限りなく広い空。何の制約もなく自由でな世界。空から墜ちた空の住人は白い箱庭に閉じ込められ、ただそこから見える無機質で遠い空に思いを馳せるしかできなくなった。かつて己のものだと驕り誰も叶わないとナルシシズムに酔い、それでも誰に撃ち落されることのなかった少年は天罰が当たった訳でもないのに空から落とされ夢を見ることを奪われた。
陸上界期待の星、空駆ける少年。それがつい先日まで河合竜一を表現する世間が認めた単語だった。けれどたった一夜を挟んで彼は空から落とされ、『墜ちた新星』が新聞のスポーツ欄にさほど大きくも小さくもない大きさで掲載された。ギプスで固定されて動かない己の右足を持ち上げて、ひどく思いそれがすべてを物語っている。彼はもう、空を飛ぶことができない。
「河合君みっけ。診察の時間だよ」
「…………」
「何見てるの?」
「空」
屋上が今の竜一にとって一番空に近づける場所だった。落とされたと知りながらまだ空に近づきたくて、未練がましくも手を伸ばしても届かないと知っていながら近づこうとする。だから一日の大半を、屋上で過している。病院から少し離れた所には市営グラウンドがあり、風に乗って毎日のように人々の完成やホイッスルの音が聞こえてきていた。それを悔しいと思いこそすれ、まだ懐かしいとは思えない。
彼を探す場所を心得ている担当の看護師は、今日も屋上で空に焦がれる羽をもがれた少年の元を訪れた。何度言っても診察の時間を覚えない彼は、本当は彼女がこうして迎えに来てくれることを待っている。子供のようなそれはただの恋しさだと自覚して、それでも己が子供であることをいいことにそれに甘えている。
「診察、行ってきなよ」
「うん」
「……早く」
「綺麗だなって、思って」
「えっ!?」
急かしても腰を上げようとしない竜一の膝を彼女の手が叩くが、彼は視線すらも向けずにただ空の一点に視線を向けていた。そしてぽつりと小さく呟く。何を指しての言葉か分からないし、何の意図があったのかもわからない。けれど一瞬それが自分のことのように感じた彼女はまんまると目を見開き竜一の横顔を注視した。
高校生らしく幼さを残したけれど精悍な横顔は真っ直ぐに空を見上げている。耳にピアスが光っていることに、このとき初めて彼女は気がついた。ちらりと向けられた目がゆらりと揺れ、次いで竜一の肩が震え始める。終いには腹を折って笑い始めた。
「別に三村さんのこと言ってねぇよ。空が綺麗ッつったのにその顔!」
「う、うるさい!とっとと診察行って来い!」
思う存分ベンチの上で笑い、最後には白衣の天使であるはずの人物に横から脇腹に拳を喰らった。患者に何をするんだと抵抗すれば、足の怪我に腹は関係ないと突っぱねられる。真っ赤な顔に一しきり笑い終わると、ようやく竜一は隣に置いた松葉杖を手にして立ち上がった。
まだ慣れない松葉杖を使って慎重に歩みを進める。こんな距離を楽々と歩きは知っていたのは数日前のことなのに、動かない自分の体がひどく疎ましかった。それでも彼女に会えたのならばさほど悪くないんじゃないかと、誤魔化しだと分かっていながら少しだけ納得できてきた。
まだギプスを付けた足を下に付けると、激痛が走る。それを日に何度確認しただろう。何度己が空から落ちた事を確認して絶望を目の前に突きつけられただろう。竜一の病室にはまだ墜ちた日の新聞が取ってあるし、部屋には輝かしい記録が新聞のスクラップと共に残っているはずだ。当分処分できそうにない。
ゆっくりと歩いて行って診察室に入ると、担当の医師ではないが見覚えのある医師が鼻歌を歌ってそこにいた。一体なんでそこにいるのかと問う前に後からやって来た美紗にレントゲン室に連れて行かれて、今日も足のレントゲンを取った。それを見てその歳若い医師は術後の経過も良く、予定通り三週間後には退院できそうだと言われた。正直、退院するのが怖くないというのは嘘じゃあない。悲劇のヒーローとして空の下の世界に戻ることも、もう飛べないのだと実感することも今まで仲間だと思っていた人間に背を向けられることにも、振り払おうとしても振り払えない恐怖は常に頭の中にあった。
「でも油断して暴れんなよ。そしたら入院伸ばすぞ?」
「つか、先生小児科なのになんでここにいるんスか?」
「人手不足で俺が余ってたから」
目の前の医師は、本来は小児科の医者のはずだ。総合病院だからかもしれないけれど人手不足になったら他の科から応援が来るのかもしれない。目の前の先生は笑いながら「今救急忙しいらしいよ」と言った。だったら自分が行けば良いんじゃないかと思うのだが、彼はのらりくらりとしているのが彼のいいところだと思う。それに普段からフラフラしていて別の科でも話したりするので、知らない先生よりも気を使わなくて済んだ。
それから病室に戻った時に小児科病棟に入院しているという少女にぶつかった。そのときはただ元気な入院患者だな、と言うことくらいの感想しかなかったが彼女が美紗と話すきっかけを作ってくれたことは嬉しかった。
翌日も屋上で空に焦がれて見上げていると、昨日の少女が現れて几帳面にも礼を言われた。そうしたらまた美紗が現れたのでもしかしたらこの少女は彼女を引き寄せる力があるのかもしれない。そんな馬鹿な考えに囚われながら、気が着けば少女の家庭教師を押し付けられてしまった。それでも毎日彼女に会えるのならば悪くはないかと、久方ぶりに自然に口元に笑みが浮かんだ。
それから屋上での勉強会が始まった。ただ竜一は勉強が得意ではなく今までずっと跳んでいたから自信はない。彼女の勉強が簡単なものでよかったと安堵しながら、その間にもずっと空を見上げていた。真っ青な空に自分はいつか誰よりも近づけていたはずなのに、気がつけば誰よりも遠いところに墜ちていた。近くにいた分、そこは遠くなってしまった。だから、手を伸ばすことすら躊躇われた。
「外、気持ちいいですね!」
「うん、そうだね」
ノートに視線を落としていたはずなのにいつの間にか絵理花が空を仰いでいた。ちらりと向けた視線の先で少女が嬉しそうに目を細めている。この間まで空を見上げたこともなかったという話を聞いたときは驚いたが、確かにこの反応を見れば頷ける。初めて空を飛んだとき、竜一もそうだった。空がとても綺麗で全てが投げ出された感覚。空に融けてしまうようなその感覚。それが好きで一日中跳んでいたけれど、もうそれは叶わない。
急に目の前に突きつけられた己の中で何度も反駁した現実に不意に打ちのめされそうになり、青い空から目を逸らした。
ただぽかぽかと太陽の恩恵はひたすらに心地よく、それは勉強している人間だけではなくただ現実を受け入れられない少年にも一時の安らぎをもたらせた。気がつけば竜一も眠りの中に引き込まれた。そしてその中で、空から落ちた夢を見た。
それは日常の延長線。部活の後に仲間たちとコンビニに寄った。いつもと同じように笑いながら迫った大会についてだったり恋愛話をしたりして、そして別れた。フラッシュのように目を焼いた光。自宅近くの閑静な住宅街の中を大きな爆音を響かせて突っ込んできた真っ赤な単車が目に入ったのは、回る視界で後ろ姿。ブレーキの音は聞こえなかった。事故にあったのだと気づきはしなかった、けれどあの瞬間に空から墜ちるのだと、それは予感した。
目を覚まして、太陽のおかげではなく汗を掻いていた事に気づいてひどく寒気がした。ぽかぽかしている陽気に背筋が冷え指先が冷たくなっている。ふらりと松葉杖に頼らずに立ち上がり、空を透かしたフェンスに手を伸ばした。これをすり抜ければ、空を飛べるだろうか。飛べなくても、融けられるだろうか。
「大ニュースだぞ!」
フェンスに寄りかかって一息吐き出したとき、飛び込んできた声に思わず振り返った。一体何のニュースだと振り返れば、彼女の目が見る間に釣りあがってベンチに立てかけてある松葉杖を引っ掴むとこちらにズカズカと歩き寄ってくる。その目に鬼気迫ったものを感じて逃げたくなったけれど、足が言う事をきかなかった。
突きつけられた松葉杖はしかし渡される訳ではなくすぐ傍に投げ出される。カシャンとフェンスにぶつかった軽い音、刹那の跡にガシャンと竜一が押し付けられる大きな音。見下ろすそこには美紗の険しい顔があった。捻り上げられた胸倉が少し苦しい。
「杖放って、何してんの?」
「…………」
「何をしてたのかって訊いてんのよ!」
そのまま捻る要領で腕を回されて、片足しか自由のきかない竜一の体はそのまま傾いで結局床に尻餅をつくように投げ出された。目の前に一瞬広がる空は青い。こんなに重力を感じる重い空は初めてで、そしてまた自分が落ちて地を這いずり回る人間なのだと突きつけられる。
何をしていたかなどと言う質問は、ひどく難しかった。ただ空に引き寄せられてふらふらと近づいて、けれど融けることを阻むフェンスに押し止められて止まった。何をしていたわけではなく、ただそこにいたかった。一センチでも一ミリでもいいから空に近づきたかっただけだった。だから、口から出てきた言葉はひどく不安定だった。
「空、見たくて」
「空?」
「空に近づきたかったから」
そんなに遠くない場所から風に乗って応援団や吹奏楽部の楽器の音や選手たちの歓声、ホイッスルの音が聞こえてくる。近くのグラウンドで大会が行われる日が今日だと思い出したのは、ついさっき。もう自分には関係ないからと忘れようとしていた。どれもこれも竜一にとっては慣れ親しんだ音だけれど、まだそれは懐かしさ以上に悔しさを押しつける。本当は、自分はあの場所で誰よりも輝いていたはずなのに。今日だって、本当はあそこにいたはずなのに。空は急に、遠くなった。
「俺はもう、飛べないから」
あの空にはもう近づけない。それは絶対で、言葉にはならない感情に呑まれて何度竜一は人知れず涙を流しただろう。それでも人前では泣かないと誓っていた。そんなの自分に似合わないし、何よりもそんな自分は格好悪いと思っていた。
だから、今だってその涙を隠すために必死に長くなった髪で目を隠し、またのろのろと立ち上がる。フェンスに上体を預けて視線を向けるところも見つからず、結局俯いて自分の爪先を見つめた。
「そうそう、ニュース。ひき逃げの犯人捕まったって」
「へぇ。俺に何の関係があんスか」
「自分の事故相手じゃん。少しは気も晴れるかなって思ったんだけど?」
「そ、っすよね……ありがと」
「どういたしまして。絵理花ちゃんのことよろしくねー」
それを告げに来ただけなのか、彼女はひらりと身を翻すと屋上を小走りで出て行った。だから、竜一の絞るような声質の変化には気づかなかった。途中でベンチで眠ってしまった絵理花の心配をしながらも一瞬だけで、すぐに姿を消してしまう。
彼女が行ってしまってから深く息を吐き出して、ゆっくりと視線を上げた。目に飛び込んできた青は、皮肉なほど澄んでいる。雲一点もない真っ青な空に、耐え切れずに顎が揺れた。鼻がツンと痛み、涙の到来を告げる。彼女が行ってしまってからでよかった。屋上に誰もいなくてよかった。ここでなら、心置きなく泣くことができる。
「犯人捕まったら、また飛べるようになんのかよ……」
ホイッスルの音も響く歓声も全て自分のために奏でられていたと、ついこの間まで本気で信じ込んでいた。それでも現実は脆く厳しく真実を突きつけてくる。もうあそこに戻ることは許されないのだと。陸上が、空を飛ぶことが何よりも好きだった。毎日がハイジャンプで構成され、過去も未来も空を飛ぶ自分しか想像できなかった。それなのに、奪われた未来。
悔しくない訳がない。もう何日も何日も、それこそしつこいくらいに繰り返し自分に問いかけたのは未練があるか。ないわけがない。未練しか残っていない。まだ中学記録を持っているのは自分。高校記録だってこの間更新したばかりだし、今日のこの大会だって、あそこで飛んでいるのは自分だったはずなのに。ここで晴れやかな青空に融けて、新記録を出していたはずだった。非公式に新記録を出したのは事故の前日だった。
「悔しくないわけねぇだろ!?飛ぶために生きてたんだ俺は!なんで俺なんだよ!なんで……」
どうして自分が奪われなければならなかったのか。運がなかったと何度も自分に言い聞かせた。それでも、納得なんてできなかった。どうして自分なんだと詮のない問いかけは真綿のように首を絞め、いつしか思考まで奪われる。目の前の空は滲んでも青い。目から零れる涙が頬を伝うのが許せなくて背を折るようにフェンスにもたれかかると、耐え切れなかった水滴が目から睫毛を伝い直接下のコンクリートの上に堕ちていく。あの日の自分も、この涙のように落ちたのかもしれない。ただ無重力に、運命的に。それは逆らうことを許さない。
最後には絞り出すような声になり、口元から嗚咽が漏れる。最近やっと、涙がつまって目を覚ますことがなくなったのに、きっとさっき見た夢のせいだ。
「もう飛べない……」
言葉にして、自分に打ちのめされた。もう飛べないのだと分かっていながら未練がましくホイッスルの音を聞き歓声の中に帰りたいなどと思ってしまう。あの場所にしか居場所はなく、それを失った今どこにも身を置く場所がない。
ただ空に近づきたくて、また足が痛いとかそんなものは痛覚が伝えてくれなかった。右足を引きずるようにして再びフェンスに上体を預けた。体を折れば、下が良く見える。いっそあそこに堕ちるために飛んでみようか。空に近づける。ギシッと軋んだフェンスの音、頬を打つ風。どれも知らない感覚で、でも恐怖はなかった。もしかしたら、もう生きることにもう嫌気がさしているのかもしれない。空を飛ぶことができなくなったあの日に、もしかしたらこの命は燃え尽きた。
「やめてっ!」
一瞬グラリと揺れた体。別に本気で死のうと思ったわけじゃあない。けれどもう一度飛べるのならばそれでもいいかと、その程度のこと。
けれど前のめりの体が何故か止めとばかりにタックルを喰らった。思わずフェンスにしがみ付いて本当に飛び出すことを反射的に本能が止めた。腕の力で床にみっともなくもへなへなと座り込み、漸く足の痛みが感じられる。何だか妙に楽しくなって、笑いがこみ上げてきた。もう飛べないから死んだと思っていたのに、みっともないくらいに生きることに執着できた事実が嬉しい。そしてその滑稽さが、笑みを誘った。
下肢に感じる温もりになんだろうと思って視線を移すことを思い当たり、目をやるとさっきまで眠っていると思っていたパジャマ姿の少女が足に縋りついていた。さっきまで気にも留めず、それまで存在すら認識していなかった彼女になんだか生き返らせてもらえたような気がした。
「足が治ったらまた飛べるようになるんでしょ!?もう飛べないなんてそんなこと言わないで!」
「何で……」
「だって足はまだあるし、健康なんだよ!だから、そんなこと……言わないで」
どうしてか目の前で泣き出した絵理花に竜一は目を白黒させた。何でそんなことを知っているんだと訊こうと思ったがそれは泣き出した彼女の前に言葉にならず、別にいいかと口を噤んだ。わんわん泣き出した絵理花の頭をぎこちない手で撫でながら見上げた空はとても近く、まるでこのまま吸い込まれてしまいそうだった。
ギプスが取れた。久しぶりに見た自分の脚は右足だけが妙にやせ細っていて妙に笑えた。退院はまだ先で、これから先にはリハビリが待っている。主治医に念を押されて無理をせずにリハビリをしろと言われたけれど、固定されていた足が自由になっただけで舞い上がっていた竜一はその日からさっそく右足に筋肉を取り戻すために少しずつでも運動を始めた。これで元通りに飛べるようになるとは到底思えないしそんな夢はもう見ることすら許されないけれど、まずは筋肉量を同じにしなければいけない。
「やっほ、竜一。もうすぐ退院なんだって?」
「よう」
平日の午後、学校が終わる時間じゃあないはずなのに友達が見舞いにやって来た。時計を見れば一時すぎ、確実に午後の授業があるはずだ。時計を見てから親友に視線を向けると、彼はどこか明後日の方を見て笑いやがった。やっぱりサボりか。別にいいけれど、ベッドを我が物顔で座っているから怪我人でありベッドの主である竜一はどこにいればいいのか。ただ筋トレ代わりに立っているつもりでいるが、気づいてベッドの端に座らせてくれた。自分のベッドのはずなのに。
「まだ授業中だろ?」
「まぁな。昨日大会あったじゃん、あれの結果知りたいかと思って」
「いらね」
「まぁそう言うなって。どうせお前も相談あるんだろ?この俺に」
ほら、と友人が出してくれた一枚の紙を思わず受け取って、後悔した。見る気も失せてそのまま枕の下にクシャクシャにして突っ込み、目の届かない所へと遠ざける。決して逃げている訳ではないけれどできれば近づきたくない、そんな変な予感だった。
友人が「吐いちまえ」と笑った顔に、いつものことなのでいつものように正直に白状する。
「惚れました!」
「今度は誰?」
「看護師の三村さん」
「へー、看護師」
正直に惚れっぽいということは分かっている。今までだって何人も何人も恋をして、結構な数に振られてきた。だから今回もそれと同じようなものだった。ただそれが陸上の代わりになっていることも事実だ。彼女に惚れることで、恋をすることで今まで陸上という部分を埋めようとしているのかもしれないし、落ち込んでいたときに優しくされたから好きになってしまったのかもしれない。
落ち込んでいるところを元気付けてくれたのは彼女で、歳よりも幼く見える笑顔でどうにか涙が零れなかったときもあった。彼女の目の前でみっともない部分は見せたくないと思って気丈に振舞っていた時もある。少し乱暴で天真爛漫な彼女が、いつの間にか本気で好きだった。
「どこがいい訳?」
「飛びぬけに明るい所。病院にいるとさ、どこか暗いところって絶対あると思うんだけどなんかすっげぇ明るいんだもん」
生と死の入り混じった病院と言う箱庭で働くということは、必ず人の死に直面するということだ。彼女は外科の看護師だからそんなに多いわけではないだろうけれどでも確実に、命が費える瞬間を見てきたはずだ。それなのに竜一には決して彼女の暗い面を垣間見ることはなかった。彼女には生ける屍の如き姿を晒していたはずなのに、彼女は常に明るく振舞っていた、そこに惹かれた。
「それに、顔可愛いし」
実は、これが第一印象であって本心。要は、初めは一目惚れだった。でもそれだけならばよくあるミーハーな気持ちだけだった。けれど彼女と話して好きになった。どんどん好きになって、一人胸に秘めておくには大きすぎる感情になった。正直な話、彼女をおかずに抜いたことだってある。足が悪いけれどそれは足首だけであって、それより上は正常に機能した。
友人はにやにやと何か含みのある顔で笑っていて、何となくいやな気分になる。いつものことだからさして気にならないが、何か見透かされているような気になる。
「白衣の天使な、マニアックなやつめ」
「うっせぇ。今回はマジなんだよ」
「じゃあマジらしく、下半身の治療して〜とか泣きつけばいいじゃん」
「ばっ!」
今まではこんな話をしていても平気だったのに、どうしてか彼女を話題にはできないようで急に恥ずかしくなった。隣のクラスの誰はもう男と寝ただとか、あの子の胸は大きいだとかそんな話をしていたとは嘘のように口に出すことすら憚られた。
その様子に目の前の友人は面白そうに軽く瞠目した後、とても軽く「悪い悪い」と謝ってくれたが本当に悪いと思っているようには思えなかった。
「マジ惚れな訳ね、今回は」
「……マジ惚れなんだよ、今回は」
しみじみと言われたので、それを繰り返すように呟いてみると上手く自分の心にはまった。今まで何度も恋をした。でもそれが全て本気じゃあなかったかのような気になるから不思議だ。それだけ今、あの人しか見えない。
「けっこう三村さん、俺のこと気にかけてくれてるって言うか……頻繁に会うっていうか」
「で?」
「……もしかして、脈ありかなーなんて……」
彼女が外科の看護師だからと言うものあるが、足の怪我だけだから別に付き添いが必要な訳じゃあない。だというのに、彼女と一日一度は遭遇し言葉を交わしている。しかも日がな一日屋上にいるのに、だ。ある時は廊下でばったりと言うパターンもあるけれど、大抵が屋上まで来てくれる。もしかしたらただ理由をつけてサボりたかっただけかもしれないけれど、それでも理由にしてくれているのなら嬉しい。
しかし友人は目の前で複雑そうな顔をした。どこか哀れんでもいるような表情に何か見当違いだったかと懸念したが、彼は曖昧に笑った。
「うん、そっか。竜一がそれで元気になれるんならそれが一番いいや」
「なんだよ?その言い方」
「……。別に、その人への想いが陸上への代わりじゃないんならいいやって思って」
「…………」
「ちょっ!いきなり黙んないでくんない!?」
言い当てられたことにどきりと高鳴った心臓は、それが本当に思っても見なかったことだからか心の奥底で生まれた正解を掘り当てられた空かどうかは分からない。でもどうしてか、陸上と言う言葉にひどく不安なものを感じた。それは自分が不安定になっているからかもしれないが、不意に足が消えてしまった気がして慌てて奇妙に細い足に触るけれどちゃんとそこに存在している。
「……足、ちゃんと付いてるな」
「何、本当にどうしたの?」
「飛ぶことはできるんだなって、今更思って」
「飛ぶことはできるけど、翼はもがれた。それだけだ」
「おう」
走れなくなったわけではない。飛べなくなったわけではない。足はちゃんとついているし、動くようにもなる。ただ、誰よりも高く飛ぶための翼が折れてしまっただけだ。だからまだ、陸上をやめなくてすむ。それがどんなに惨めなことになっても、飛べる。
自分の中で反芻して、それを始めに言ってくれたのかやはり彼女だったことを思い出した。それなのに今の今まで受け入れられなかった。けれど再び教えてくれたのは年下の女の子で、今は友人がダメ押しのように確認させてくれた。ありがとうと言いたくなったけれど気恥ずかしいので、やっぱり言ってやらない。
「じゃ、俺帰るわ」
「おー、悪かったな」
「いいって。また来るからさみしがんなよ!」
「言ってろ、バーカ」
笑って立ち上がった友人をその場で見送って、部屋の扉が閉まったのを確認してから枕の下に突っ込んだ少しクシャクシャになった紙を取り出すと丁寧に皺を指で伸ばして記録をなぞった。まだ自分の記録を抜かれてもいないし、その予感もない。ただもしこの大会に出れていたら記録を塗り替えられただろう。
一度目を通したその紙を丁寧に折りたたんで紙飛行機を作ると、窓からそれを投げた。スーッと低く橙の濃くなった空へ飛んでいった紙を見送って、思わず目を細めた。もう空と部夢は見られない。きっとあの飛行機と一緒に、堕ちた。
−続−
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