BLUES





 夜中に学校に忍び込んだら、アルソックなりセコムなりがやってくるんじゃあないだろうか。それに屋上の鍵を春央が持っていようが、学校自体に入れない。
 どう考えたって不可能なんだから来なければいいのに、どうしてか日付が変わるか変わらないかの時間に裏門の前に立っていた。時折酔っ払いが通るけれど、それ以外は静まり返っている。
 煙草を吸っていなくたって吐き出す息は白い。かじかんだ手ではライターを擦ること辛いからダッフルコートの中に突っ込んだまま。
 空は雲ひとつない漆黒で、穴を開けたように星がいくつか浮かんでいた。
 春央はどこにいるんだろう。検討もつかないし、連絡先も分からない。
 春央のことを、何も知らなかったんだ。
 知っていると思った自分が馬鹿らしくなった。クラスメイトの女子よりも知っていると驕っていたくせに、本当は彼女たちよりも何も知らない。彼が有名だということすら、知らなかった。
 煙草を一本だけ吸ったら帰ろう。
 ポケットからかじかんだ手を出して、一本口に銜える。火を点ける前に、誰かがコンクリを踏んだ音がした。

「本当に来たんだ」

 驚きすぎて声が出なかったけれど、彼はいつもの口の端を引き上げる笑みを浮かべていた。その肩に大きなテニスバッグのようなものを担いでいる。
 鞄に何が入っているのかとかどうやって屋上に行くのかと問いかける前に、彼はやすやすとフェンスによじ登った。

「サエちゃん何やってんの? はやくおいでよ」
「ここから入るの?」
「ほかにどっから入れんのさ」

 あっという間にフェンスを挟んだ向こう側に立った彼は、鞄を肩にかけなおしながら手を伸ばしてきた。背丈ほどの高さだから登れないことはないが、罪悪感がつきまとう。
 早くおいでよ、と言われるまで決心はつかなかった。

「置いてくよ?」
「待って、今行く」

 若干のイラつきを滲ませた声に、心臓が凍りつくところだった。慌ててフェンスを登る。
 そういえば、立ち入り禁止の屋上に足を運んでいる時点でもう“いい子”ではないのだ。
 ガチャガチャとフェンスを鳴らして乗り越え、着地で少しバランスを崩した。無様にこけるかと思ったけれど腕を春央に支えられていて、何よりもまず少女マンガか、と自分に突っ込んだ。

「昼間も思ったけど、サエちゃんて運動神経切れてる?」
「切れてない。それに昼間もって」
「体育の時間、超見てた」
「……最低」

 あれを見られていたのか。恥ずかしい。
 背中を向けて歩き出してしまったけれど彼の表情は予想がつく。口の端を少し上げている。きっとピアスは外灯にでも照らされて鈍く光っているのだろう。
 そういえば、今日は月がない。
 確かに体育は苦手だけれど、今日は特に貧血気味なのと今夜のことが気になって体育どころじゃあなかった。それを言ったら負けな気がするから言わないけれど、この野郎と思った。

「どうやって屋上に行くの?」
「あのね、サエちゃん。今は夜中で、誰にも見られる可能性ってないわけさ」
「うん」
「非常階段昇って普通に屋上。いつものとこじゃないよ」

 人を馬鹿にしたように、春央の肩が一度上下した。
 確かにそうだけれど、なんとなくいつものところだと思っていたのだ。それなのにこの態度。後ろから蹴ってやろうかと思ったけれど、階段を登り始めたからさすがにやめた。
 非常階段は校舎の端についている。屋上まで登れるけれど老朽化が進み、歩くたびにギシギシいった。これでは緊急時に生徒が逃げ切れるだけの耐久性はないだろう。

「ふたご座流星群、サエちゃん知ってた?」
「そのくらい知ってる」
「昼間、全然知らないって顔してたけど?」
「してない」

 まただ。また、彼は心までも読んでくる。
 前を歩いているからこっちの様子なんて気づかないはずなのに、彼は笑って「嘘つきの顔してる」と言う。見えないくせに。

「段々分かるようになってきたんだよね、俺」
「親でも分からないのに?」
「分かってるよ」
「分かってないよ」

 それ以降言葉もなく、ただ階段だけがギシギシ鳴っていた。
 それこそ幼い頃はよく笑う子だったと、おばあちゃんが言っていた。でも最近の評価なんて「何を考えているか分からない」「とっつきにくい」「表情が変わらない」なんてものばかりだ。悟らせたくなかったのだから成功といえるけれど、大衆はそれをいけないと言う。一体何がダメなのか説明しほしい。
 階段を昇りきり、屋上に足を着ける。もうギシギシと鳴かないことに少し安心した。もうこれで落ちて死ぬ心配もない。
 途端、自分の感情に驚愕した。
 何が安心だ。落ちて死んでもいいと思っていたくせに。
 何が心配もないだ。落ちればいいと思っていたくせに。

「サエちゃん、寒いからこっちおいで」

 鞄を開けていろいろなものを取り出していた春央に手招きされて、立ち竦んでいた足が勝手に動いた。敷かれている毛布の上に腰を下ろして、天体望遠鏡を組み立てている。彼の足元にもう一枚の毛布が丸まっていた。

「カイロもあるから寒かったら言ってな」

 顔も向けずに彼は言い、望遠鏡を覗きこんだ。片手で毛布に包まりながら、もう片手が鞄の中を漁って立派なカメラを取り出す。それがなんというものでどれ程のものか分からないが、一眼レフだということは分かった。

「お邪魔します」
「どーぞどーぞ。サエちゃんだけ特別」

 そう言った彼の口元は見えなかったけれど、きっと笑っている。ここにはあのピアスを光らせる光源がない。
 隣に座って毛布を膝までかける。彼は体温が高いのか、体の右側が暖かかった。

「ふたご座流星群て知ってる?」
「興味ない」
「カストル付近に出現する流星群でさ、母天体は小惑星のファエトンって言われてんの。そのファエトンてのがさ、彗星だったんだけどガスとかチリとかの揮発成分を放出しつくしてできちゃった天体なのな。なる前に放出したチリが地球の軌道と交差する軌道を巡って、ふたご座流星群になったってわけ」
「うん。全然分かんない」

 興味もなければ聞いたところで全く分からないので軽く聞き流してしまったけれど、彼が雑学が豊富と言うのは本当のようだ。しかもそれをとても楽しそうに語っている。言葉は右から左へと素通りして行ったけれど、空を見上げるのがなんだか楽しくなってきた。
 まだ流れ星のピークには早いからと、彼は望遠鏡を覗き込みながら空を指差した。それがどちらの方向かは分からない。彼の指の先に、星が瞬いている。

「あれがこぐま座。で、その先のこっちが北極星」
「……へぇ」
「分かってないでしょ」
「うん」
「はっきり答えすぎ」

 どれがなんだか分からないけれど彼の指の先を見た。隣からため息が聞こえたけれど、
 呆れられても興味なかったんだからしょうがない。知らないといけないことでもあるまいし。
 毛布の中に入っていた手が少し冷たくなった手に掴まれて、ひやりと外気にさらされた。
 勝手に動かされて、人差し指が示したのは見ようによってはひしゃくの形をした星の群れ。春央の顔が、少し近づいた。

「あれ。分かる?」
「分かる」
「サエちゃんの手、冷たいね」
「そっちが温かすぎるんじゃないの」

 春央の手は温かい。自分の冷たさが浮き彫りになるのと同時に、彼の温かさを奪って暖を取っている。こぐま座から北斗七星、しし座にオリオン、ペテルギウスやらシリウスだと必要以上に詳しい解説付きで星を見つけた。
 手の温度が同じになるのに、ゆうに一時間は過ぎていたと思う。
 手が離れて、鞄の中を漁った彼が温かい飲み物があるよと魔法瓶の小さな水筒を渡してくれた。彼の隣にはイチゴ牛乳の一リットルパックがあり、時折手を伸ばしているが、この時期にそれはどうなんだろう。
 ただ、隣から漂ってくる甘いそれは春央の匂いだ。

「冬の空ってすげぇ綺麗だからさ、一番好きなんだよね」
「分かる、気がする」

 望遠鏡を覗いてしきりに何かを調節していて、春央はこちらを向かない。けれどそれはお互い様だ。
 漆黒の空を針で引っかいたような線が一瞬伸びた。隣から「ほら」と春央の声。

「今の見た?」
「見た」
「寝転がった方が見やすいかもよ」
「うん」

 それきり会話は途切れてしまった。
 ごろりと寝転がった彼の隣に遠慮なく体を横たえ、空を仰ぐ。下に毛布が敷いてあるし隣の男が体温が高いから寒くはない。
 眼の前に広がる一面の星空のところどころを星が裂いていく。
 こういうものを見ていると、すごく自分が小さな生き物なんだと思う。ちっぽけなことで悩んで、死んでしまいたいとすら思って。
 星たちは長い時を漂って、燃えて塵になるというのに。
 それに比べて、人間はなんと儚い生き物なのだろう。
 理由は分からない。涙が出た。
 暗い空で既に過去のものとなった光をひっそりと反射している星の姿が滲んで、鼻の奥がツンと痛む。冷たくなっている頬に熱い涙はまるで煮立った鉄でも流したようだった。

「サエちゃん」

 吐息のように名前を呼ばれた。名を呼ばれてこんなに安心したのはいつ振りだろう。いつもいつも、名前を呼ばれるたびに体が萎縮していた。
 春央の声は、心地がいい。
 続く言葉はなく、代わりのように毛布の下で小指が絡まった。温かい指から温度を吸い上げ、彼から奪う。
 本当に奪っているものは、体温だけなのだろうか。
 一本だけ繋がっていた指は手のひらが重なり手首を捕まれ、五本の指が絡まった。

「私に生きてる価値なんてないのに、死ぬ勇気もないの」

 今まで誰にもぶつけることができず、ずっと胸のうちに燻ってきた言葉がある。
 時に煙草の煙と一緒に体内から抜け出し、時に腕の穴からどろりと赤黒い血と一緒に流れ出た。けれどそれを創造する根は内臓の奥深くで誰にも見せずに大事に抱え、ずっとどす黒いものを膿み出し続けている。
 それを生み出しているのは自分自身だというのに。
 浅ましい感情とともに、汚らしいそれを吐露している。
 押し付けている。汚している。

「死ねばいいのに、死にたくない。もうやだ死にたい」

 矛盾している。
 死にたくないと言いながら死にたいなんて。
 けれどみんな消えてしまえとも言えないから、やはり自分ひとりだけがいなくなれば丸く収まる。

「死なないでよ」

 堰を切った涙が、目尻から流れ出て米神を濡らす。春央の声は白いもやになった。
 絡まった指にぎゅっと力が篭って、手の甲に爪が立てられる。痛いけれど、火傷しそうなほど熱かった。
 滲んだ向こうで星が夜空を裂くのが見えた。春央の声は聞こえない。
 ただ、手を握ってくれていた。
 どれくらいそうしていただろう。春央はずっと黙っていた。流れ星を一つ二つと数え、それが億劫になってやめてから、また性懲りもなく数え始める。三度星を数えあきた頃、繋いでいた春央の手が指を離して手首に触れた。
 傷の一本一本を撫でるように指がなぞる。もうかさぶたが剥がれかけているというのに、傷口が開いたように痛んだ。

「重荷なんかじゃないから、話してよ」

 傷口は確実に開いたのだろう。たった一言がナイフのように臓腑のどこかを傷つけた。
 どろりと、言葉が勝手に零れ落ちる。
 両親が離婚して、十歳の時に新しいお父さんができた。けれど彼は子どもが好きではないらしく、ひどく当たられた。暴力に訴えられたわけではないけれど、彼の言葉が、態度が少女の心身を傷つけた。両親共に働いているから母方の祖母が世話をしてくれてたけれど、それも気に入らないようだった。
 妻の前夫に似ていると言っては睨みつけ、出来が悪いのは昔の男が悪いのだと罵り、いつしかそれが少女の奥深くに滞って形を持った。
 そうして、歪な少女は形成された。
 言葉を並べたなんてもんじゃあない。ただわき出てくるものに勝手に音がついて口からもれ出てきた。春央はそれを黙って聞いてくれた。

「そっか」

 たった一言、話が終わると頷いてくれた。それだけでなんだかすっきりしたような気がする。

「大変だったね」
「うん」
「頑張ったね」
「うん」

 ぽつりぽつりと、春央が手首を撫でながら呟く。それに一つずつ頷きながら、じっと星を見つめた。
 スッと星が線を引いて流れた。

「ハルオウは?」
「ん?」
「何かないの?」
「何かって?」
「あんたばっかりずるい」

 涙はもう止まったけれど、そうしたら今度は頬が引きつってきて悔しくなった。
 だから何かないのと訊いたのに、彼は曖昧に笑っただけで何も言わない。
 何も言わなかった。

「結婚しようか」
「は?」
「冗談」

 あまりにも唐突な言葉に対して口から漏れたのは、気の抜けた声だった。聞き返すために体を持ち上げようとした瞬間に、笑みを含んだ言葉がそれを拒絶する。
 実際、拒絶されたわけではないかもしれない。
 けれど、そう聞こえた。
 それがひどくムカつく。だから、気づかないふりをして体を起こした。覗き込んだ春央の顔は少しさみしそうで。

「空、見えないんだけど」
「うん。知ってる」
「何?」
「別に」

 彼の顔の横に手をついて顔をじっと見つめていても、表情が変わることがなかった。彼の瞳に映りこんだ自分の顔の方が不安そうな顔をしている。
 結局、自分の顔から逃げるように再び彼の隣に寝転がった。握られたままの左手首のかさぶたを、春央の指がすーっと撫でる。
 ほんの少しだけ、少しだけ体を春央の方に寄せた。

「寒い」
「そっか」

 言い訳のように彼の乾いた唇が開いた刹那に言葉を放れば、それ以上何も追求してこない。
 少しずつ明るくなり始めた東の空が、春央の横顔を浮き上がらせていく。まず目の端に映ったのは、唇を貫いたピアスだった。

「明けてきた。撤収準備しよっか?」
「私、何も持って来てないもん」
「手伝ってよ」

 よいしょ、と掛け声一つで春央は体を起こす。望遠鏡からカメラを外し、鞄からレンズを出して付け替えて、今度は調節しながら東の空に向けた。
 けれど写真を撮るわけではなく、すぐにカメラを置いて望遠鏡を片付け始める。

「誘っといてなんだけど、こんな時間に外出してて大丈夫?」
「気づいてないから大丈夫。そっちは?」
「うちは放任も放任だから。全然平気」
「さみしくない?」
「ん? そんなん昔からだし、近所に構ってくれる兄ちゃんもいるから別に」

 日が昇る。急に言ったと思ったら、彼はカメラを構えて東の空を見た。同じ方に目を向ければ、もう夜ではない空を更に明るくするために光の塊がビル郡の間から姿を現す。
 眩しくて目を逸らしたら、春央が見えた。口の端のピアスを引き上げて、笑っている。
 シャッターを切る音がひっきりなしに聞こえた。
 春央の好きなものを、一つ見つけた。

「写真、好き?」
「ん」

 返ってきた返事は面白味のない相槌だったけれど、そんなものを気にしている場合じゃあなかった。
 ビル間を縫って差し込む光の粒が朝靄に反射して、ひどく幻想的だった。
 最高純度で美しいと思える。けれどそれを言葉に当てはめたらそれが的外れのようで、きっと表す方法は彼のように写真に収めることだけに違いない。
 太陽が顔を出し終わるまで、黙っていた。シャッター音だけが聞こえて、初めは世界を分断しているような音だと思ったのにもう空気の音に馴染んでいる。

「綺麗っしょ」
「うん」
「こういうのあるとさ、死んじゃうの勿体無いって思わん?」

 死んでしまったらこの光景は見えない。
 けれどそれ以上に春央に会えなければ見ようとしなかった景色だ。
 だから素直に頷けなかった。

「帰ろっか」

 手早く荷物をまとめた彼に顔を覗き込まれるまで、じっと空を見ていた。雲の薄くかかった空は、綺麗だ。
 歪むように笑んだ彼が差し出した手を取るまでにしばし躊躇って、結局その手に触れた。
 冷たい手だと驚きながら、大きな荷物を担いだ春央が階段を降り始める。
 繋いでしまった手は、とても温かい。
 この手を取ってしまったときに、不安になった。
 繋いだら離す瞬間が必ず来る。そのときに、彼から温度を吸い取った手はどれだけ冷えてしまうだろう。



   #



 天体観測をした翌日は学校を休んで写真を現像した。
 予想以上に綺麗に撮れていて満足して、ついでに冴枝の分を焼き増した。昼休みにでも届けに行こうと楽しみにしていたのに。教室来られるの嫌かな、この間も囲まれて困ってたし、なんて楽しんでいたというのに。

「三年二組真瀬春央、至急職員室まで来るように」

 正に、出鼻を挫くとはこのことだ。昼休みが始まるのと同じタイミング、チャイムに被せた呼び出しなんて聞いたことがない。そもそも担任には朝会ってるんだから、そのときに呼んでくれればいいのに。
 ぶちぶち文句を言いながら、写真の入った封筒をポケットに突っ込んで職員室に昼食を持って行った。以前行かなかったら行くまで呼ばれ続けたことがあったので、学習した。繰りかえし繰りかえし自分の名前が流される昼休みなんて耐えられない。
 職員室に行くと、担任は机で店屋物の天丼を食べていた。行っても食べるのをやめないから、適当な椅子を引っ張ってきて座った。
 おにぎりの袋を開けてかぶりつくと、海苔がパリッといい音を立てる。

「おい真瀬、お前職員室で飯食うな」
「呼んどいて何言ってんの」
「そりゃそうか」

 口に米を詰め込んで注意してきた先生に、こちらも口の中に詰め込んだまま返すと、軽い笑いが返ってくる。どんぶりを持ちながら、椅子を回してこちらを向いた。

「真瀬。お前、昨日屋上に忍び込んだだろう」
「込んでねぇス」
「お前以外に誰が行くんだよ」
「確かに行きましたけど。忍び込んでねぇっすよ」

 口の中にあったおにぎりだったものを飲み込んで、三分の二残っているものを半分口の中に放り込む。ツナマヨ美味い。

「普通に入っただけです」
「夜の学校に忍び込んでんじゃねぇか」
「だから忍んでないですって」
「余計に悪い」

 もぐもぐ。ごっくん。先生の声を聞き流して残りのおにぎりを口に放り込んでごみを机の上に置いた。飲み物持ってきてないことに気づいて、先生から奪おうと思ったら机の上にはいちご牛乳が置いてある。ラッキーと思って手に取ったけど、拍子抜けするほど軽い。中身は空だ。

「それは証拠だ。屋上に置き去りにされてた」
「あ」

 全部荷物は持ってきたつもりだったけれど、ごみはうっかり忘れてしまったらしい。忘れていたのか、冴枝の手の感触に意識が行っていたからか分からない。昨日の状況から後者な気がするが。
 おにぎりを飲み込んで、あからさまにしまったという顔を作ったら、目の前の教師は我が意を得たりとでも言いた気な顔をした。

「やっぱりお前だな」
「ちょっと待った、確かに俺だけど危ないことしてないし!」
「勝手に入ることがまず問題だ」
「いいじゃーん」

 いいじゃんじゃない、と先生は天丼を掻きこむ。食事をするか小言を言うかにすればいいのに。こちらもおにぎりを食べるから口には出さないが。

「そもそもお前、進路は」
「へへっ」

 これ以上言われたくないので、癖のように笑った。残りのおにぎりを口に放り込んで、時間を稼ぐ。さて、どうやって交わそうか。夏からこちら半年、しつこくしつこく学校ぐるみで進学しないのかと人の顔を見れば言う。けれど、返せるのは気の抜けた笑顔だけ。
 理由を言えばきっと馬鹿にされ否定されるだろうから、不愉快で無駄な時間はいらない。

「屋上入ったのは俺。ごめんなさい、以上。教室戻りまーす」
「真瀬!」

 おにぎりのごみを置きっ放しにして、とっとと職員室を飛び出した。後ろに怒鳴り声を聞きながら、でも返事なんてしないで教室に戻る。
 あと少しでこの心地いい喧騒からお別れだから、できるだけこの中に身を置いておこうと思う。



   #



 卒業室の前日、自室で煙草を吸っていたらお母さんに呼ばれた。まだ半分しか吸っていないそれがもったいないけれどリビングに行くと、おばあちゃんもお父さんも揃っていた。
 この状況で、どこに座れというのだろう。
 無意識に右手が左手首を覆ってぎゅっと握った。

「冴枝、座って」

 お母さんに示されたのは、彼女の正面の席。おばあちゃんの隣。斜め前に座すお父さんは厳しい目つきでお酒を舐めている。

「この間の話だけど、三月の終わりに引っ越すことにしたの」
「私、行かない」

 お母さんは一緒に行ってと言おうとしていたに違いない。初めてに近い自分の意見を発すると驚いた顔をしていた。その隣のお父さんが半眼で睨みつけてくる。
 怖くないかと言われれば、怖くないわけがない。今までずっとこの目に怯えていたのだ。今すぐにでも逃げ出したいくらいに怖い。
 でも。

「私、おばあちゃんとこっちに残る」

 これ以上ここにいたくないと言う本音を、お母さんは偽善染みた優しさと取った。
 おばあちゃんも、同じ。
 おばあちゃんのことは心配しなくていいと笑い、好きな方を選べばいいと言う。
 これは、選んだ結果だ。
 いくら環境が変わったってこの男との関係を変えることは不可能だ。諦めたんじゃあなく、認めた。
 だから、逃げることを自分の意思で選んだ。
 これまでどおりに偽善で固めた人格なら一緒に頑張る道を選んだだろうけれど、少しだけ頑張ってみようと思った。
 これは春央の、まねだ。

「冴枝ちゃん、おばあちゃんに気を使わなくていいんだよ」
「使ってないよ。無理したくないからここにいるの」

 はっきりと言って父親を見ると、何も言わずに同じ半眼で睨んでくる。体はまだ萎縮する。けれどこんな男に嫌われたところで、駄目な子だと思われたところで痛くも痒くもない。それに気づかせてくれたのも、春央だ。
 たった一度の人生だから、好きに生きなければもったいない。
 言葉を口にしないのはもったいない。
 痛い思いをするのも辛い思いをするのも、本当はちっとも必要なかった。
 もう一人の足でも立っていられる程度には、大きくなったのだから。

「これ以上頑張れないから頑張らないだけ。頑張る意味もないしね」

 言うだけ言って、部屋に戻った。
 カッターに手を伸ばして刃を露出させる。蛍光灯の光に鈍く閃く銀の刃を見るとやっぱり安心する。
 いつまでたってもそれが手に突き刺さることはなかった。
 さっき吐き出したんだから、腕に穴を開けてまで吐き出す必要はもう、ないはずだ。
 大きく深呼吸して、なんだかイチゴ牛乳が飲みたくなった。
 こんこん、とノックの音。黙っていると、ドアの向こうからおばあちゃんの声がした。

「冴枝ちゃん」

 気遣わしげな声に、返事なんてやらない。
 カッターを放り出して、煙草に火を点けた。ふわりと。メンソールと煙草の入り混じった香りが漂う。

「おばあちゃんに本当に気を使ってくれなくていいんだよ。冴枝ちゃんがしたいようにしたらいい」

 部屋の扉はそれ以上ノックされない。扉越しに聞えてきたおばあちゃんのしわがれた声は、なんだか胸を締め付けた。
 紫煙を吐き出し、窓を開ける。
 空は、藍色をしていた。
 返事がなくても、ドアの向こうの声は止まらない。

「お父さんができてから、冴枝ちゃんは自分の意見を言わなくなったよね。でもこんなときくらい言ってもいいんだよ。冴枝ちゃんの人生なんだから、冴枝ちゃんが選んでいいんだ」
「私は自分で決めたの。あの人とやり直せるとは思わないし、やり直したいとも思わない」

 声を被せるように、少し大声を出したらなんだか怒ったような声になってしまった。

「そうかい」

 小さな声が聞こえて、それから廊下をぺたぺたと歩く音。
 無音になった。
 煙草を銜えたままベランダに出る。わざと大きく息を吐き出した。
 記憶の蓋を開けたように流れ出てくるそれは、手首から生暖かい血が流れ出るのに似ている。
 新しいお父さんには気に入ってもらわなければと思ったのか、ただ単に嫌われたくなかったのかまでは覚えていないけれど、“いい子”にならなければならないという強迫観念の始まりだった。
 自分の意に沿わない答えも、周りが望むようにと自分の答えにした。誰かの望むように、人形のように自分で作った型に自分をはめて、余ったところを削りだした。
 けれど、それでいい結果がもたらされたかと問われれば首を横に振らざるを得ない。
 最後に残ったのは、自己満足で偽善的な悲劇のヒロインを気取る喜劇の人形。
 長岡冴枝は、殻だ。
 内臓と紫煙と、ヘドロのような負の感情だけが詰まっている。
 換気のために紫煙を吐き出し、手首からヘドロを垂れ流しているのだろう。
 見上げた空は黒ではなくて、藍色だ。
 空に輝いている星は、屋上で見たよりも圧倒的に少ない。もうどれが北斗七星かなんて分からないし、冬の大三角形だとか言うものももう怪しい。
 息なんだか煙なんだか分からないものを吐き出したら、思ったよりも真っ白いものが口から出る。
 理由は分からないけれど、笑いたくなった。


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