BLUES





 真瀬春央は、イチゴ牛乳の匂いがする。
 その甘ったるい匂いを、最近嗅いでない。
 三年は二月から家庭学習期間に入るから学校に来ないのは当たり前だが、彼は来ているような気がしたから違和感ばかりが付きまとう。今までだって毎日会っていたわけじゃあないけれど、三年の教室に人気がなくなったから彼がいないのだということを否応なく突きつけられているようだった。
 だから、卒業式の日にはそれをサボって屋上に来た。
 どうせ開いていないと思ったのにノブを捻ったらドアは軋んだ音を立てて開いてしまった。

「サエちゃん。おひさ」
「……なんでいんの」
「空が青いから」

 唇を引き上げて、彼は破顔した。彼の後ろには確かに白に近い青い空が広がっている。僅かな風に乗って、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。

「だって卒業式じゃん」
「面白くないもん。こっちのがいい」

 気持ちいいし、と笑う。彼はフェンスに背中を預けている。カシャン、と小さな音が聞こえた。
 カメラ片手に座って手招く仕草をするから、煙草に火を点けながら彼の隣に拳一つ分をあけて座る。緩やかな風が紫煙を流して、白いそれはすぐに消えてしまった。

「せっかくの卒業式なのに」
「せっかくの学校生活最後の日だし。式終わったら教室行くし」
「卒業しちゃうんだ」
「そりゃね」

 隣に座って、煙草とメンソールの匂いとイチゴ牛乳の甘い匂いを吸い込む。変に交じり合って決していい匂いではない。
 しばらく黙って煙草を燻らせていると、隣から急にシャッターを切られた。それと同時に目が焼けるような閃光。
 白けた視界が捕らえたのは、笑った春央の顔。

「笑ってよ」
「無理」

 楽しいことがなければ笑えない。だから無理だと言ったのに、彼は眉を下げて見るからにしゅんとしてしまった。そんな顔をされても笑えないものは笑えないし。

「サエちゃんの笑顔ほしいのに。俺まだ一回しか見てないよ?」
「レアじゃん」
「だからそれを写真にしたいんだよ。絵よりもやっぱ写真ね」

 何が「やっぱ」なのかは全く分からない。そういえば春央は絵も描くんだったか、以前勝手に描かれたことを思い出した。
 近づいた煙草の火が、指の先を熱くする。一際深く吸い込んで白煙を吐き出しながら押し付けて消した。もう一本吸おうかと思ったけれど、気分じゃあなくなって先ほどのを携帯灰皿にしまって、それで終わり。
 何もなくなった右手が、自然に左手首を掴んでかさぶたを指でなぞった。

「写真が好きなの?」
「ん? 好きだよ」
「絵は?」
「趣味」
「へぇ」

 それ以上、会話がなくなった。
 結局、その合間を塞ぐように自然にポケットに手を突っ込んで煙草を引っ張り出す。白いパッケージにエメラルドグリーンのラインは少しだけ安心させてくれる。
 風に乗ってマイクで拡張された声が号令を刻んだ。今なら来賓の祝辞あたりだろうか。
 火を点けた煙草を右の人差し指と親指に挟んで、口元に運ぶ。投げ出した左手の手首には、まだ幾本も赤黒い線が交差していた。それでも、一年前よりはずっと少ない。
 煙草の半分を灰にした頃、急に春央が口を開いた。

「手首、見せて」

 それはまるで、出会った日のようだ。今だって十分見えるし勝手に触ればいいのに、彼はあえてそれを口にした。
 改まって手首を差し出せば、硝子でも触るようにそっと手に触れ、かさぶたの上を指でなぞった。

「減ったね」
 唇を歪めるような例の笑顔で、彼は一本一本線を撫でる。
「まだ死にたい?」
「死にたくない」

 死にたいかと訊かれて、死にたくないと即答できるようになった。きっと一年前なら死にたいと即答していただろう。自分でも不思議なくらい、死ぬとか生きるとか、どうでもよくなっていた。きっと彼の能天気が移った。そうに違いない。
 そうじゃないと、この青空の理由も見つからない。

「そだ。サエちゃん、これあげる」

 何かを思い出したように彼は制服のポケットを漁って、四方がよれている薄黄色の封筒を取り出した。

「流れ星のときの写真」

 煙草をコンクリートで消してから受け取り、開けてみる。確かに数枚の写真がに入っていた。
 漆黒ではなく、藍色のような空を引き裂いた幾筋もの光の線。教科書で見るよりも綺麗だった。
 一枚、二枚と写真を繰り、五枚目にはあの日の朝日が目を焼くように写っている。紫色の空はあの日と同じ色をしていた。

「これ見たら俺のこと思い出してよ」

 写真に見惚れていて彼の言葉を聞き逃したようだ。大気そのものを閉じ込めたような写真を見ていると、あの日溜まったものを吐露して大泣きした自分を思い出して恥ずかしい。
 声が聞こえたけれど意味を取れずに、聞き返すために顔を上げたら、春央は急に慌て始めた。

「や、なんでもない! 今のなし、何もない!」
「聞いてなかった」
「あ……そうなの」
「なに?」

 あからさまにほっとした顔の彼に訊きかえすと、急に渋い顔を作った。太陽の光を受けたピアスが鈍く光っている。それがゆっくりと動くのを、待った。

「捨てんなよ」
「そんなこと。捨てないよ」

 捨てるわけがない。写真にもう一度視線を落とした瞬間、また目の前がパシャッと発光した。目がくらんで一度ぎゅっと瞑ってから目を開ければ、眼の前に四角いフラッシュの跡がしっかり残っている。

「サエちゃんの笑顔、ゲーット」
「は?」
「やっぱ笑った方が可愛いって」

 閃光のおかげで妙な視界の向こうで春央は構えていたカメラを下ろして、笑う。この人はよく笑う人だ。それにつられて、笑ってしまったのかもしれない。

「お母さんが妊娠して、引っ越してやり直すんだって」
「うん?」

 笑顔がつられたのなら、きっと話もつられてしまった。そうに決まっている。
 もしかしたら変われるかもしれないとどこかで期待していた。
 けれどおそらく、あの人は変わらないだろう。自分の子供は可愛くても、他人の子が可愛くないことは変わらない。

「私、残ることにした」
「何で?」

 大して不思議そうな顔をしていないくせに、大層不思議そうな声で彼が訊く。それに対し、勝手に笑っていたらしい。春央の瞳の中で、口元が歪んでいた。

「楽に生きてみようと思って」
「俺みたいに?」
「そう。ハルオウみたいに」

 新しい家族と新しいものを形成するよりも楽なのは、小さい頃から一緒のおばあちゃんと生活すること。もしかしたら昔みたいにまた笑えるかもしれないと淡い期待もあるけれど、それが無理な願いだとどこか別のところで理解している。
 元に戻ることはできない。変わることがあっても、戻ることは決してできない。それを知ってしまった。

「あんまりオススメできないけどなぁ」
「無責任」

 もっと楽に生きればいいのに、と言っていたのは自分だというのに。
 ひどく曖昧に、誤魔化すように春央は笑って色素のない頭をかいた。
 風に乗ってくるアナウンスが、閉会の言葉を促している。もうすぐ、終わってしまう。

「あのさ」

 勝手に口から出た。首を傾げた彼の唇のピアスが、光る。

「これから、どうするの?」
「教室帰って友達と写真撮るけど。それから飯でも食いに行こうかなって」
「そうじゃなくて、進路」

 彼が受験の準備をしているなんて噂は聞えなかったし、就職したという話も聞かなかったから確かめたかった。自分だけが何も知らないのは、ひどく不愉快だ。
 ごにょごにょと、おそらくは聞えていないだろうが言っていると、あからさまに顔を逸らした彼はごろりと寝転がってしまった。

「一応、就職?」
「何で疑問形なの」
「カメラマンの見習い、なので」

 真っ直ぐに空を見上げた彼の顔を、どうしても覗き込むことができなかった。
 ゆっくりと太陽に向かって持ち上げられた手首は、傷ひとつなく綺麗だ。思わず自分のそれを掴んで、隠してしまうほどに。

「戦場カメラマンってやつになんの」

 彼の告白があまりにも衝撃的過ぎて、“戦場カメラマン”の意味さえ取りそこなった。てっきり進学するものだと思っていたのに、簡単に会えると思っていたのに。“戦場”がどこだか知らないけれど、そう簡単に会えないのは分かった。

「いつ死ぬか分からないじゃん。だから楽しいこととか知らない世界を見てみたいとか思って」

 死ぬときは死ぬしかないんだし。軽くそう言って、喉でごろつく笑い声を立てた。
 手を持ち上げた手を太陽との間にかざして眩しそうに目を細めた春央が、父親が戦場カメラマンなのだと教えてくれた。

「空って、どこで見ても青いのかな」
「は?」
「なんでもない。ただの独り言」
「やだ、気になる」
「気にしないでってば」

 その言葉はちゃんと聞き取れていた。ただ何を思って、何を考えてそう発したのかまったく分からない。
 結局、真瀬春央という男を理解することはできなかった。
 これから理解していくことも、叶わない。

「先生たちはみんな進学しろとか言うんだけど、俺、そういうの違うと思うし」

 彼の言葉を向こうに聞きながら、現実を繋ぎとめるように煙草に火を点ける。一口、口の中にざらつく感覚が不快だった。

「だって、好きに生きたいじゃん。俺の人生だもん」

 口の端が半月を描いて、ピアスが揺れる。
 この態度がひどく羨ましかった。それでいてひどく妬ましかった。こんなにも自由気侭に生きて咎められないこの男に、惹かれた。
 けれど咎められないんじゃない、気にしないだけなんだ。

「笑って死ねればそれでいいじゃんね」

 なんて。あまりにもいい笑顔で言うものだから、思わず口の中の白煙ごと吹き出した。その拍子にむせ返ってしまい、みっともなく体を折って咳き込む。
 笑った春央が、背中を摩ってくれた。
 きっとこの人は、行かないでと言ったところで無視して行ってしまうのだろう。
 そういう男だ。

「そだ、これもあげる」

 急に春央が制服のポケットをごそごそと漁った。さっき写真を貰ったばかりだと言うのに何をくれるのかと思って待っていると、彼の手が銀色に輝く鍵を取り出した。
 目の前にかざして見せたそれは、何の変哲も見当たらない。

「どこの鍵?」
「ここ」
「学校に返さなくていいの?」
「もう返した。こっちは合鍵」

 おずおずと手を出すと、手のひらに鍵が落ちてくる。学校の合鍵を作るのはどうかと思うけれど、これのおかげで彼に会うことができた。なんだか嬉しくて、その鍵をぎゅっと握った。

「サエちゃん、ちょっと楽になったみたいだね」
「変わらない」
「表情が柔らかくなった」

 相変わらずピアスを持ち上げて、春央は笑う。
 本当に、何も変わっていない。自分が欠陥品であるという認識だって変わっていないし、誰かのためになんて言いながら自己保全を図る小心で卑怯な人間だということも同じく。
 弱虫で、偽善者。きっともう一生変わらないだろう。
 でも彼の言うとおり、少しだけ楽に生きたいとは、思った。

「あんたのせい」
「俺のおかげ、でしょ」
「違う」
「まだ切ってんの?」

 鍵を握った左手を、春央のそれが包むようにして握った。大きな手は、相変わらず暖かい。すりっと指先で、手首をさすった。
 以前に比べれば少なくなったかさぶたの代わりに、皮膚を引っ張り合わせたような痕は減らない。
 いつの間にか短くなった煙草は、勝手に指の間から零れ落ちた。
 それを丁寧に一筋一筋撫でる。くすぐったくて腕を引き戻そうとしたけれど、逃げられなかった。彼が触ると、塞がったはずの傷が痛い。穴が開いていたことを表す傷跡は、くすぐったい。

「サエちゃんのこと、好きだよ」

 不意に近づいた、甘い匂い。卒業式までイチゴ牛乳を飲んでいたのか、なんて呆れてしまった。
 たった一瞬、ぶつかった唇。
 口の端には、ピアスが当たった金属の感触がした。

「誰に嫌われたって、君が好きだよ」

 それはきっと、彼の優しさだったのだろう。
 誰かに嫌われることに怯えて生きている人間にとっての、激励。それ以上でもそれ以下でもない。
 だから彼はピアスを引き上げて笑い、立ち上がった。簡単に踵を返して、後ろ手に手を振ったりして。
 もう、会えないと、いうのに。

「バイバイ」

 あまりにも軽く屋上から去ってしまった彼。卒業だとかもう会えないだとか、そんなことを全く感じさせない、明日また会えるんじゃあないかと思うくらいに軽く、彼は姿を消した。
 まだ空気は、甘い。
 さっき落とした吸殻を拾って火を消して、新しいものに火を点ける。彼の唇が触れたそれに挟んで、深く息を吸い込んだ。
 見上げた空は、水に溶かしたみたいに青い。



   #



 桜の蕾が膨らんで、開いて、散った。
 彼がくれた鍵で屋上の扉を開けたときは、閉めることを忘れない。
 見上げる空は、青い絵の具を水に溶いたようだ。雲ひとつないそのカンバスの上を、薄い白がもやを描く。
 やはりここは、煙草を吸うには絶好のポジションだ。
 三年に進級し、両親は市外に引っ越して行った。そう遠い場所ではないから、連絡さえ取ればすぐに会える。お母さんはいつでも連絡してとしつこく言って出て行ったけれど、連絡をする気はサラサラない。
 クラスが変わっても、変わったものなど何もない。親しい友人もできないし、かといっていじめられているとか馴染んでいないというのとも違う。気侭に一人でいるだけだ。
 息が詰まるとこうして屋上へ来て空を見上げながら煙草を燻らす。
 相変わらず手首の傷は消えないし、ときどき一直線にかさぶたを貼り付けているときだっある。
 何も変わっていない。変わらないのだ。
 人が怖いことも、偽善者で臆病者であることも、何一つ変わっていない。
 ただ、それを自覚しただけに過ぎない。
 開き直ったわけじゃあない。それを認めただけだ。
 認めて、少しだけそれでいいかと思った。
 どれもこれも、春央のせいだ。
 そよそよと風が吹くのが心地よく、春の太陽も気持ちよくて瞼が勝手に落ちてくる。煙草の火をしっかり処理して早くも自然に身を任せることを選んだ。そうでもしなければ、授業を抜け出した意味がない。

「眠い」

 この太陽は春央に似ていると思う。繋いだ手のぬくもりは、こんな風だった。
 春は、彼の季節なんだろう。今年の桜を見ただろうか。それとも、春とは関係のない場所にでもいるのだろうか。
 先生たちに聞いても、春央の居場所は愚か卒業式の翌日からぱったりと音信がなくなってしまったそうだ。それこそ春央らしいと言えなくもないが、少し冷たくはないか。
 なんでもない関係かもしれないが、彼曰く、「俺とサエちゃんの仲」なのに。
 ごそごそとポケットの中を漁り、一枚の葉書を取り出した。これは今朝郵便受けに投函されていたものだ。一体いつ調べたのか知らないが、よく郵便配達の人が解読できたものだと感心してしまうほど汚い字で住所が殴り書いてある。消印は、オーストラリアだ。
 葉書の裏は、青空の写真。表の下半分に同じような汚い字で数行のコメントが書いてあるけれど、汚くて読むのに骨がかかりそうだ。それとも、先生のところにでも持っていけばすぐに解読してくれるだろうか。
 新しい煙草に火を点けながら、文字の解読を始める。まさか一文字目からこんなに悩むなんて思ってもみなかった。
 自然に指が、左の手首をなでている。

「エアーズロック?」

 カタカナのそれがどうにか拾えて、改めて葉書を裏返してみた。日本では拝めないような濃い青の空。初めはそれが空だと分からなかったくらい一面に広がっている。分かったのは、葉書を半分に切るように横断している白い線と飛行機が小さく写っているからだ。まさかそこがエアーズロックだなんて誰も思うまい。そもそも、もっと他の撮り方があるだろうにどうして空しか写さないんだか。
 続きの文を読んでいくと、オーストラリアの気候だとかが短く語られている。
 そして最後の一行には、こう書かれていた。

「空は青い!」

 何を当たり前のことを、と思った。空が緑だピンクだなんて色をしていたら空じゃあない。
 そう思った瞬間に、以前春央が呟いた言葉を思い出す。
 ――空って、どこで見ても青いのかな
 おそらくどこで見ても青は青なんだろう。しかしその青は一つじゃあない。昨日の青も今日の青も、自分が少し違うだけで違った青になる。
 春央はこれからも空の写真を送ってくるだろう。それらはまったく違う青い空に違いない。
 そういえば、春央自身が青い空だったか。
 解読する間に短くなってしまった煙草を消して、再び空を見上げた。
 写真とは違う、青い空がある。

 水色の空の上に、飛行機が一本の白線を敷いていた。


−fin−
なつやすみにがんばりました。