BLUES





 気が向いたときに屋上へ足を運んだけれど、大抵は閉まっていた。けれど開いているときには必ず真瀬春央がいた。彼だけが鍵を持っているというのは本当らしい。
 彼はいつもイチゴ牛乳のピンクのパックを持っていて、眠っていたり絵を描いたりしている。

「絵、上手いですね」
「ん? 下手の横好きってやつ。サエちゃんも描いてあげよっか」
「いらない」

 誰からも見つからない屋上で、のんびりと紫煙を燻らす。その隣で彼はスケッチブックに空の絵を描いていた。真っ青な空に真っ白い飛行機雲が通っている。見上げた空にはないから、現実じゃあない。

「サエちゃん。昨日も手、切ったの?」

 切った翌日は手首に絆創膏を貼っている。今まで誰にもばれたことがなかったそれを春央は目ざとく見つけた。
 思わず後ろ手に隠したけれど、彼の目はスケッチブックしか見ていない。画用紙の中にカラスが飛んでいた。

「まだ死にたいの?」
「死にたくはないもん」

 分かんないなぁ、と言いながら彼はズズーッとイチゴ牛乳をすすった。見慣れてしまった口の端のピアスは、相変わらずに奇妙にうごめいている。
 スケッチブックをめくって、また何かを描き始めた。「サエちゃん何が好き」なんて聞くけれど答えは見つからない。

「分かるよ」
「嘘」
「本当。死にたいのに死ねないってのは、弱いことじゃないと思うよ」

 スケッチブックから顔を上げて、春央は口の端を歪め上げて笑った。
 誰かが言う「分かるよ」とは違う、彼の「分かるよ」はなんだか本当に分かってくれたような気がする。大衆の薄っぺらい同意なんじゃあなくて、噛み砕いた果ての同意のように聞こえて少しだけ手首が痛んだ。
 すぐに視線を落として何かを描き始める。それではなく、立ち上っていく紫煙を見ていた。

「死のうとして死ねなかったっていうのは、本能が勝ってるってことだから」

 意味が分からないことには、沈黙を選択する。続く言葉を待つと、鉛筆の音と一緒に彼の耳に心地いい声が流れてきた。
 人間は生きようとするのが本能だから、死にたくないと思うことは本能が優先されているのだと、彼は言う。

「だからね、理性だとか常識に囚われずに生きていけるよ」
「それはそれで問題だと思う」
「死んじゃうよりもいいんじゃないの」
「だからハルオウはこんなに自由気侭に生きてるのね」
「そういうこと」

 否定なんてしないで、彼はやっぱり何かを描いている。
 何を描いているんだろう、と初めて視線を向けながら、短くなった煙草をコンクリに押し付けて持参した携帯灰皿に押し込む。
 スケッチブックの中では仏頂面をした少女が綱渡りをしていた。

「何描いてるの?」
「サエちゃん」
「なんで綱渡りなのよ」
「人生綱渡り、だよ」

 彼にだけこういう風に見えていたのか、ただ周りが何も見ようとしていないのか分からない。けれど彼は見抜いてしまった。
 綱渡りのような緊張感と、いつ落ちてもいいようにと繋ぐ頼りないほど細い命綱。けれど表には出さない、気が狂いそうな焦燥。すべてが絵に詰まっている。

「もっと楽しい絵、描いてよ」
「どんなの?」
「みんなが笑ってるやつ」
「じゃあサエちゃん、笑ってよ。笑ってるところ、見たことないもん」

 泣き笑いのような表情を見られないために、俯くではなく空を見上げた。青い空が目に痛いけれど、嫌いじゃあない。

「サエちゃんの笑顔、見たいな」

 こんなに近くで、こんなに純粋な好意を向けられたことなどなかったから正直驚いた。
 一瞬息が止まって、次に出てきたのは自分らしいのかそうでもないのかすら分からない言葉。

「ただでは見せない」
「うわ、けちー」

 返ってきた言葉はいつもと変わらないものだから、きっと口から出たのもいつもどおりのものだっただろう。少し安心した。

「ハルオウは死にたいって思ったことないの?」
「ないね。だって俺、楽しく生きてるし」
「本能のままに?」
「そう、本能のままに」

 ようやく鉛筆を放して、春央はストローをくわえた。ピンクの液体がストローを昇っていく。
 その隣でもう一本煙草をくわえた。残りが三本だから、買い足したほうがいい。

「堅苦しく考えすぎなんだよ。そんなに構えなくてもどうにかなるって」
「もう遅い」
「世界に適応できないなら世界を適応させればいいじゃん」
「何、その屁理屈」
「俺のモットー」
「社会不適応者の標語の間違いじゃないの」

 憎まれ口を叩きながら、それでも少しだけ気持ちが楽になれた。
 急に春央がじっと顔を覗き込んでくる。吐息がぶつかりそうになるその距離で、ピアスがにぃっと引きあがった。

「サエちゃんの笑顔、初めて見た」

 どうやら笑っていたらしい。なんだかばつが悪くて逃げるように顔を逸らしたけれど、彼の目は追いかけてくる。視線を眩ますために、肺の中の紫煙を吹きかけてやった。
 途端に盛大にむせ返って、仰向けに寝転がる。

「そんなに嫌がるかぁ?」
「人に見られるの嫌い」
「人と向き合うのが嫌い、じゃなくて? サエちゃん、笑った顔可愛いのに」

 どうしてこの男はこうも正解を次々と指摘していくんだろう。初めは心地よかったそれが、今は不快で仕方ない。
 取った行動は、煙草を捨ててここを立ち去ることだった。
 けれど、きっとまた来てしまうのだろう。そんな予感がした。



   #



 すりっと自分の左手首を摩ってみた。
 何の感触もない。
 冴枝の手首はこれよりも細くて冷たく、ざらざらしていた。

「死んだって楽しくないけどなぁ」

 仰向けに寝転がっていれば太陽が眩しい。
 空は今日も青い。
 うつ伏せに転がって、広げっぱなしのスケッチブックを覗き込んだ。仏頂面の冴枝がそこにはいる。
 初めの印象はひどく陰鬱で、声をかけたのだって自殺をしようとしている人間が物珍しかっただけの好奇心だった。
 青い空を背景に、風に翻る濃紺のスカートがひどく印象的だった。どうしてあの時カメラを持っていなかったのかと後悔するほどに。スケッチブックの中には鉛筆の線で切り取ってあるけれど、それだけでは満足できない。
 写真でなければだめだ。
 今日の笑顔だって、不意打ちでカメラを出す隙も与えてはくれなかった。もともとカメラを持っていないのだから隙があろうとなかろうと関係ないかもしれないけれど、余裕がないとは淋しいものだ。

「そだ。サエちゃんの笑顔、描いとこ」

 ページをめくって、白紙の画用紙に鉛筆を走らせる。
 シャープな輪郭から鼻筋を通して、目を細めて。髪は黒い長髪で、前髪は眉のすぐ下でぱっつんと揃えられていた。
 そこまで描いて、手が止まってしまった。どうしても口元が思い出せない。

「あれ?」

 目もほくろの位置も完璧に思い出せるのに、どうしてか唇だけが一文字に引き結ばれたまま動いてはくれなかった。
 思い出そうとスケッチブックを放り出して空を仰ぐけれど、出てこない。
 リアルに思い出せるのは、指先が撫でた彼女の手首のざらつきと煙草の匂いだけだった。



   #



 真瀬春央と顔を合わせて会話したのなんて、数えるほどしかないはずだ。屋上で会ったのが四回。たったそれだけだ。
 それだけの人に、今まで内に燻らせていたものを読み取られて突きつけられたことが腹立たしくてしょうがなかった。
 そういう時は家に帰りたくない。けれど行く場所もないから帰るしかなくて、結局手を伸ばしたのは煙草ではなくカッターだった。
 胸の中にぞわぞわとうごめく不安だったり気味の悪いものだったりが全部、カッターが開けた穴から抜け出ていくような安心感がある。
 手から流れる血は、きっとそういう溜めておいてはいけない汚いものに違いない。それを出して、恨みも憎悪もすべて萎んでいく。そうやって、人は生きていくのだろう。
 じっと流れる血を見つめて、その向こうに春央の面影が重なる。
 理由は分からないけれど、彼を思い出すと傷が痛んだ。
 傷をタオルで包んで縛り、ベランダに出る。今度は胸の中に燻る空気を入れ替えるために煙草に火を点けた。
 眼下ではビルの照明が瞬いて渦を起こしている。
 サエちゃんの笑顔、初めて見た。そう言われた。当たり前だ。人前で笑った記憶なんて久しくない。
 いつから笑わなくなったんだろう。幼稚園、小学校くらいまでは笑っていたと思う。人よりも笑っていた気すらする。
 一体いつから、笑わなくなった。
 ふと思い出そうとしただけなのに気分が悪くなってきて、それ以上思い返すことができない。言葉の代わりに唇から紫煙が漏れた。
 いつからだなんて、そうだ。父親ができてからだ。
 なんだか無性におかしくなってきて、喉が引きつったような笑い声が紫煙と一緒に漏れた。
 煙草を吸い終わって吸殻を処理して、部屋に戻った。傷口をリストバンドで隠したところでリビングからおばあちゃんに呼ばれた。
 お母さんもあの男も、まだ帰ってこない。



   #



 そろそろ紫煙だけが理由じゃあなく、息が白くなる時期だ。
 あの日以降、春央には会っていない。屋上へ足を向けることなく二ヵ月も経過してしまった。その間に手首の傷は増え、生々しい傷跡が消えることはない。
 引越しが決まったと言った両親から、それ以上の進展も聞かない。周りの環境は変わることなく、停滞しすぎて今や淀んでいた。
 屋上に行くには寒いからと自分に理由をつけて、体育館裏のトイレに煙草を吸いに行く。滑稽だと自分で思うが、春央と顔を合わせづらい。どんな顔をしていいか分からない。
 きっと彼は何も気にしていないし、単にこちらの心理状況が問題なのだろうけれど、だからこそ会いたくない。
 そもそも三年ならば学校に来てもいないか、となぜか落胆した。
 体育の時間はひどく面倒くさい。貧血だと偽って休もうかと考えながら、着替えを済ませる。裾で隠れてはいるけれど手首には生々しい傷跡が二本走っているし、これのおかげで血が足りない。
 昇降口で靴を履き替えていると、待ち伏せしていたらしい人がひょこっと現れた。太陽を受けて口の端が光っている。

「サエちゃん」

 まず、なんでここにいるのかという疑問。それから、変わらない安堵感。結局口から出てきたのは間抜けな「は」一文字に他ならないわけだが、彼は気にせずに笑って指でカメラのフレームを作ると覗き込んだふりをした。

「ジャージ可愛いじゃん」

 セクハラ。その言葉が口をついたけれど、おそらく彼には聞こえなかっただろう。近くにいたクラスメイトの女子が、一斉に悲鳴を上げたからだ。
 甲高いそれに目を眇めたけれど誰も気づかない。春央だけが口の端を引き上げて困ったような顔をする。

「最近会わないからさ、待ち伏せしちゃった」

 ぺたぺたと春央が近づいてくると、それに比例してなぜか女子の悲鳴は小さくなった。後三十センチ程度まで距離を縮めた彼の顔をまともに見れずに俯けば、真冬だというのに相変わらずにわらじを履いている。

「今夜ヒマ?」
「は?」
「流星群来るんだって。今日が一番多いの」

 そう言えばニュースで言っていたな、くらいしか思わなかった。夜は好きだけれど天体に特に興味がないので聞き流していた。
 それとどういう関係がるのか問おうと顔を上げたけれど彼の顔はなかった。目の前いっぱいに広がっていたのは、色素の抜けた白みたいな金髪。
 ふわりと香ったのは、甘ったるいイチゴ牛乳の匂い。

「今夜、待ってんね」

 耳元を擽った生ぬるい息に、寒気がした。
 動けずに固まっていると、彼はチャイム鳴るからと勝手に言って勝手に踵を返しやがった。こちらが放心して動けないにもかかわらず、だ。

「長岡さん」

 彼の姿が消えたらすぐ、いつもは挨拶程度しか交わさないクラスメイトが何か言いたそうな視線を寄越した。その中で寄って来たのは一人だけれど、周りにいた全員の女子が会話に耳をすませているんだろう。うんざりだ。

「もしかして真瀬先輩と付き合ってたりするの?」

 誰かに注目されるのは好むところではないし、むしろ敬遠したい。
 こんな人間を気にかけたって、彼女たちの時間の無駄だ。
 まさか思ったことが滲み出たわけではないだろうが、口から出てきたのはひどく不機嫌な声だった。
 そもそも勝手に現れて原因を作った春央が勝手に消えて問題だけを残していくからこんなことになるんだ。

「全然」
「そう、そうだよね」
「それが何か?」
「ううん。ただ真瀬先輩って目立つし人気あるから、彼女とかいるのかなって思って」
「人気あるの、あんな人」

 確かにあんな風体じゃあ目立つだろう。けれど彼が友達と一緒にいるところなんて見たことがなかったからなんだか意外だった。でもよく考えたら彼とは屋上でしか会っていないわけだから、友達と一緒でなくともおかしくない。というより、当然のことかもしれない。
 質問を投げかけると、隣を歩いている名前も知らない女子が少し驚いた顔をして彼のことを語ってくれた。
 明るくて人懐っこくて、あんな風体なのに教師にも好かれている。頭はあまりよくないけれど、運動神経は抜群にいいし博識らしい。
 自分で見ただけの春央しか知らないから、人から語られてくる彼が不思議で仕方がない。雑学なんて彼の口から聞いたことがあっただろうか。聞いたのは半分以上が哲学の方向だったような気がする。

「長岡さんと真瀬先輩って、どういう関係なの?」

 言葉を変えて、関係を聞かれた。付き合っているのと聞いただけじゃあ飽き足らないのか。この関係が彼女にどういうイミがあるのか。
 分からない以上答える義務はないような気がするが、頭は勝手に考えた。
 どういう関係。言葉で縛れるような関係なのだろうか。言い表す言葉が見つからない気がする。
 右手が、無意識に左手首をざらつく布の上から撫でる。無性に煙草が吸いたくなった。
 たっぷり時間をかけてどうにか形にした答えは、ひどく曖昧。

「暇つぶし相手」

 答えに不満があるのはこちらだって同じだ。それなのに名もないクラスメイトは不満を顔に滲ませて「そう」とだけ言って別の話題に話を振ってきた。
 好きなアーティストだとか血液型だとか、特に利となりそうにない質問に生返事を繰り返しながら、もう一度彼との関係について考えてみる。
 先ほどのは不満だ。
 不満しかない。
 けれど結局、答えに相応しい言葉を見つけることはできなかった。
 チャイムが鳴るまでは彼との関係に頭を悩ませ、チャイムが鳴ってからは真瀬春央という人間について考えさせられる羽目になった。
 ふと校舎を見たら彼が窓から手を振っているのだから、しきりに目に付くのは当たり前だが、それもなんだか癪だった。
 結局真瀬春央という人間について、分からないままだ。


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