四角い箱は、さしずめ綺麗な箱庭のようだ。ここから出ることが叶わない人間に一瞬でも夢を与えてくれる甘美な箱庭。いつごろそれに気づいたかは絵理花自身分かっていない。ただ漠然と理解していたのかもしれない。ここで許される我儘は、すべてが幻想だということを。
 初めて絵理花が手術を経験したのは二年前。それまでも入退院を繰り返し、何度も外界とこの封鎖された空間を行ったり来たりした。その度に思い知らされる外と中の差は、回数を重ねていくほど広がったように感じた。始めは小さい溝だったけれど歳を経て時間が経つと、勉強についていけなくなり友達もできなくなった。だから、もうこの世界で生きようと決めた。この心地のいい箱庭で一生を過すのも悪くはないはずだ。僅かな外の友人は可哀相だというけれど、それこそが外と中の差でそこには絶対的な壁だった。逃げるのでも悲劇のヒロインを気取るのでもなく受け入れたと、思っていた。あの瞬間までは。


「絵理花ちゃん!出てきなさい!」


 日尾総合病院の小児科病棟には院内学級が設置されている。参加は強制でないが狭い病院内で他にやることもなく、退屈を持て余した子供にとっては勉強をするのではなくただ狭い世界でとれるだけのコミュニケーションを取ろうと思うから、ほぼ全員が参加する。それは絵理花にとっても変わりはなく、半日近くを院内学級の教室で時間を過す。けれど、もともと勉強も好きではない絵理花が強制でないのに勉強が出来るわけもなく宿題などをちゃんとやって行ったことがない。
 だから週に一度は看護師と追いかけっこが行われる。病院内で人生の半分近くを過した絵理花にとって自分の庭も同様で、ベテラン看護師が相手でも年季が違う。まだ一度たりとも捕まったことはない。


「つかまんないよーっだ!」


 今日も捕まらないだろうと小児科内を走り回り、いつの間にか外科病棟にまで来ていた。いつもならば小児科内で逃げ回るのでここまで来るのは初めてと言ってよく、大きすぎる病院は狭い箱庭の世界しかしらない少女には広かった。病院内なのだから怯える必要はないと分かっていても知らない場所は怖いし、慣れ親しんだ病院で迷子になったなんて恥ずかしい。けれど後ろから追ってきている声は聞こえ逃げなければと反射で考える。知らない場所でも足は自然と逃げる方向に向かい、角を曲がった。


「……わっ」

「きゃあ!」


 曲がった瞬間に人と真正面からぶつかって尻餅をついた。うまく後ろに転がったけれど前方からは男の短い悲鳴と思いがけずリノリウムの床に響いた乾いた音に慌ててお尻を摩りながら視線を向けると、少年と青年の中間ほどの男性が同じく尻餅をついていた。右の足をギプスで固定され、あからさまに白い包帯が目に付く。彼は目の前の少女を見て顔を歪め、絵理花は慌てて立ち上がると床に投げ出された松葉杖を拾い上げた。


「ごめんなさい!大丈夫ですか!?」

「こっちこそ避けられなくてごめん」


 松葉杖を差し出すと、その人は唇を歪めて言い廊下の手すりに手をついて立ち上がった。杖を受け取って空いた片手で乱れた茶髪をガリガリとかき回すその姿が絵理花には外の人間に見える。
 遠くから自分を呼ぶ声が聞えて、絵理花は慌てて周りを見回した。ここからどこに逃げようにも構造がよく分からず、現在地すらままならない。けれど相手はベテラン看護師で外科にも出入りしているから外科病棟の構造も頭に入っている。今日こそ年貢の納め時かと半分諦めながら、意地でも逃げたいという思いは変わらず悪あがきだが隠れる場所を探した。


「やっばい」

「……こっち」

「えっ?」


 すぐ後ろに聞えてきた声に思わず声に出し逃げ場所を探すと、思いがけず前から声が降ってきた。反射でそちらに顔を向けた瞬間に腕を引っ張られて、そのまま近くの病室に文字通り二人で転がり込んだ。それとほぼ同時に部屋の外を看護師が一人、走り去った。
 彼が部屋のドアから顔を覗かせて廊下の様子を見ているのを端目で見ながら何となく嫌な予感がして、絵理花はベッドの裏に隠れた。ここは外科病棟の大部屋のようで、四人分のベッドが並んでいるが今は部屋に誰もいないようだった。


「河合君!絵理花ちゃん見なかった!?」

「……見てねぇッス」

「小児科の女の子なんだけど!」

「あぁ、それならあっち走ってった」

「本当!?ありがと!」


 声しか聞こえなかったけれどあの人は河合というらしい。声と音の感じから今日の追っ手は美味く巻けたようだった。それはよかったと安堵して誰のか知らないけれどベッドに腰を下ろし、足をプラプラさせながら初めての部屋に視線を巡らせた。小児病棟よりも少し天井が高いし、色が少し落ち着いているとでもいおうか。ベッドの周りには必要最低限のものしかなく、本など一冊も置いていなかった。ただ、雑誌が数冊積んであった。
 それはどのベッドも同じで、ただこのベッドの住人だけは写真立を一つ置いていた。その人物の生活が写し取られた写真は、十人程度の男子が同じ服を着て、中心に立っている人物がトロフィーを掲げて誇らしそうな顔をしている。この顔をどこかで見たことがあった。


「えっと、絵理花ちゃん?」

「はい!?」

「いや、そんな驚かれても困るんだけど」


 その写真の顔と松葉杖をついている恩人の顔がダブった。ベッドに腰掛ける彼が少し落ち着いた顔になるのでここはもしかしたら彼のベッドなのではないだろうか。腰を折ってベッドの下から鉄アレイを取り出して、膝に置いた右手を動かし始めた彼は、少し沈黙した後名を述べた。


「俺、河合竜一。一応ここ俺のベッドね」

「あっ。助けてくれてありがとうございました、中野絵理花です」

「絵理花ちゃんね。こんなところで何してんの?」


 何をしているのかと言うのはとても難しい質問だと思う。思わず沈黙して言葉を探すとしばらくして彼は笑い、「逃げてたってのは分かってる」と震える声で言った。だから絵理花は宿題忘れの常習犯で日常的に追われているのだと話したら、彼は大声をあげて笑ってくれた。
 それから少し他愛のない話をして、絵理花は病室に戻った。なんとなくくすぐったい気持ちが胸を擽って、初めての気持ちを持て余しつつもまた明日会えればいいと考える。狭い病院で出会うことは難しくないだろうからきっと簡単に運命の赤い糸を結べるはずだ。もしかしたらこれが恋なのかもしれないと初めて浮かぶ甘酸っぱい気持ちに自然に笑みが零れ、また宿題をやらずにその夜眠りに着いた。ここが幻想の箱庭だと知らないわけではないのに、どうしてか実らない恋だとは思えなかった。










 河合竜一は十七歳の高校三年生でアキレス腱切断のため入院している。陸上選手で、オリンピック選考に名も挙がっていたらしい。ずっとこのちっぽけな箱庭の中で生活していた絵理花には運動することの楽しさは分からない。だから失われた悔しさも分からないが、もしかしたらそれはいつか物語で読んだ翼をもがれたイカロスに近いのかもしれない。想像することしかできなかったけれど、胸の真ん中あたりがきゅーっとなった。
 次の日も宿題をやらず、絵理花は追い掛け回された。病院内の僅かな鬼ごっこをいつもならば小児科内で行っていたが、意図的に外科の方へ行ってみた。狭い病院内ならばすぐに見つかるだろうと高を括っていたが結局見つからず、それに夢中になっていたせいでいつもならばありえない失態だが追っ手に捕まってしまった。


「やっと捕まえた!今日こそ逃がさないからね!」

「離してよー!」

「全く、走っちゃいけないって言うのに毎日毎日。しかも今日は何?なんでこんな所に来たの?」

「……河合竜一くんに会いたくて」


 離せと暴れても離してくれないので大人しくすることにして、絵里花は素直に理由を話した。今日の追ってはまだ日も浅い看護師だからベテランさんたちと違ってまだ本当の意味で絵理花を理解していない。大人しくしたことに安心したのかすぐに離してくれた。彼女の前で俯いてもじもじと体を捩ってみるとすぐに笑って、目の前の追っ手はどうして河合君?と首を傾げる。
 偶然通りかかった医者が「河合君なら屋上だ」と教えてくれたので、絵理花は満面の笑顔で礼を言ってくるりと踵を返した。


「あっ、こら絵理花ちゃん!」


 後ろから看護師の悲鳴のような声が聞こえたが絵里花は無視して屋上へ向かって走った。ここから病室を回りこんで小児科病棟に戻り、そこから屋上へ上がる階段に向かう。小児科の患者だけでは屋上へ出ることは禁じられているがこの際絵里花には禁止とかそんなものは関係なかった。
 すでに追っ手は撒いている。そのまま屋上へ駆け上がって力いっぱい扉を開けると、目にいっぱいの青空が飛び込んできた。冷たい空気が喉から肺に流れ込みヒュッと喉が鳴る。初めて見る視界いっぱいの青空に、思わず足を止めて空に見入った。今まで見上げた空は四角い窓に切り取られていたり中庭から建物に囲まれた空ばかりで、どこか味気なかった。外では何故か後ろめたさを感じて俯いていることが多いから、本当に初めての青空だった。


「あ、いた!」


 視線を僅かに視線を落とすと、服が汚れるなどと考えないで人が一人寝転がっていた。隣には松葉杖が投げ出されていて、ゆっくりと近づいて確認したら探していた人物だったので思わず大声が出てしまった。
 ぼんやりと青空に向けられていた瞳が不意に現実を取り戻して僅かに左右に動き、絵理花の姿を目に留めるとじっと数秒動きを止めて、しばらくして小さな声で何か納得した声を上げると肘をついて体を起こした。


「あぁ、昨日の」

「昨日のお礼、言いたくて」

「いいのに、そんなの」


 ほんの少し唇を歪めて笑い、彼は再び屋上にそのまま寝転がった。汚いですよ、と思わず口に出した絵理花の言葉に答えずに彼は大きく息を吐き出す。ただ答えがほしかった訳ではないので絵理花も倣ってそこに腰を下ろし、空を見上げた。初めて見る空は目に痛く、そしてキラキラ輝いていた。


「綺麗だろ」

「はい。初めてみました」

「初めて?」

「私ずっと入院してて、それで屋上に来たのも初めてだったから」


 だから綺麗、と言ったら彼は唇を少し歪めて笑いゆっくりと目を閉じた。返事がなくなったので眠ってしまったのかと思って、思わずその顔に目が行ってしまう。茶髪の髪は生え際が黒くなっているから地毛は黒いようだ。茶色の部分が短いから元が短髪だったのが分かる。黒いジャージが良く似合っているが、それにアンバランスに白い包帯が痛々しかった。ただその包帯には色とりどりの油性マジックで乱雑な文字が書き殴ってある。「早く帰って来い」「元気になれ」「待ってるぞ」等など、絵理花の知らない世界がそこにはあった。


「本当に空、綺麗」


 ただ空とこの屋上には絶対的な壁がある。人間は飛べないから、絶対に空に融けない。いっそ死んだら空に融けられるだろう。だったら骨は空に撒いてほしい。何を意識した訳ではないけれど、絵理花の目の前には常に死がぶら下がってをそれをいつだったか受け入れた。だから空に融けられるのならそれでもいいと、思えた。
 屋上の扉が開く音がして視線を移せば、昨日の追っ手こと三村美紗さんが立っていた。絵理花の姿にぎょっと目を見開いて、その隣で眠っている彼にも目を吊り上げる。静かな屋上に、急に大声が響いた。


「ここで寝るな病人!」

「……俺、怪我人。つか三村さんうるせぇ」

「うるさいですって?叫ばせてるのはどこのどいつよ!」

「俺?あーあ、良く寝た」


 寝てなんていなかったくせに、彼は体を起こしてニカッと笑った。初めて見る彼の笑顔に絵理花の心臓が思わずとくんと跳ね上がった。屈託なく見せた笑顔は可愛らしい印象で、さっきまで精悍な顔つきだと思っていたギャップに顔を見られなくなって視線を上に向けると、空が青かった。


「で、絵理花ちゃんはどうしてここにいるの?小児科病棟の子がここ来たらいけないの知ってるよね?」

「いつまでも子ども扱いしないでよ。もう十三だよ?」

「そういう問題じゃないの。どうせ今日も追われて逃げて来たんでしょ」


 彼女の言葉に上を向いていた顔がそらされ、気がつけば近くのフェンスを見つめていた。高いフェンスは空に網目模様を作り本当に境界線になっていた。あの向こうに行けば空に融けることができるのかと、ほんの一瞬だけ考える。
 本当の事を言われただけに反論もできずに黙ってフェンスの鉄を睨んでいると、視界の外で溜め息が聞こえた。


「しょうがないなぁ。河合君、暇なら絵理花ちゃんの勉強見てあげて?」

「俺?」

「高校生でしょ?中学生の勉強なんて楽勝じゃん」

「そういう問題じゃねーッスよ?」

「明日からよろしくね!」


 笑顔で手を上げて、これで仕事が一つ減ったわ、と笑いながら屋上を出て行ってしまった気楽な看護師の言葉に絵理花は浮かれた。けれどそれは垣間見た彼の表情に一瞬で打ち消されてしまう。美紗の姿を見送った彼は、苦笑にも似た笑みを口元に刻みながらも目がひどく優しく笑っていた。


「三村さんに頼まれたんじゃあ、断れねぇじゃん」


 その囁きすら甘い色を感じ取れて、胸がきゅんと音を立てて軋む。
 そして、唐突に気づいた。この人は絵理花とは違う世界で生きている。それは彼の容姿もギプスに書き込まれた落書きも始めから雄大に語っていたのに絵理花が気づこうとしなかった。気づかないようにしていた。絵理花がこの箱庭の住人ならば彼は外の人間で、いずれ外の世界へ帰っていってしまう。たった一時の仮初の場所。ただ永遠にこの地に縛られた絵理花にとっては絶対に越えることのできない壁がそこにあった。


「よろしく絵理花ちゃん。つっても俺、陸上しかしてなくて馬鹿だけど」

「よろしくお願いします」


 それでも絵理花は笑ってしまった。たった一瞬でも、生きている事に希望を託して叶わない夢を見る。叶わないと分かっていても夢を見る。この壁を蹴散らして向こう側に飛び出して、彼が受け止めてくれる幻想だけで固めた夢。妄想と言ってもいい。ただ自分の中のその冷静な部分に蓋をして奥に押し込めて、気づかないふりをした。
 せめて彼がこの箱庭から飛び出すまでは、彼はここの住人なのだから。





−続−

絵理花ちゃんは走ったらいけないと思う