嫌い」

 つ、と彼の太い指先が傷の上を撫でる。その後が焼けるように痛かったような気がして、思わず手が逃げ出した。胸の前でその部分を右の手が覆い隠すように握る。
 傷跡がズキズキする。

「何で手、切るの?」
「痛いから」

 質問された事柄に、慎重に答える。目の前のこの変な人が何を考えているのかまったく分からないから、怖かった。
 未知が怖い。この人は、“未知”そのものだ。
 目の前の人は、不思議なものでも見るような表情を浮かべていた。一度空を見上げたけれど、何も言わずに視線を戻してくる。じっと瞳を覗き込んで、まだ不思議そうな顔をしていた。
 目を見られるのは好きじゃあない。
 心の中身が盗まれてしまいそうだ。

「痛いの嫌いなのに、手を切るんだ?」

 なぜ、という問いに答えられたことはない。何を言っても本当に理解してくれる人なんていなかったし、きっと誰だって、そんなことかと呆れるのだから。それなら口にしない方が何倍もいいと、ずっと思ってきた。
 だから今日も沈黙で答えに代えた。別に察せと言うわけでもないのに、お節介な大人は分かったふりをして沈黙を悲しみと取る。余計なお世話だった。

「もっと楽に生きれればいいね」
「は?」
「俺みたいになればきっと、人生三倍楽しくなると思うよ」

 さっきまでとは違う夏の空みたいな笑顔で笑って、その人は頭を撫でた。髪をなでられるのは好きじゃあないのに、なぜだかこの手は払い退ける気にならなかった。

「俺、真瀬春央」

 ハルオウ。
 聞いたことのない名前らしい音を繰り返したら、「春の中央でハルオウ」。彼は笑った。
 彼の手はもう頭からどかされていて、太陽のぬくさが頭を焼く。

「ま、一生青春ってことだよね」
「馬鹿みたい」

 馬鹿みたいだけど、馬鹿みたいにいい名前だと思った。
 ハルだとかハルオだとか友達が呼んでいるというニックネームを指折り並べた彼は、一度手のひらを握ってから人差し指をもう一度立て、そこで止まった。

「サエちゃんなんて呼ぶ?」
「真瀬先輩、で」
「なんだよ、他人行儀。もっと砕けてよ。お互い秘密の関係じゃん」

 太陽の光に唇のピアスが鈍く光った。それを見ながら自分の長い髪に指を絡めて手放す。

「何、秘密の関係って」
「ちゃんと敬語使えよー」
「秘密の関係ってなんですか」
「冗談、冗談。いいよ、そんなかしこまらなくて。俺とサエちゃんの仲だし」

 変な人だと、思う。敬語を使えと言ったり、使うなと言ったり。ただ人懐っこい笑顔が印象的だった。

「ここ立ち入り禁止じゃん。どこの棟からも見えない絶好の場所だしね」
「私は別に」
「マジでか。ここの鍵なんて誰も持ってねぇよ? てか、サエちゃんどうやって入ったのよ」
「鍵、開いてたから」
「あれ、俺閉め忘れた?」
「聞かれても」

 腕を傾げて首も捻る春央はやっぱり馬鹿みたいだ。でもその馬鹿らしさが羨ましくもあった。どうしたって彼のようには、生きていけないだろうから。
 ここの鍵は彼しか持っていないそうで、何度もおかしいなと言っている。彼だけがここの鍵を持っていることの方が不思議だと思うのだけれど。

「ま、いいや。ここ、俺とサエちゃんの秘密ね」

 口の端をひん曲げて笑い、彼は立ち上がった。傍らのイチゴ牛乳のパックも持って簡単に背を向けてくれる。
 「バイバイ」。後手に振られた手を、ドアが閉まるまで見ていた。だらしない背中は、やはり学校内で見たことがない。

「マセ、ハルオウ」

そっと彼の名前を口に出してみて、それがなんだかくすぐったくて勝手に笑みが浮かんだ。
ポケットを漁って煙草を引っ張り出し、火を点けながら彼が座っていたところに腰を下ろす。
太陽よりも、そこは暖かかった。
紫煙を吐き出して見上げた空は、青い。



   #



 家にいるのは好きじゃあない。
 たまにどこかに逃げだしたくてたまらなくなる。しかしそんな勇気も起きず、結局いつも同じ時間に家に帰る。
 そんなに子どもじゃあないのに、どうしてか明るいうちに帰らなければならないような強迫観念にいつも駆られる。
 一体いつからだろう。
 一体いつから、いい子でいなければならないと思い始めたんだろう。
 ベランダに出てばれないように煙草を燻らせながらいい子だなんて虫がよすぎる話だろうか。夜空に昇っていく紫煙は太陽の下よりも白く存在を主張している。それをとても綺麗だと感じた。

「冴枝、ちょっと」
「何?」

 ベランダは開けっ放し。自室の扉をノックされて応じると、向こう側からちょっと来て欲しいとしわがれた声が呼ぶ。まだ半分しか吸っていない煙草を灰皿代わりの空き缶で消した。
 リビングに行くと、おばあちゃんとお母さんが重苦しい顔をつき合わせていた。父がまだ帰ってきていないことに少しだけ安堵する。

「冴枝、座って」
「うん」

 促されるままに、おばあちゃんの隣に腰を下ろした。流れてくる髪を耳にかけて、だれかが話し始めるのを待つ。
 こんな空気じゃあ指先まで重くなりそうだ。せっかくさっきニコチンで肺を軽くしたのに振り出しに戻っている。

「あのね、冴枝。お母さん妊娠したの」

 俯いているというのに、お母さんは勝手に話を始めた。聞かされたところで顔を上げようとも思わないけれど、ただこれで本当に自分は不要になったのだと思った。
 無意識に右手が左手首を握り、かきむしる。
 爪が、皮膚を破いた。

「それでお父さんと一緒に引っ越すことにしたのよ」

 お母さんの言葉をかき消すように、玄関が開いた音がした。すぐにドタドタと足音が近づいてくる。短い廊下を越えて、リビングの扉が開いてしまった。

「おかえりなさい」

 お母さんは少しだけ微笑んでその男を迎え入れる。姿も声も聞きたくなくて、彼から向けられる視線も浴びたくなくて、彼の横をすり抜けるようにして自室に逃げ帰った。
 背後に感じた冷たい視線は嫌い。みんなみんな、大嫌いだ。
 部屋の扉を閉めて、電気も点けずに机の上のペン立てをひっくり返した。いつも使っているメタルカラーのカッターを掴むと、少しだけ安心した。
 チキチキチキ。
 鈍色の刃を伸ばす。
 幾筋もの傷跡が残る左の手首、そこにまた冷たい感触。
 肉を抉る享楽、痺れるような衝撃。
 銀刃が走った後を、真っ赤な線が追ってくる。
 そうして少しだけ、楽になれた。
 リビングの方からは罵倒する声ばかりが聞こえてくる。きっとおばあちゃんはもうあの部屋にはいないだろう。
 出来損ない。欠陥娘。失敗作。
 数々の言葉であの男は娘を罵った。
 いつの間にかそれが正解であると思い込んでしまうほど、その言葉は刷り込まれた。

「そんなこと、知っているもの」

 何度も繰り返された否定は今更聞いたところで胸が痛むはずもない。けれどその目を向けられるたび手首には傷が増えていく。
 引っ越すから転校するというのか、本当に捨てられるのか。結局、自分がどうなるのかも教えられることはなかった。
 ポタリと涙が先に零れたのか、血が滴ったのか。
 判断する必要もないから考えないけれど、膝が濡れた。
 どうしてか、滲んで像を結ばなかった視界に春央の笑った顔が浮かぶ。
 ――もっと楽に生きれればいいね。
 切ったときは痛くない手首が、ジンと痺れていた。今日はそれがひどく痛くて、きっとそのおかげで泣いている。
 楽な生き方なんて、分からない。



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